白い結婚の三年が明けたので婚姻無効を申し立てたら、夫が「では、改めて求婚させてください」と言いました
結婚して三年、夫は一度も、寝室のあいだの扉を開けなかった。
樫の板の扉で、真鍮の鍵穴がひとつあった。
鍵は、わたしの側に差さったままだった。
婚礼の夜、夫はその鍵をわたしの手のひらにのせた。
まだ温かい鍵だった。夫がずっと握っていたのだと、あとになって気づいた。
「わたしは、こちらからは参りません」
それだけ言って、夫は出ていった。
ケラー子爵エックハルト様。わたしより八つ年上の、無口な人。
その夜から、夫は書斎で休むようになった。屋敷の者はみな知っていた。
朝食の席では、夫はいつも丁寧だった。
「よく眠れましたか」
「はい」
「今日は冷えます。庭に出るなら、肩掛けを」
「はい」
東向きの窓から強い陽が射しこむ朝、夫は黙って席を立ち、わたしの横の薄絹の帳を引いた。
「眩しくはありませんか」
「はい」
それ以上は言わない。わたしも言わない。
夫はパンを半分だけ食べて、葡萄酒の帳簿を持って立つ。わたしは屋敷の帳面をつける。
客人を遇するような、手落ちのない礼儀だった。預かった娘に不自由をさせないためなのだと思っていた。
三年、そうやって暮らした。
二年目の冬に、わたしは熱を出して三日寝込んだ。
夜中に目を覚ますと、暖炉の火が赤々と燃えていた。朝まで一度も絶えなかった。
「旦那様のお言いつけで」と、侍女は言った。
屋敷の主人の務めなのだろう、と思った。妻を病で死なせては、外聞が悪い。
三日目の朝、夫は食卓で「よくなりましたか」と訊いた。わたしは「はい」と答えた。それで終わりだった。
借金の形に買われた妻には、それで十分なのだと思っていた。
十八の秋だった。
モーントシュタイン伯爵家は、父の借金で首が回らなくなっていた。貸し手は七港の毛織物商で、六十を過ぎた人だった。父はその人に、借金の代わりにわたしを嫁がせる話を進めていた。
そこへ、隣の谷のケラー子爵が申し出た。借金はわたしが払う。その代わり、お嬢さんを。
父はわたしに、一通の手紙をよこした。
祭壇の前で、司祭様に問われた。
汝はこの者を夫とするか。
「……はい」
声が震えた。
参列した人たちの誰にも聞こえなかったと思う。聞こえていたら困る。
あれは、わたしの一生でいちばん恥ずかしい「はい」だった。
毎朝、わたしは祈祷書を持って礼拝堂へ行った。
その祈祷書には、三年、一度も開いていない頁があった。
*
十月の初め、父が訪ねてきた。
借りた馬車の扉に、うちの紋章が小さく描き足してあった。月と石。絵の具が少し剥げていた。
「三年だな、ロジーネ」
客間の椅子に腰を下ろすなり、父は言った。
「白い結婚は、三年で無効にできる。知っているだろう」
知っていた。
婚礼から三年、夫婦の交わりがなければ、教会裁判所が婚姻を初めから無かったことにしてくれる。
「社交界じゅうが知っているぞ。ケラー子爵が、妻の部屋に一度も入らないことをな。使用人の口は軽い」
父は上着の内から、畳んだ紙を出した。
教会裁判所への申立書だった。わたしの名を書く欄だけが空いている。
「可哀想に。お前は要らない妻なんだよ」
父の声は優しかった。
母が亡くなる前の、わたしを肩車してくれたころの声に、少しだけ似ていた。
「帰っておいで。谷も戻る。次の話もちゃんとある。今度は、お前を大事にしてくれる家だ」
谷。
母が遺した、葡萄畑の谷。
わたしはペンを取った。
署名は、震えなかった。
自分で決めたのだと思った。
夕食の席で、わたしは夫に告げた。
婚姻無効を申し立てます。来週には、司教座から審問の日取りが届きます、と。
夫はナイフを置いた。
燭台の火が、皿の縁で小さく揺れた。
長いあいだ、夫は何も言わなかった。
引き止めてくれるかもしれない。
ほんの一瞬、そう思った自分が、あとで恥ずかしくなった。
「……分かりました」
夫は、わたしの目を見ずに言った。
「審問では、あなたには指一本触れていないと、わたしが証言します」
「……ありがとうございます」
ほかに、言うことはなかった。
その夜、わたしは自分の部屋の灯を消して、寝台に入った。
窓の向こうに、書斎の窓が見えた。灯りが点いていた。
しばらくして、その灯りも消えた。
三年、毎晩そうだった。
礼儀正しい人だ、と思った。
妻が眠るまで起きているのも、きっと礼儀のうちなのだ。
*
審問の日は、十月二十日と決まった。
無効になれば、持参した財産は返さなければならない。
わたしは財産の目録を作ることにした。借金の形に来た妻が、きちんと片づけて出ていくのが、せめてものけじめだと思った。
家令のアーダルベルトの部屋を訪ねた。
先代様のころから、この家に四十年仕えている人だ。白い髪をきっちりと撫でつけて、机には帳簿が隙間なく並んでいる。
「持参の財産の証書を、見せてもらえますか。谷の葡萄畑のものです」
アーダルベルトは、一度だけわたしの顔を見た。
それから黙って棚の鍵を開け、紙を二枚、机に置いた。
一枚は、公証人の控え帳の写しだった。
——南の谷、葡萄畑十二区画、ならびに墓地。
——亡きモーントシュタイン伯爵夫人の遺言により、娘ロジーネに帰す。
——右の者、成年に達したるにより、以後の管理を本人に移す。
日付は、今年の三月十五日。
わたしの二十一の誕生日の、翌日だった。
もう一枚は、抵当を外した受取証だった。
谷は、七港の毛織物商の抵当に入っていた。その借りを払い終えた、という証文。
日付は三年前の十二月。支払った者の欄に、夫の署名があった。
「……谷は、父のものではなかったのですか」
声が、うまく出なかった。
「父は、谷は家に戻ると言いました」
「旦那様に、お訊きください」
アーダルベルトはそれだけ言った。
それから、帳簿を一冊閉じて、付け加えた。
「奥様。谷は、ご覧になりましたか。この三年」
見ていなかった。
谷は、夫の家に取られたのだと思っていた。取られた庭を覗きに行くような真似は、したくなかった。
母の墓があるのに。
母が亡くなったのは、わたしが十四の冬だった。
谷のことは、父が「お前が大きくなるまで預かる」と言った。わたしはそれを疑わなかった。娘が受け継いだ財産は、成年になるまで父が管理する。この国では、そういう決まりだ。
預かったものを、父は抵当に入れたのだ。
そして、わたしの持参の財産として、ケラー家に渡した。
部屋に戻って、目録の紙を広げた。
一行目に「南の谷」と書きかけて、ペンが止まった。
返すものではなかった。初めから、わたしのものだった。
では、わたしがこの家に持ってきたものは、何だったのだろう。
衣装箱がふたつ。母の形見の前掛け。祈祷書。
それから、震えた「はい」がひとつ。
*
夫は王室の酒蔵の用で、三日ほど町へ出ていた。
その朝、わたしはアーダルベルトと馬車で谷へ向かった。
半刻の道だった。
三年、この半刻を、わたしは一度も越えなかった。
谷に入ったとたん、わたしは馬車の窓に額をつけた。
荒れていたはずの畑に、細い木がまっすぐに並んでいた。
一本ずつ、白い支柱に結わえてある。葉はもう黄色く色づきはじめていて、その陰に、小さな房が下がっていた。
黒に近い紫。指先ほどの粒。
馬車を降りると、畝のあいだで、腰の曲がったおばあさんが顔を上げた。母のころから谷で働いていた摘み手だった。
おばあさんは籠を置いて、泥のついた手を前掛けで拭いた。
「お嬢様。……やっと、見に来てくださった」
わたしは、うまく返事ができなかった。
「植え替えたのです」
アーダルベルトが言った。
「三年前の春に。古い株は病んでおりましたので」
「誰が」
「旦那様が。冬の剪定も、三度とも、ご自分の手で」
畑の端、古い胡桃の木の下に、母の墓がある。
墓石の前に、摘んだばかりの野菊が置いてあった。花はまだ萎れていなかった。
「毎週、日曜の朝に」
わたしが振り返る前に、アーダルベルトは言った。
「葡萄は、三年目にならないと実をつけない。——奥様の母上が、よくそうおっしゃっていたと伺っております」
「母を、知っているの」
「旦那様が十二のころ、この谷へ剪定を習いに通われました。わたしがお供をいたしました」
風が、畑の上を渡っていった。
黄色い葉が、いっせいに裏返った。
覚えている。
ずっと昔、母が見知らぬ男の子の手に自分の手を重ねて、鋏の持ち方を教えていた。
わたしは畝のあいだにしゃがんで、それを見ていた。男の子の顔は覚えていない。母の手が、男の子の手をすっぽり包んでいたことだけを覚えている。
房のひとつに触れてみた。
粒は固くて、冷たかった。三年目の、初めての実だった。
畑の下の、母が葡萄酒を仕込んでいた石の家にも寄った。
屋根が葺き替えられていた。窓の硝子は拭いてあり、搾り桶には新しい箍がはまっていた。
「来年から、ここで仕込めるようにと」
アーダルベルトは、それ以上言わなかった。
誰のために、とは。
帰りの馬車で、わたしは一度も口をきかなかった。
膝の上の手袋は、房に触れた指先だけが、少し湿っていた。
その夜、夫は町から戻った。
夕食は別々だった。夫は遅くなると聞いていた。
寝台に入る前に、わたしは扉の前に立った。
三年、差さったままの鍵。
最初のひと月は、毎晩、鍵を回して閉めていた。
夫は一度も来なかった。そのうち閉めるのをやめた。閉めても閉めなくても、同じだったから。
鍵を回さずに、取っ手を引いた。
扉は軽く開いた。
夫の寝室は暗かった。
燭台をかざすと、寝台は整えられたままで、枕がなかった。
枕は書斎にあるのだと、少ししてから気づいた。
振り返って、扉の向こう側を照らした。
鍵穴がなかった。
取っ手が、ひとつあるだけだった。
夫の側からは、鍵をかけられない。
わたしを閉め出すことも、自分が閉じこもることもできない扉だった。
わたしが鍵を回さなくなってから、夫は開けようと思えば、いつでも開けられた。この三年の、ほとんどずっと。
寝室の奥、書斎へ続く扉の隙間から、細い灯りが漏れていた。
ペンが紙をこする音がした。
わたしは燭台を持ったまま、長いあいだそこに立っていた。
叩けなかった。
静かに扉を閉めて、自分の寝台に戻った。
窓の向こうの書斎の灯りは、わたしが灯を消してしばらくすると、消えた。
*
審問の前の日、父がまた来た。
今度は、痩せた男を連れていた。七港の毛織物商の代理人だという。
「谷の葡萄が実をつけたと伺いました」
代理人は、帳面を開いたまま頭を下げた。
「主人は、よい値をつけると申しております。明日のお裁きが済みましたら、売り渡しの書類を」
「あとでいい」
父が遮った。代理人は、わたしの顔をちらりと見て、帳面を閉じた。
「主人は、お嬢様のこともまだ、たいそう気にかけておりまして」
父が咳払いをした。
代理人が馬車に戻ったあとで、父はわたしの手を取った。
「谷を売れば、借金はきれいになる。お前の次の支度もできる。……分かってくれるな。家のためなんだ」
父の上着の袖口が、すり切れていた。
母が生きていたころ、父はいつも、袖口のきれいな人だった。
わたしは何も言わなかった。
控え帳の写しのことも、言わなかった。
言う前に、確かめなければならないことがあった。
その夜、わたしは初めて書斎の扉を叩いた。
「どうぞ」
夫は机に向かっていた。
机には、細かい字でびっしり書かれた帳面が開いてあった。日付と、区画の番号と、枝の数。剪定の記録だった。
いちばん上の日付は、三年前の一月。——第一区画、古株を抜く。
几帳面な、少し右に傾いた字。朝の食卓で、葡萄酒の帳簿をつけるときの字だった。
壁ぎわの長椅子に、枕と、畳んだ毛布があった。
夫は立ち上がりかけて、やめた。
わたしが、扉の前から動かなかったからだと思う。
「谷を、見てきました」
夫は、ペンを置いた。
「控え帳の写しも、受取証も。……なぜですか」
答えはなかった。
夫は目を伏せていた。インク壺の黒い水面だけが、かすかに揺れていた。
指先が冷たくなっていった。わたしはスカートの生地をきつく握りしめた。
だから、わたしは訊いた。三年、訊けなかったことを。
「なぜ、一度も来てくださらなかったのですか」
燭台の火が、じじ、と鳴った。
「あなたの『はい』が」
夫は、机の上の自分の手を見ていた。
「震えていたからです」
聞こえていたのだ。誰にも聞こえなかったと思っていた、あの「はい」が。
喉の奥が引きつった。石造りの聖堂の冷たい床と、祭壇の前で震えていた十八の自分が、すぐそこに戻ってきた。
「選ばれていない男が、妻に触れてはならない。……そう思いました」
「……三年、も」
「三年で、白い結婚は解けます。同じ年の春に、あなたは二十一になる」
夫は、そこで一度、言葉を切った。
「誰の許しもいらずに、あなたが選べるように」
わたしは、何か言おうとした。
唇を開いても、乾いた息が漏れるばかりだった。身体じゅうが強張っていた。
けれど夫のほうが先に、顔を上げた。
「あなたが出ていくと決めたのなら、それがあなたの選んだことです。わたしの名など、安いものです」
明日の審問で、夫は誓う。
妻には指一本触れていない、と。
それが聞こえたら、社交界の人たちは何と言うだろう。三年も妻に触れなかった男のことを。
わたしは何も言えなかった。
出ていくと決めたのは、わたしだった。申立書に署名したのは、わたしの手だった。
——本当に?
膝に力を込めて、わたしは後ずさるように書斎を出た。扉を引く手が、かすかに震えていた。
その夜、わたしは扉の前で、長いあいだ鍵を見ていた。
書斎の灯りは、朝まで消えなかった。
*
司教座の聖堂の脇に、小さな裁きの間がある。
窓の外に、南の谷の葡萄畑が見えた。どこの畑も、収穫の最中だった。
正面に司教様。その横に書記。
右の長椅子に父と、七港の代理人。左に、アーダルベルト。
夫は、わたしから一人分あけて座っていた。
「申立人、ロジーネ。申立ての理由は、白い結婚」
書記が読み上げると、父が小さくうなずいた。
「証人を」
アーダルベルトが立った。
聖書に手を置いて、背筋を伸ばした。
「ケラー家に四十年お仕えいたしました、家令のアーダルベルトでございます。偽りを申さぬことを、星に数えさせても構いません」
司教様がうなずいた。四十年仕えた者の言葉を、この国の裁きは軽く扱わない。
「この三年、旦那様は一晩も、奥様のお部屋に入っておられません。書斎の長椅子でお休みでした」
「確かですか」
「確かでございます。書斎の灯は毎晩、奥様のお部屋の灯が消えるまで、点いておりましたので」
アーダルベルトは、一度だけわたしを見た。
「奥様がお眠りになるまで、起きておいででした。三年、一晩も欠かさず」
窓の外で、誰かが籠を下ろす音がした。
礼儀ではなかったのだ。
あの灯りは。
「よろしい。では、夫の宣誓を」
夫が立った。
聖書に手を置いた。その手は、剪定の鋏の跡で、指の節が少し硬くなっていた。
「わたし、エックハルト・ケラーは誓います」
静かな声だった。
「妻には、指一本——」
その声が、ほんの少しだけ、途切れた気がした。
祈祷書が、膝の上で重かった。
あの頁に何が挟まっているか、わたしは知っている。
三年前の秋に届いた、父の手紙。
——はいと言え。言わなければ、母さんの谷は商人のものになる。
捨てられなかった。
なぜ捨てなかったのか、自分でも分からなかった。今は分かる。
父の肩の上から見た、谷の夕焼け。
祭壇の前で震えた、自分の声。
あの夜、燭台で照らした、鍵穴のない扉。
黙っていれば、父の名は守られる。夫の名は、明日から笑いものになる。
話せば、夫の名は守られる。わたしは、父を失う。
三年前、わたしは言われたとおりに「はい」と言った。
この月の初め、言われたとおりに署名した。
わたしは、立ち上がった。
「お待ちください」
夫の声が止まった。
聖書の上で、夫の指がわずかに動いた。
司教様が眉を上げた。父が、腰を浮かせた。
「申立ての理由を、改めさせてください」
祈祷書を開いた。
三年開かなかった頁は、思っていたよりずっと簡単に開いた。
畳んだ手紙を取り出して、司教様の前に置いた。
「申立人。偽りを申せば、罪に問われます。承知のうえですか」
「承知しております」
司教様がうなずくのを待って、わたしは言った。
「この婚姻が無効なのは、夫がわたしに触れなかったからではありません」
声は、震えなかった。
「わたしの『はい』が、言わされたものだったからです」
司教様は手紙を開いた。
長いあいだ、読んでいた。それから、封蝋の跡を指でなぞった。月と石の印章。
「モーントシュタイン伯爵。これは、あなたの手ですか」
父の指が、椅子の肘掛けを握りしめた。
「……家のためでした。あの子のためでもあった。あのままでは、あの子は」
「娘に偽りの誓いを立てさせることが、家のためですか」
司教様の声は大きくなかった。
父は、それきり何も言わなかった。
「申立ての理由を、同意の欠如に改める」
書記のペンが走った。
「同意なくして、婚姻は成らない。よって、この婚姻は初めから無かったものとする」
終わった。
三年が、初めから無かったことになった。
「では、持参の谷は」
父が顔を上げた。声がかすれていた。
「谷は、モーントシュタイン家に戻るのですな」
そのとき、後ろの扉が開いた。
黒い上着の年配の男が、厚い帳面を抱えて入ってきた。
「財産の返還のため、立ち会いを頼まれました。公証人でございます」
公証人は司教様に一礼し、控え帳を開いた。
「南の谷、葡萄畑十二区画ならびに墓地。亡き伯爵夫人の遺言により、娘ロジーネ嬢の財産。抵当は三年前の十二月に解かれております。本年三月、本人の成年により、管理は本人に」
控え帳が閉じられる音が、小さな部屋に響いた。
「谷は、どなたにも戻りません。初めから、ロジーネ嬢のものです」
七港の代理人が、静かに帳面をしまった。
立ち上がって、司教様に一礼し、父には一礼せずに出ていった。
父がわたしを見た。
わたしは、目をそらさなかった。
父の肩は、こんなに薄かっただろうか。
あの肩の上から、わたしは谷を見たのだ。
胸の奥が、きしんだ。
それでも、目をそらさなかった。
夫は、一度もわたしを見なかった。
審問が終わると、司教様に一礼し、わたしにも一礼して、黙って出ていった。
聖堂の回廊で、父に呼び止められた。
父はしばらく、何も言わなかった。それから、ひどく年をとった声で言った。
「……母さんに、似てきたな」
わたしは黙って頭を下げた。
顔を上げたとき、父はもう背を向けていた。
「元の夫」と呼ぶべきなのだろうか。
初めから無かった結婚の、夫のことを。
*
十月の終わり、わたしはモーントシュタインの名で、谷の小さな家に移った。
母が葡萄酒を仕込むのに使っていた、石造りの家だった。
アーダルベルトは、ときどき帳簿を見に来てくれた。
ケラー家の家令のままで。
「義理でございます」
そう言って、区画ごとの収穫の数を、わたしより早く数えてしまう。
谷の家での最初の夜、わたしはなかなか眠れなかった。
灯を消して、暗い窓を見た。尾根の向こうに、ケラー家の屋敷がある。ここからは見えない。
灯りの見えない窓が、こんなに暗いとは知らなかった。
翌朝、冷え込みで目が覚めた。
火を熾し、湯を沸かしてパンをかじった。冷えます、と声をかけてくれる人は、もういなかった。わたしは自分で、古い肩掛けを巻き直した。
石の家の棚に、母の剪定鋏が残っていた。布で拭い、油を差そうとして、手が止まった。刃こぼれひとつないのは、誰かが手入れをしてくれていたからだった。
畑に出て畝を歩くと、どの木も根もとの土が柔らかく寄せられ、草は一本もなかった。三年間、日曜の朝ごとにあの人が一人で通い、手を尽くしてくれた跡が、畑のすみずみに残っていた。畝のあいだに立っていると、離れたはずの温もりが、冷たい土の底から伝わってくるようだった。
収穫は、谷の人たちが手伝ってくれた。
摘み手のおばあさんが、母の歌を覚えていた。房を籠に落とす音が、畝のあちこちで重なった。
搾り桶に移して、裸足で踏んだ。冷たい皮が足の裏で割れて、甘い匂いが石の家いっぱいに立ちのぼった。流れ出た汁は、夜明け前の空のような濃い紫だった。
小さな樽がひとつ、いっぱいになった。三年目の木の、初めての葡萄酒になる。
搾りかすを畑に埋め、石の床を井戸水で洗い流した。
その夜、発酵の始まった樽の中から、ぷつぷつと小さな泡の立つ音が聞こえた。ひとりきりの石の家で、わたしは眠らずに、その音を聞いていた。
わたしは前掛けのかくしに手を入れて、真鍮の鍵に触れた。屋敷を出るとき、あの扉から抜いてきた鍵。もう戻ることはないのに、どうしても手放せなかった。
取っておいた最初の房を、母の墓に供えた。
胡桃の木の下にしゃがんでいると、坂の下で、馬の足音が止まった。
夫だった。
夫では、もうない人だった。
見たことのない、濃い緑の正装だった。
少し離れて、アーダルベルトが帽子を胸に当てて立っていた。付き添いのつもりらしい。
エックハルト様は、わたしの前まで来て、立ち止まった。
手に、封をした書状を持っていた。
「あなたはもう、誰の妻でもない」
静かな声だった。審問の日と同じ。
「……では、改めて求婚させてください」
風が、畑の上を渡っていった。
黄色い葉が、また、いっせいに裏返った。
「十二のとき、あなたの母上に、剪定を教わりました」
エックハルト様は、わたしではなく、胡桃の木の根もとを見ていた。
「畝のあいだに、小さな女の子がしゃがんでいた。三年前、借金の話を聞いたとき、谷もあなたも、商人には渡したくなかった。母上への義理でした」
一度、言葉が切れた。
「けれど三年、朝の食卓で帳面をつけるあなたを見ているうちに、義理ではなくなりました」
わたしは、前掛けのかくしに手を入れた。
真鍮の鍵を、エックハルト様の手のひらにのせた。
わたしの手で温まった鍵だった。
「この扉に、もう鍵は要りません」
エックハルト様が、鍵を見た。
それから、わたしを見た。三年で、いちばん長く。
手にしていた書状を、わたしの手のひらにのせた。封蝋の上に、ロジーネ・モーントシュタイン殿、と几帳面な、少し右に傾いた字があった。求婚状だった。
「……返事を、聞かせてください」
わたしは息を吸った。
今度は、誰にも言わされていない。
「はい」
はっきりと言えた。
谷じゅうに聞こえたかもしれない。アーダルベルトが、帽子で顔を隠した。
*
翌年の春、同じ司教座の聖堂で、わたしたちは式を挙げた。
「二人の日々が、同じ星に数えられますように」
司祭様の祝福のあとで、問いがあった。
汝はこの者を夫とするか。
今度の「はい」は、震えなかった。




