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白い結婚の三年が明けたので婚姻無効を申し立てたら、夫が「では、改めて求婚させてください」と言いました

掲載日:2026/09/26

 結婚して三年、夫は一度も、寝室のあいだの扉を開けなかった。


 樫の板の扉で、真鍮の鍵穴がひとつあった。

 鍵は、わたしの側に差さったままだった。


 婚礼の夜、夫はその鍵をわたしの手のひらにのせた。

 まだ温かい鍵だった。夫がずっと握っていたのだと、あとになって気づいた。


「わたしは、こちらからは参りません」


 それだけ言って、夫は出ていった。

 ケラー子爵エックハルト様。わたしより八つ年上の、無口な人。

 その夜から、夫は書斎で休むようになった。屋敷の者はみな知っていた。


 朝食の席では、夫はいつも丁寧だった。


「よく眠れましたか」

「はい」

「今日は冷えます。庭に出るなら、肩掛けを」

「はい」


 東向きの窓から強い陽が射しこむ朝、夫は黙って席を立ち、わたしの横の薄絹の帳を引いた。

「眩しくはありませんか」

「はい」


 それ以上は言わない。わたしも言わない。

 夫はパンを半分だけ食べて、葡萄酒の帳簿を持って立つ。わたしは屋敷の帳面をつける。

 客人を遇するような、手落ちのない礼儀だった。預かった娘に不自由をさせないためなのだと思っていた。

 三年、そうやって暮らした。


 二年目の冬に、わたしは熱を出して三日寝込んだ。

 夜中に目を覚ますと、暖炉の火が赤々と燃えていた。朝まで一度も絶えなかった。

「旦那様のお言いつけで」と、侍女は言った。

 屋敷の主人の務めなのだろう、と思った。妻を病で死なせては、外聞が悪い。

 三日目の朝、夫は食卓で「よくなりましたか」と訊いた。わたしは「はい」と答えた。それで終わりだった。


 借金の形に買われた妻には、それで十分なのだと思っていた。


 十八の秋だった。

 モーントシュタイン伯爵家は、父の借金で首が回らなくなっていた。貸し手は七港の毛織物商で、六十を過ぎた人だった。父はその人に、借金の代わりにわたしを嫁がせる話を進めていた。

 そこへ、隣の谷のケラー子爵が申し出た。借金はわたしが払う。その代わり、お嬢さんを。

 父はわたしに、一通の手紙をよこした。


 祭壇の前で、司祭様に問われた。

 汝はこの者を夫とするか。


「……はい」


 声が震えた。

 参列した人たちの誰にも聞こえなかったと思う。聞こえていたら困る。

 あれは、わたしの一生でいちばん恥ずかしい「はい」だった。


 毎朝、わたしは祈祷書を持って礼拝堂へ行った。

 その祈祷書には、三年、一度も開いていない頁があった。


    *


 十月の初め、父が訪ねてきた。

 借りた馬車の扉に、うちの紋章が小さく描き足してあった。月と石。絵の具が少し剥げていた。


「三年だな、ロジーネ」


 客間の椅子に腰を下ろすなり、父は言った。


「白い結婚は、三年で無効にできる。知っているだろう」


 知っていた。

 婚礼から三年、夫婦の交わりがなければ、教会裁判所が婚姻を初めから無かったことにしてくれる。


「社交界じゅうが知っているぞ。ケラー子爵が、妻の部屋に一度も入らないことをな。使用人の口は軽い」


 父は上着の内から、畳んだ紙を出した。

 教会裁判所への申立書だった。わたしの名を書く欄だけが空いている。


「可哀想に。お前は要らない妻なんだよ」


 父の声は優しかった。

 母が亡くなる前の、わたしを肩車してくれたころの声に、少しだけ似ていた。


「帰っておいで。谷も戻る。次の話もちゃんとある。今度は、お前を大事にしてくれる家だ」


 谷。

 母が遺した、葡萄畑の谷。


 わたしはペンを取った。

 署名は、震えなかった。

 自分で決めたのだと思った。


 夕食の席で、わたしは夫に告げた。

 婚姻無効を申し立てます。来週には、司教座から審問の日取りが届きます、と。


 夫はナイフを置いた。

 燭台の火が、皿の縁で小さく揺れた。


 長いあいだ、夫は何も言わなかった。

 引き止めてくれるかもしれない。

 ほんの一瞬、そう思った自分が、あとで恥ずかしくなった。


「……分かりました」


 夫は、わたしの目を見ずに言った。


「審問では、あなたには指一本触れていないと、わたしが証言します」

「……ありがとうございます」


 ほかに、言うことはなかった。


 その夜、わたしは自分の部屋の灯を消して、寝台に入った。

 窓の向こうに、書斎の窓が見えた。灯りが点いていた。

 しばらくして、その灯りも消えた。


 三年、毎晩そうだった。

 礼儀正しい人だ、と思った。

 妻が眠るまで起きているのも、きっと礼儀のうちなのだ。


    *


 審問の日は、十月二十日と決まった。


 無効になれば、持参した財産は返さなければならない。

 わたしは財産の目録を作ることにした。借金の形に来た妻が、きちんと片づけて出ていくのが、せめてものけじめだと思った。


 家令のアーダルベルトの部屋を訪ねた。

 先代様のころから、この家に四十年仕えている人だ。白い髪をきっちりと撫でつけて、机には帳簿が隙間なく並んでいる。


「持参の財産の証書を、見せてもらえますか。谷の葡萄畑のものです」


 アーダルベルトは、一度だけわたしの顔を見た。

 それから黙って棚の鍵を開け、紙を二枚、机に置いた。


 一枚は、公証人の控え帳の写しだった。


 ——南の谷、葡萄畑十二区画、ならびに墓地。

 ——亡きモーントシュタイン伯爵夫人の遺言により、娘ロジーネに帰す。

 ——右の者、成年に達したるにより、以後の管理を本人に移す。


 日付は、今年の三月十五日。

 わたしの二十一の誕生日の、翌日だった。


 もう一枚は、抵当を外した受取証だった。

 谷は、七港の毛織物商の抵当に入っていた。その借りを払い終えた、という証文。

 日付は三年前の十二月。支払った者の欄に、夫の署名があった。


「……谷は、父のものではなかったのですか」


 声が、うまく出なかった。


「父は、谷は家に戻ると言いました」

「旦那様に、お訊きください」


 アーダルベルトはそれだけ言った。

 それから、帳簿を一冊閉じて、付け加えた。


「奥様。谷は、ご覧になりましたか。この三年」


 見ていなかった。

 谷は、夫の家に取られたのだと思っていた。取られた庭を覗きに行くような真似は、したくなかった。

 母の墓があるのに。


 母が亡くなったのは、わたしが十四の冬だった。

 谷のことは、父が「お前が大きくなるまで預かる」と言った。わたしはそれを疑わなかった。娘が受け継いだ財産は、成年になるまで父が管理する。この国では、そういう決まりだ。

 預かったものを、父は抵当に入れたのだ。

 そして、わたしの持参の財産として、ケラー家に渡した。


 部屋に戻って、目録の紙を広げた。

 一行目に「南の谷」と書きかけて、ペンが止まった。

 返すものではなかった。初めから、わたしのものだった。


 では、わたしがこの家に持ってきたものは、何だったのだろう。

 衣装箱がふたつ。母の形見の前掛け。祈祷書。

 それから、震えた「はい」がひとつ。


    *


 夫は王室の酒蔵の用で、三日ほど町へ出ていた。

 その朝、わたしはアーダルベルトと馬車で谷へ向かった。


 半刻の道だった。

 三年、この半刻を、わたしは一度も越えなかった。


 谷に入ったとたん、わたしは馬車の窓に額をつけた。


 荒れていたはずの畑に、細い木がまっすぐに並んでいた。

 一本ずつ、白い支柱に結わえてある。葉はもう黄色く色づきはじめていて、その陰に、小さな房が下がっていた。

 黒に近い紫。指先ほどの粒。


 馬車を降りると、畝のあいだで、腰の曲がったおばあさんが顔を上げた。母のころから谷で働いていた摘み手だった。

 おばあさんは籠を置いて、泥のついた手を前掛けで拭いた。


「お嬢様。……やっと、見に来てくださった」


 わたしは、うまく返事ができなかった。


「植え替えたのです」


 アーダルベルトが言った。


「三年前の春に。古い株は病んでおりましたので」

「誰が」

「旦那様が。冬の剪定も、三度とも、ご自分の手で」


 畑の端、古い胡桃の木の下に、母の墓がある。

 墓石の前に、摘んだばかりの野菊が置いてあった。花はまだ萎れていなかった。


「毎週、日曜の朝に」


 わたしが振り返る前に、アーダルベルトは言った。


「葡萄は、三年目にならないと実をつけない。——奥様の母上が、よくそうおっしゃっていたと伺っております」

「母を、知っているの」

「旦那様が十二のころ、この谷へ剪定を習いに通われました。わたしがお供をいたしました」


 風が、畑の上を渡っていった。

 黄色い葉が、いっせいに裏返った。


 覚えている。

 ずっと昔、母が見知らぬ男の子の手に自分の手を重ねて、鋏の持ち方を教えていた。

 わたしは畝のあいだにしゃがんで、それを見ていた。男の子の顔は覚えていない。母の手が、男の子の手をすっぽり包んでいたことだけを覚えている。


 房のひとつに触れてみた。

 粒は固くて、冷たかった。三年目の、初めての実だった。


 畑の下の、母が葡萄酒を仕込んでいた石の家にも寄った。

 屋根が葺き替えられていた。窓の硝子は拭いてあり、搾り桶には新しい箍がはまっていた。


「来年から、ここで仕込めるようにと」


 アーダルベルトは、それ以上言わなかった。

 誰のために、とは。


 帰りの馬車で、わたしは一度も口をきかなかった。

 膝の上の手袋は、房に触れた指先だけが、少し湿っていた。


 その夜、夫は町から戻った。

 夕食は別々だった。夫は遅くなると聞いていた。


 寝台に入る前に、わたしは扉の前に立った。

 三年、差さったままの鍵。


 最初のひと月は、毎晩、鍵を回して閉めていた。

 夫は一度も来なかった。そのうち閉めるのをやめた。閉めても閉めなくても、同じだったから。


 鍵を回さずに、取っ手を引いた。

 扉は軽く開いた。


 夫の寝室は暗かった。

 燭台をかざすと、寝台は整えられたままで、枕がなかった。

 枕は書斎にあるのだと、少ししてから気づいた。


 振り返って、扉の向こう側を照らした。


 鍵穴がなかった。

 取っ手が、ひとつあるだけだった。


 夫の側からは、鍵をかけられない。

 わたしを閉め出すことも、自分が閉じこもることもできない扉だった。

 わたしが鍵を回さなくなってから、夫は開けようと思えば、いつでも開けられた。この三年の、ほとんどずっと。


 寝室の奥、書斎へ続く扉の隙間から、細い灯りが漏れていた。

 ペンが紙をこする音がした。


 わたしは燭台を持ったまま、長いあいだそこに立っていた。

 叩けなかった。

 静かに扉を閉めて、自分の寝台に戻った。


 窓の向こうの書斎の灯りは、わたしが灯を消してしばらくすると、消えた。


    *


 審問の前の日、父がまた来た。

 今度は、痩せた男を連れていた。七港の毛織物商の代理人だという。


「谷の葡萄が実をつけたと伺いました」


 代理人は、帳面を開いたまま頭を下げた。


「主人は、よい値をつけると申しております。明日のお裁きが済みましたら、売り渡しの書類を」

「あとでいい」


 父が遮った。代理人は、わたしの顔をちらりと見て、帳面を閉じた。


「主人は、お嬢様のこともまだ、たいそう気にかけておりまして」


 父が咳払いをした。


 代理人が馬車に戻ったあとで、父はわたしの手を取った。


「谷を売れば、借金はきれいになる。お前の次の支度もできる。……分かってくれるな。家のためなんだ」


 父の上着の袖口が、すり切れていた。

 母が生きていたころ、父はいつも、袖口のきれいな人だった。


 わたしは何も言わなかった。

 控え帳の写しのことも、言わなかった。

 言う前に、確かめなければならないことがあった。


 その夜、わたしは初めて書斎の扉を叩いた。


「どうぞ」


 夫は机に向かっていた。

 机には、細かい字でびっしり書かれた帳面が開いてあった。日付と、区画の番号と、枝の数。剪定の記録だった。

 いちばん上の日付は、三年前の一月。——第一区画、古株を抜く。

 几帳面な、少し右に傾いた字。朝の食卓で、葡萄酒の帳簿をつけるときの字だった。

 壁ぎわの長椅子に、枕と、畳んだ毛布があった。


 夫は立ち上がりかけて、やめた。

 わたしが、扉の前から動かなかったからだと思う。


「谷を、見てきました」


 夫は、ペンを置いた。


「控え帳の写しも、受取証も。……なぜですか」


 答えはなかった。

 夫は目を伏せていた。インク壺の黒い水面だけが、かすかに揺れていた。

 指先が冷たくなっていった。わたしはスカートの生地をきつく握りしめた。

 だから、わたしは訊いた。三年、訊けなかったことを。


「なぜ、一度も来てくださらなかったのですか」


 燭台の火が、じじ、と鳴った。


「あなたの『はい』が」


 夫は、机の上の自分の手を見ていた。


「震えていたからです」


 聞こえていたのだ。誰にも聞こえなかったと思っていた、あの「はい」が。

 喉の奥が引きつった。石造りの聖堂の冷たい床と、祭壇の前で震えていた十八の自分が、すぐそこに戻ってきた。


「選ばれていない男が、妻に触れてはならない。……そう思いました」

「……三年、も」

「三年で、白い結婚は解けます。同じ年の春に、あなたは二十一になる」


 夫は、そこで一度、言葉を切った。


「誰の許しもいらずに、あなたが選べるように」


 わたしは、何か言おうとした。

 唇を開いても、乾いた息が漏れるばかりだった。身体じゅうが強張っていた。

 けれど夫のほうが先に、顔を上げた。


「あなたが出ていくと決めたのなら、それがあなたの選んだことです。わたしの名など、安いものです」


 明日の審問で、夫は誓う。

 妻には指一本触れていない、と。

 それが聞こえたら、社交界の人たちは何と言うだろう。三年も妻に触れなかった男のことを。


 わたしは何も言えなかった。

 出ていくと決めたのは、わたしだった。申立書に署名したのは、わたしの手だった。


 ——本当に?


 膝に力を込めて、わたしは後ずさるように書斎を出た。扉を引く手が、かすかに震えていた。


 その夜、わたしは扉の前で、長いあいだ鍵を見ていた。

 書斎の灯りは、朝まで消えなかった。


    *


 司教座の聖堂の脇に、小さな裁きの間がある。

 窓の外に、南の谷の葡萄畑が見えた。どこの畑も、収穫の最中だった。


 正面に司教様。その横に書記。

 右の長椅子に父と、七港の代理人。左に、アーダルベルト。

 夫は、わたしから一人分あけて座っていた。


「申立人、ロジーネ。申立ての理由は、白い結婚」


 書記が読み上げると、父が小さくうなずいた。


「証人を」


 アーダルベルトが立った。

 聖書に手を置いて、背筋を伸ばした。


「ケラー家に四十年お仕えいたしました、家令のアーダルベルトでございます。偽りを申さぬことを、星に数えさせても構いません」


 司教様がうなずいた。四十年仕えた者の言葉を、この国の裁きは軽く扱わない。


「この三年、旦那様は一晩も、奥様のお部屋に入っておられません。書斎の長椅子でお休みでした」

「確かですか」

「確かでございます。書斎の灯は毎晩、奥様のお部屋の灯が消えるまで、点いておりましたので」


 アーダルベルトは、一度だけわたしを見た。


「奥様がお眠りになるまで、起きておいででした。三年、一晩も欠かさず」


 窓の外で、誰かが籠を下ろす音がした。


 礼儀ではなかったのだ。

 あの灯りは。


「よろしい。では、夫の宣誓を」


 夫が立った。

 聖書に手を置いた。その手は、剪定の鋏の跡で、指の節が少し硬くなっていた。


「わたし、エックハルト・ケラーは誓います」


 静かな声だった。


「妻には、指一本——」


 その声が、ほんの少しだけ、途切れた気がした。


 祈祷書が、膝の上で重かった。


 あの頁に何が挟まっているか、わたしは知っている。

 三年前の秋に届いた、父の手紙。


 ——はいと言え。言わなければ、母さんの谷は商人のものになる。


 捨てられなかった。

 なぜ捨てなかったのか、自分でも分からなかった。今は分かる。


 父の肩の上から見た、谷の夕焼け。

 祭壇の前で震えた、自分の声。

 あの夜、燭台で照らした、鍵穴のない扉。


 黙っていれば、父の名は守られる。夫の名は、明日から笑いものになる。

 話せば、夫の名は守られる。わたしは、父を失う。


 三年前、わたしは言われたとおりに「はい」と言った。

 この月の初め、言われたとおりに署名した。


 わたしは、立ち上がった。


「お待ちください」


 夫の声が止まった。

 聖書の上で、夫の指がわずかに動いた。

 司教様が眉を上げた。父が、腰を浮かせた。


「申立ての理由を、改めさせてください」


 祈祷書を開いた。

 三年開かなかった頁は、思っていたよりずっと簡単に開いた。

 畳んだ手紙を取り出して、司教様の前に置いた。


「申立人。偽りを申せば、罪に問われます。承知のうえですか」

「承知しております」


 司教様がうなずくのを待って、わたしは言った。


「この婚姻が無効なのは、夫がわたしに触れなかったからではありません」


 声は、震えなかった。


「わたしの『はい』が、言わされたものだったからです」


 司教様は手紙を開いた。

 長いあいだ、読んでいた。それから、封蝋の跡を指でなぞった。月と石の印章。


「モーントシュタイン伯爵。これは、あなたの手ですか」


 父の指が、椅子の肘掛けを握りしめた。


「……家のためでした。あの子のためでもあった。あのままでは、あの子は」

「娘に偽りの誓いを立てさせることが、家のためですか」


 司教様の声は大きくなかった。

 父は、それきり何も言わなかった。


「申立ての理由を、同意の欠如に改める」


 書記のペンが走った。


「同意なくして、婚姻は成らない。よって、この婚姻は初めから無かったものとする」


 終わった。

 三年が、初めから無かったことになった。


「では、持参の谷は」


 父が顔を上げた。声がかすれていた。


「谷は、モーントシュタイン家に戻るのですな」


 そのとき、後ろの扉が開いた。

 黒い上着の年配の男が、厚い帳面を抱えて入ってきた。


「財産の返還のため、立ち会いを頼まれました。公証人でございます」


 公証人は司教様に一礼し、控え帳を開いた。


「南の谷、葡萄畑十二区画ならびに墓地。亡き伯爵夫人の遺言により、娘ロジーネ嬢の財産。抵当は三年前の十二月に解かれております。本年三月、本人の成年により、管理は本人に」


 控え帳が閉じられる音が、小さな部屋に響いた。


「谷は、どなたにも戻りません。初めから、ロジーネ嬢のものです」


 七港の代理人が、静かに帳面をしまった。

 立ち上がって、司教様に一礼し、父には一礼せずに出ていった。


 父がわたしを見た。

 わたしは、目をそらさなかった。


 父の肩は、こんなに薄かっただろうか。

 あの肩の上から、わたしは谷を見たのだ。


 胸の奥が、きしんだ。

 それでも、目をそらさなかった。


 夫は、一度もわたしを見なかった。

 審問が終わると、司教様に一礼し、わたしにも一礼して、黙って出ていった。


 聖堂の回廊で、父に呼び止められた。

 父はしばらく、何も言わなかった。それから、ひどく年をとった声で言った。


「……母さんに、似てきたな」


 わたしは黙って頭を下げた。

 顔を上げたとき、父はもう背を向けていた。


 「元の夫」と呼ぶべきなのだろうか。

 初めから無かった結婚の、夫のことを。


    *


 十月の終わり、わたしはモーントシュタインの名で、谷の小さな家に移った。

 母が葡萄酒を仕込むのに使っていた、石造りの家だった。


 アーダルベルトは、ときどき帳簿を見に来てくれた。

 ケラー家の家令のままで。


「義理でございます」


 そう言って、区画ごとの収穫の数を、わたしより早く数えてしまう。


 谷の家での最初の夜、わたしはなかなか眠れなかった。

 灯を消して、暗い窓を見た。尾根の向こうに、ケラー家の屋敷がある。ここからは見えない。

 灯りの見えない窓が、こんなに暗いとは知らなかった。


 翌朝、冷え込みで目が覚めた。

 火を熾し、湯を沸かしてパンをかじった。冷えます、と声をかけてくれる人は、もういなかった。わたしは自分で、古い肩掛けを巻き直した。

 石の家の棚に、母の剪定鋏が残っていた。布で拭い、油を差そうとして、手が止まった。刃こぼれひとつないのは、誰かが手入れをしてくれていたからだった。

 畑に出て畝を歩くと、どの木も根もとの土が柔らかく寄せられ、草は一本もなかった。三年間、日曜の朝ごとにあの人が一人で通い、手を尽くしてくれた跡が、畑のすみずみに残っていた。畝のあいだに立っていると、離れたはずの温もりが、冷たい土の底から伝わってくるようだった。


 収穫は、谷の人たちが手伝ってくれた。

 摘み手のおばあさんが、母の歌を覚えていた。房を籠に落とす音が、畝のあちこちで重なった。

 搾り桶に移して、裸足で踏んだ。冷たい皮が足の裏で割れて、甘い匂いが石の家いっぱいに立ちのぼった。流れ出た汁は、夜明け前の空のような濃い紫だった。

 小さな樽がひとつ、いっぱいになった。三年目の木の、初めての葡萄酒になる。


 搾りかすを畑に埋め、石の床を井戸水で洗い流した。

 その夜、発酵の始まった樽の中から、ぷつぷつと小さな泡の立つ音が聞こえた。ひとりきりの石の家で、わたしは眠らずに、その音を聞いていた。

 わたしは前掛けのかくしに手を入れて、真鍮の鍵に触れた。屋敷を出るとき、あの扉から抜いてきた鍵。もう戻ることはないのに、どうしても手放せなかった。


 取っておいた最初の房を、母の墓に供えた。

 胡桃の木の下にしゃがんでいると、坂の下で、馬の足音が止まった。


 夫だった。

 夫では、もうない人だった。


 見たことのない、濃い緑の正装だった。

 少し離れて、アーダルベルトが帽子を胸に当てて立っていた。付き添いのつもりらしい。


 エックハルト様は、わたしの前まで来て、立ち止まった。

 手に、封をした書状を持っていた。


「あなたはもう、誰の妻でもない」


 静かな声だった。審問の日と同じ。


「……では、改めて求婚させてください」


 風が、畑の上を渡っていった。

 黄色い葉が、また、いっせいに裏返った。


「十二のとき、あなたの母上に、剪定を教わりました」


 エックハルト様は、わたしではなく、胡桃の木の根もとを見ていた。


「畝のあいだに、小さな女の子がしゃがんでいた。三年前、借金の話を聞いたとき、谷もあなたも、商人には渡したくなかった。母上への義理でした」


 一度、言葉が切れた。


「けれど三年、朝の食卓で帳面をつけるあなたを見ているうちに、義理ではなくなりました」


 わたしは、前掛けのかくしに手を入れた。

 真鍮の鍵を、エックハルト様の手のひらにのせた。

 わたしの手で温まった鍵だった。


「この扉に、もう鍵は要りません」


 エックハルト様が、鍵を見た。

 それから、わたしを見た。三年で、いちばん長く。

 手にしていた書状を、わたしの手のひらにのせた。封蝋の上に、ロジーネ・モーントシュタイン殿、と几帳面な、少し右に傾いた字があった。求婚状だった。


「……返事を、聞かせてください」


 わたしは息を吸った。

 今度は、誰にも言わされていない。


「はい」


 はっきりと言えた。

 谷じゅうに聞こえたかもしれない。アーダルベルトが、帽子で顔を隠した。


    *


 翌年の春、同じ司教座の聖堂で、わたしたちは式を挙げた。


「二人の日々が、同じ星に数えられますように」


 司祭様の祝福のあとで、問いがあった。

 汝はこの者を夫とするか。


 今度の「はい」は、震えなかった。


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