受験社会について考えて見た
受験に失敗すると、私の人生はもうおしまいと韓国の若い人達は嘆くそうだ!しかし、こうした過激な受験戦争を日本人は笑っていられない。大学の学風、自分の適不適を考えずに、少しでも偏差値の高い大学に入ろうとする。
高石友也が「受験生ブルース」を歌っていたころ、今から50年ほども前、歌の内容ほど、受験競争は厳しくなかったように思う。
というのも、高校卒であろうとも、三流大学の卒業生であろうとも、企業の高景気によって、卒業後に安定した生活が望めたからだ。
私は言ったものだ。「公務員?学校の先生?ずいぶん地味な職業を選ぶね!」と。余勢を駆って、私は大学を中退してしまった!
大学は例の全共闘の大学紛争によって、ほぼ二年間講議が開けないでいた。この二年間のブランクを埋めるために、少なくとも一年はかかると思われたが、大学も国もわずか一週間余りの「特別講義」で卒業証書を渡す、乱暴な手段にでた。
つまり、「社会」には定量の卒業者が必要であったのだ!彼らが何を学ぼうが関係なく、一定の労働人口を必需としているのだ。
ここで、大学の本質が、私には見えてしまった!つまり大学とは「選別のフィルター」にすぎないのだ。大学が決まれば、就職先が決まってしまうのだ。
今よりは純粋な心を持った私は、邪悪な素庵になる前だったから、「卒業証書などなくたって一生食っていけらあ」とほざいて飛び出してしまったのだ!
一週間も講議を受ければ、卒業できる「うまい話」をけって、中退した私は馬鹿だったなあ!・・・
さて、この「愚かな決断」の背景にあるものは「余裕ある社会」の存在だ。もし、今みたいに、ブラック企業だらけの社会であったなら、私は「粛々と」一週間の授業を受けて大卒とはなったではありましょう!
こうして考えると人を蹴落として、勝者にならなければ、悲惨な人生がまっているような社会はお断りだ。
アメリカの小説家オー・ヘンリーは「警察と賛美歌」のなかで、凍った冬をやり過ごすために、小犯罪を繰り返して刑務所入りを狙う男の話を書いているが、日本でも近頃は完璧な医療保護までついた快適な刑務所生活を求めて犯罪が増えているそうだ!
現今の日本で生活保護の受給者になるより、刑務所入りが手っ取り早い生活防衛だということは本当に情けないことだ。
せめて、刑務所並みの、生活レベルが国民に保証されていれば(ニガ笑い!)過激な受験競争は緩和されることは、間違いない。
娑婆世界 刑務所よりも つらいのだ 素庵