日記文学について考えてみた。
キンドルでは、「紫式部日記」と「一茶 父の終焉日記」を現代語訳してみた。言ってしまえば、岩波、角川の先生達は古語を理解していても、けっして現代語が垢抜けているわけではないので、なまいきながらも、「吾妻鏡」や「古事記」「日本書紀」で古語になれてしまった素庵が、今時の中学生にも理解できるように訳出したわけなのだ。
日記文学はフィクションではない。したがって過去からのレポートという側面があって、非常に興味深い。「紫式部日記」は、藤原氏中興の祖とも呼ぶべき、藤原道長に女官としてトレードされた紫式部が、道長邸、皇居における数ヶ月を記したものだ。
道長の娘が皇后となって、臨月を迎えている。道長の願いは、次期天皇の祖父となって、大和の国の実質の支配者になることだ。この有様を、紫式部は、冷静な視線で日記として記している。こうした記録は、私にとっては、「源氏物語」よりも価値があるように思える。あたかも過去に素庵がタイムスリップして眺めている趣がある。
こうしたおもしろさは「一茶 父の終焉日記」にもある。諸国を俳諧師匠として歩きながら、たまたま古里の信濃に戻ってくると、折も折、父が野良仕事のさなか病に倒れる。もともと、一茶は義母に愛されず、心配した父が、まだ少年であった一茶を江戸に出した経緯があるから、一茶の行く末を心配した父はこの際と義母・義弟・一茶の相続を取り決めようとする。所有する六千坪の農地を、一人で相続しても、普通の百姓に過ぎないのに、一茶と義弟と三千坪づつにするとすれば。豊かな百姓とは言えなくなってしまう。こうした事情が、看護をする一茶の日記から読み取れる。
さて、今読んでいる土佐日記は、土佐→京都を船旅をする女性が書いたという形で男である、紀貫之が日記体で書いたものであるが、当時の船旅の鈍足な事に、改めて驚かされる。旧暦十二月二十日に土佐を出て、船は少しの悪天、雨でも進まない。浪が穏やかで雨のふらない日以外は船はどこかの港に停泊する。浪が穏やで順風(船の後ろから風が吹き、船を前に進める風)の時には帆を上げて漕がずに航海するのだが、それでもなんと京都到着が二月十六日である。つまり穏やかといわれる瀬戸内海を二ヶ月もかかっている!
素庵は今なおキンドルで「九州王朝伝説は本当か」を書き続けているがこれは重大なヒントだ!この鈍足さでは、軍船でも韓国に半年もかかってしまうのではないかと思われる。
だから、大和王朝が韓国を支配したなどと言うのは全くでたらめではないだろうか?