第1話 桔梗屋のすず
必死の訴えは、三度とも門前で追い返された。
「居候の娘の申すことなど、聞くに値せぬ」
そう言い捨てた役人の顔を、すずは生涯決して忘れまい。
ほんの少し前まで、あの店には笑い声よりほかに何もなかったのに…
梅の香が、まだ朝の冷たい風に混じる頃だった。
桔梗屋の朝は、今年十五になる少女、すずが暖簾を掛けることから始まる。
五つの冬、軒先で行き倒れていたところを拾われて、今年で十年だ。
「すず、二番のお座敷にお茶をお願い。お客様は左の肩をかばっておいでだから、湯呑は右に置いてさしあげて」
帳場から顔も上げずに、養母の志乃が言った。
「どうして、肩をかばっておいでだとわかるの?」
「戸をお開けになるとき、右の手しかお使いにならなかったからだよ」
志乃は筆を置き、ふっと笑みをこぼした。
「商いというのはね、品を売るより先に、人を見ることから始まるんだよ。お前にも、もうそれができるはずさ」
茶を運ぶと、客は目を丸くして、右の手で湯呑を取った。
「よく気のつく娘さんだ。桔梗屋の跡取りかい?」
「いえ、居候にございます。けれど、ここが私の家です」
奥で、志乃が小さく咳払いをした。
照れ隠しだと、すずにはわかった。
昼過ぎ、隠居の宗兵衛が顔を見せた。
かつては大店を率いた人で、今は身代を倅に譲り、道楽三昧の日々だという。
桔梗屋とは古い馴染みだが、今日はどうにも浮かぬ顔をしていた。
「志乃さん、ひとつ尋ねたいことがあってなぁ」
宗兵衛は懐から、布に包んだものを取り出した。
蒔絵の櫛であった。歯が二本、根元から折れている。
「亡き女房が好いておった櫛じゃのだが、うっかり落としてしもうてな。拵えた職人に直してもらおうと思うたら、何年も前に店を畳んで、行方が知れん。ほかの職人にも見せたが、この蒔絵は真似できぬと突き返されてしもた。誰かいい職人を知らんかのう」
すずは、横からそっと櫛を覗き込んだ。
黒漆の地に、金で描かれた蝶が二羽。
その片方の羽にだけ、細い銀の筋が一本、すっと引かれている。
(この銀の筋、見覚えがあるわ)
三年前、番頭のお供で漆の仕入れに出向いた先で、作業台の隅に置かれていた小箱。
あの蝶にも、同じ筋があった。
片羽にだけ銀を入れるのが己の作品だと、指の曲がった老人がぶっきらぼうに教えてくれたのだ。
「その職人さん、もしや、桜町の裏手においでだった、指の曲がったお爺さんではございませんか?」
宗兵衛が目を見張った。
「知っておるのか?」
「蝶の片羽にだけ銀を入れるのだと、ご本人から伺いました。お店は畳んでおいでですが、頼まれればわずかに仕事をお受けになると、番頭さんが申しておりました。ただ、気難しいお方で、紹介がなければ門前払いだそうにございます」
すずは少しばかり思案して、言葉を継いだ。
「私でよろしければ、ご案内いたします。その代わり、手土産は私に選ばせてください。あのお方、甘いものに目がないのです。黙って干菓子を置いていくと、口では文句を言いながら、残らず召し上がるのだとか」
宗兵衛はしばしすずを見つめていたが、やがて声を立てて笑った。
「志乃さん、この娘に跡を継がせるがよい。人と人とを繋ぐのが、まことに巧みじゃ」
志乃は、少し誇らしげに目を細めた。
「桔梗屋の自慢の娘でございますよ」
その一言が嬉しくて、すずは少しばかり頬が熱くなった。
三日の後、すずは宗兵衛を伴って桜町へ出向いた。
職人の老人は、戸口に立つすずを見るなり顔をしかめた。
けれど、差し出された干菓子の包みと、折れた櫛とを見比べて、長い溜息をついた。
「……てめえの仕事が壊れたままじゃ、寝覚めが悪いや」
そう言って、渋々ながら櫛を直すと請け合ってくれた。
帰り道、宗兵衛は幾度も目頭を拭い、しまいにすずの手を取った。
「恩に着る。何かあれば、なんなりとわしを訪ねておいで」
その約束の重みを、すずはまだ知らなかった。
その日の夕刻、店先で馬の足音が止まった。
「志乃殿、今日もよい反物はあるかな?」
武家の久我様であった。
十数年来のご贔屓で、五年ほど前からは月に一度、欠かさず自ら品を求めにおいでになる。
物腰がやわらかで、すずにも菓子をくださる優しいお方だ。
(久我様は品を見るふりをして、いつも志乃の手元ばかり見ておいでのような…)
そう思いかけて、すずは慌てて首を振った。
人様の胸の内を、勝手に詮索するものではない。
その日は、もう一人客がいた。
隅の縁台で茶を飲んでいた、奉行所の与力、朝比奈様である。
久我様が入ってくると、湯呑を持つ手がかすかに止まった。
(朝比奈様が、久我様を気にしておいでる?)
すずが首をかしげているうちに、朝比奈様は何事もなかったように腰を上げた。
「志乃殿、馳走になった。娘御は、よう気の回る子に育ったな」
「もったいのうございます」
「人の縁は、何よりの財じゃ。粗末にするでないぞ」
そう言い残して、朝比奈様は去っていった。
久我様がお帰りになったあと、志乃は仏間に入った。
毎月同じ日に、決まって手を合わせている。
位牌はない。
ただ、小さな白い布に包んだ何かが置かれているばかりだ。
「志乃様。それは?」
「生まれてすぐに逝った子の供養さ。顔も見られなかったんだよ」
志乃はそれきり何も言わず、静かに手を合わせ続けた。
すずも問わず、そっと隣に座った。
しばらくして、志乃がぽつりと言った。
「お前が来た冬にね、あたしは本当に救われたんだよ」
「私に、ですか?」
「ああ。代わりだなんて言ったら、お前に悪いけどね」
志乃はすずの手を、そっと握った。
「それでも、お前に会えてよかった」
その手は温かかった。
この温もりがいつまでも続くのだと、すずは露ほども疑わなかった。




