九州に行き、太宰府跡と岩戸山古墳と水城(みずき)を見てきました。
社員旅行で、別府、湯布院、福岡を回ってきた。幸いなことに旅行三日目に福岡で自由行動が可能になった。このチャンスを逃す手はない。①岩戸山古墳(「磐井の乱」の磐井の君の墓)➁太宰府跡地③水城この三カ所を電車・バス・タクシー・徒歩で繋いで、午後四時の福岡空港集合に間に合うだろうか?
おいしい朝のホテルの食事を涙を呑んで断念して、西鉄、福岡駅始発の五時十五分の電車に乗れば、岩戸山古墳最寄り駅の久留米に六時ごろ到着できた。そこからバスが出ている。四十分ほどで岩戸山古墳に五分の福島高校前バス停に着いた。バス停から少し坂を上がると岩戸山古墳が見えてきた!
磐井は継体天皇の百済救援の韓地出兵を阻止し、百済の敵である新羅に通じたとして、大和軍に攻められた。書紀によれば、一年半の激しい戦闘の後に磐井は遂に敗れた。
磐井の遺骸は、全長150メートルほどの前方後円墳「岩戸山古墳」に葬られたと書紀は記す。「九州王朝存在説」で有名な古田武彦氏は磐井を「天皇」であったとして、古代史愛好家には「岩戸山古墳」は、ちょっとした「聖地」なのだ。
素庵は、ある感動を持って、早朝の40メートル四方の裁き場所と墳墓のまわりを歩いた。裁き場に半身大の五基ほどのレプリカ(模造)石人像が朝陽を浴びていた。
残念ながら、百基はあると言う石人・石像は新設資料館が、まだ準備中で見ることができなかった!
さて、そこからバス停→西鉄久留米駅→西鉄都府楼前駅(なんという駅名であろうか!地元では太宰府跡地を都府楼と呼んでいるのだ!つまりコレを訳せば、みやこの御殿だものね)で降りて歩くこと15分で太宰府跡に着いた。
後ろになだらかな山をかかえた、五千坪ほどの敷地が、巨大な円石の土台を残して広がっている。ここはひょっとして九州王朝説で言う「みやこ」であった可能性がある。・・・都府楼!地元では太宰府をこのように呼んでいることに新鮮な感動を覚えた!
ふたたび西鉄都府楼駅に戻り、今度はタクシーで、水城が見渡せる小山(福岡県太宰府市国分二丁目十の一国分小学校裏山)があると言うので、そこに連れて行って貰った。およそ2キロ850円で、そこに着いた。さらに学校裏の細い山道を十分ほど上がると。目の下に「水城」が見渡せる!
日本書紀は水城について次の様に書いている。
天智天皇三年(664年) 大堤を築きて水を貯めしむ。名づけて水城という。
水城は両岸の土手の高さが20メートル堀幅200メートル長さ1.2キロメートルの長大な防塁である。663年に韓国の白村江で倭と百済の軍一万人が唐と新羅の連合軍によって全滅に近い敗戦を被っている。近々唐は倭国を侵略する可能性がある!だから、この防塁を作ったと書紀は言いたいのだろうが、この長大な防塁が、外国の戦役に苦しんだであろう筑紫の人々の手にによって一年後に簡単に完成するはずがない。ここには歴然とした日本書紀の嘘が見えてはいないだろうか?。
九州歴史資料館の分析によれば、堤の地盤固めに使われている何層もの木枝の炭素14放射物質からは、上層が660年、中層が470年。下層が240年であるという結果がでているという。(しかし、素庵の知識では炭素14測定では、少なくとも50年の幅でしか年代測定は無理なのだが?)
しかしおおむね西暦240年といえば、卑弥呼が中国魏に使者を使わした年代ではないか!あきらかに、この防塁は、防塁の東(太宰府もそうである)の「ある国」を守るため築造されたものなのだ。
240年~470年~660年 この裏には大和朝廷以外のある大国の影が見えるのではないだろうか!
あああああ キャリーバックで 山登り 素庵: