5月4日(金) 晴 祭日 飛鳥を歴史サイクリング
大和・奈良・京都への旅行挙行。今日は品川より新幹線で京都に向かう。京都着10時過ぎ。近鉄吉野線特急1時間で最初の目的地橿原神宮前駅に到着する。橿原駅前で自転車を借りた。(一日千円)
橿原駅から15分ほどで、大和三山が眺められるという飛鳥川の横の丘である甘橿の丘(裾には、蘇我氏の宮殿があったという)に到着。前日までの悪天候の余韻はまだ残っていて、ときおり微細な雨が降ってくる。しかし素庵は他の運にはとっくに見放されているが、天気運はひどく強く、自称「昭和天皇以来の晴れ男」を自称している、愚かな奴である。しかし、自称ほどに、天気には恵まれている。今度の旅行もきっと大丈夫。
丘に登ると、オオ!あこがれの大和三山が平野に巨艦三隻を点在させたように、その麗しい姿を浮かべているではないか。この三山が取り囲む三角の地域が、日本初の都として16年間日本最古の碁盤の目状の都として歴史に名を留める「藤原京」の夢の跡なのである。この都は持統天皇4年(690年)に着工され飛鳥御原宮から持統8年(694年)に遷都した。完成は景雲元年(704年)と言われている。
日本書紀の持統天皇4年(690年)4月10日の条に、こう書かれている。「高市皇子、藤原の宮地を視察なされた。多くの公卿がそれにしたがった」
日本書紀、持統天皇8年(694年)12月の条には「藤原の宮に遷りなされた」とある。
和銅3年(710年)に平城京(奈良の都)に遷都するまで、藤原宮は持統・文武・元明、三代16年の首都であったのだ。(平城京は、この地より近鉄特急で京都方面、大和西大寺駅にあり、北に20分の距離である)。
甘橿の丘の北方向の眺めは、上記の様だが、目を東に転じると、眼下に飛鳥の里を見ることができる。ゴーンという鐘の音は、小さく見える、日本最古のお寺、飛鳥寺のものではなかろうか。
飛鳥浄原宮は、現在の研究では伝飛鳥板葺宮跡と言われている場所にあったようだ。板葺きの宮(それまで宮殿は茅葺きなどであったからこの名がついたという)は、天皇をしのぐ勢力を誇った蘇我入鹿が645年に殺された、「大化の改新」でしられる宮であるが、その後、宮が転々として日本書紀、天武天皇元年(672年)九月の条のあと『この年、宮を岡本宮の南に造る。その冬に遷りて、住んだ。これを飛鳥浄御原宮という』という記事を見ることができる。板葺き宮から転々として、最後に岡本に宮を造っていたが、板葺き宮跡地に宮を造って、浄御原と名付けた様なのである。
この場所は、天樫の丘から自転車で10分という至近距離にある。これらの位置関係からいうと飛鳥浄御原から藤原京への移動も、近所に移動といったものであったことが理解される。素庵は甘樫の丘→飛鳥寺=蘇我入鹿首塚→飛鳥板葺宮と走って、午後2時半樫原神宮駅より、平城京跡に向かった。
百聞は一見にしかず思い知るなり 素庵