このぼろぼろの現代詩!
自民党が参院選で勝った。それはそれとして今日の読売夕刊(2013年7月22日月曜日)に関口涼子なる「詩人」の「詩」なるものが載っている。
となりにいるひとは
ヘーゲルによれば 人のもっともふかい感情は 怖れと恥だって おし
えてくれるひと そうかも しれないともあれ恐れは うまれたときか
らけっしてきえないものだ からでもわたしにいつも散歩のあいてのよう
にともなっているのは悲しみ 恐れがみずからの死とわかちがたいとす
れば悲しみは恐れと背中あわせあいするひとの死とむすびつく者 ひ
とりでいきつづけることと自分だけが旅立っていくこと そのどちら
がと問うときたしかに あるくわたしのそばにはかっていなくなったひと
のけはいがあらわれ ジャスミンのにおいがはなをかすめる(わたしの
みぎがわのカフェからやってくる あのすぐちかくにこしをおろしてい
たらどんなだろう)わたしのとなりにいるかっていなくなったこのひと
はやはりそのにおいをかいでいるのかしら。(以下略)
関口涼子は1970年生まれ。高校在学中に「現代詩手帖」(詩誌)賞を受賞。現在はパリに住み、仏語の著作も10冊を越える。今年、フランス、アカデミーの「ヴィラ・メディ賞」を受賞。
30年前、素庵は詩誌「現代詩手帖」のこんな詩がいやで詩誌「詩学」に投稿を続けていたのだ。けれども、詩学で選ばれる詩も上のような詩が多かった。
素庵思うに、歌えもしないような詩は詩ではないと。そんなものが詩でゴザイマスと跋扈しているのは誠に片腹いたい。今、我々が詩と呼んでいるものは、古来「歌」と呼ばれていたもので、中国のそのようなものが詩と呼ばれていたから、日本でも「歌」を「詩」というようになったのだ。
上記のようなものが果たして詩であろうか、あきらかに歌ではないのだから詩などではありはしない。
それを、なんというか。それにふさわしい言葉がある。「雑文」という言葉である。
関口涼子がなんの賞や出版をしようが、詩人などであるものか!