5月4日(金) 続日本紀に見える平城京造営の記事
飛鳥の里から午後三時過ぎに、近鉄橿原神宮前駅より、京都方面の平城京跡に向かった。特急で約20分、平城京跡まで、もっとも至近の大和西大寺駅に到着。
そこから歩いて15分ほどで、復元なった屋根瓦9万7千枚使用・横44㍍縦20㍍高27㍍という壮大な大極殿と、それに従うかのような800メートル離れた朱雀門が建つ、広大な空き地の平城京(奈良の都)跡地に着いた。
敷地がほぼ一キロ四方という、この跡地は、訪れる者に、驚きを与えずにはいない。しかしここに遷都する前の都「藤原京」ですら大和三山を取り囲む五キロ四方であったというから、本当の「平城京」の広がりはこれだけのものではなかったのである。
日本書紀は天智・天武・持統天皇で記述を終えている。平城京に関しての記述を読むには、次代の「続日本紀」を開かねばならない。文武天皇が巻頭にあって、次に、平城京を開いた元明天皇の条がある。
元明天皇の和銅元年(708年)に次の記事を見ることが出来る。
正月十一日
東方の武蔵国より、純銅に近い銅が産出したと奏上の上、献上してきた。これは天地の神が、朕の政治を褒められた祝福である。よって、元号を和銅と改め、人々の官位を上げるとともに、大赦を行う。しかし『山沢に逃げ、禁書をしまい隠して、百日たっても自主しないものは、本来のように罰する』。(二重かっこは、素庵表記。この文書には特別な関心があるのだ)
二月十五日
昔、殷(中国古王朝)の諸王は五回遷都して讃えられ、周の諸王は三度遷都して太平の誉れを残した。それゆえ心安らかに、久遠の住居(藤原宮)を変えよう。平城の地は、陰陽の吉相に充たされ、ここに都を建てるべきである。
その資材は必要応じて箇条書きにして奏上せよ。秋の収穫の終わるのを待って道や橋を造らせよ。子が親を慕うように依り来るように、人民の自然の発露を尊重して事を行い、人民の間に騒ぎや苦悩を起こさせてはならない。制度を適切なものとして、負担を与えるものにしてはならない。
九月十四日
天皇は平城に行かれて、その地形をご覧になった。
九月二十八日
天皇は藤原宮に戻られた。
十月二日
使いを遣わして、伊勢大神宮に、平城京造営の事を報告した。
十二月五日
平城京の地鎮祭を行った。
まだまだ、平城京造営の記事は見られるのだが、今日はここまで。
復元された、遣唐使船も見て、素庵夫妻は、午後六時近く、京都に向かったのであった。