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Arcanum Star Hotel

作者: 月猫百歩
掲載日:2026/02/17

 終電を逃した男は、人気の消えた街をとぼとぼと歩いていた。

 ネクタイは緩み、肩は重く、思考はもう回っていない。

 ただ「眠れる場所」が欲しかった。


 気づくと、見覚えのない通りに立っていた。

 そこに、星を模した控えめな照明に照らされたホテルがあった。


 Arcanum Star Hotel


 こんな場所に、こんな名前のホテルがあっただろうか。

 疑問を持つ余力もなく、男は自動ドアをくぐった。


 フロントには、年齢も性別も判然としないホテルマンが一人立っていた。

 男が事情を説明する前に、相手は穏やかに言った。


「ご予約はすでに入っております。お支払いも完了しております」


 男は戸惑いながらも、チェックイン用紙に名前を書いた。

 住所、連絡先、緊急連絡人——

 なぜかペンは止まらなかった。


 記入を終えると、ホテルマンは黒いカードを十二枚、扇状に差し出した。


「お好きな一枚をお選びください」


 男が引いたカードには、死神が描かれていた。

 不吉だと思うより先に、どこか納得があった。


 ホテルマンは何も言わず、カードキーを差し出した。

 キーには、淡く光る蠍座の星が刻まれている。


 エレベーターのボタンも、数字ではなく星座だった。

 男は無意識に蠍座を押した。


 降りた先には、廊下と——

 玄関のような、たった一枚の扉。


 カードキーをかざすと、静かに開いた。


 部屋は広く、中央には大きなベッドが据えられていた。

 隅のライティングビューローにはタブレット端末が置かれている。


 ルームサービスのメニューには、こう書かれていた。


 ――すべて無料


 男は深く考えず、飲み物と軽食を選んだ。


 シャワーを浴び、戻ると、食事はすでに用意されていた。

 スマートフォンを見ようとしたが、電源が入らない。

 充電器を挿すと画面は暗いまま沈黙した。


 男は食事を終え、歯を磨き、ベッドに身を沈めた。

 その瞬間、意識は落ちた。


 夢の中で、男はデスクに座っていた。

 身体は動かず、息が苦しい。


 背後に、気配。


 振り返ると、死神が立っていた。


「選べ」


 低い声が言う。


「お前が会社で死ぬか、お前が会社から死ぬか」


 男は、ほんの少し笑った。

 心の奥に、微かな復讐心が芽生えていた。


「……会社から死んでやる」


 死神は頷き、消えた。


 翌朝、男はホテルを出て、そのまま出社した。


 会社は騒然としていた。

 労働基準監督署が入り、調査が始まり、上層部は顔色を失っていた。


 会社は謝罪し、慰謝料を払い、

 退職を望む者には十分な退職金を約束した。


 男は、辞めた。


 実家に戻る道すがら、ふと思い出す。

 あのホテルを、もう一度確かめたくなった。


 スマートフォンで検索する。

 地図アプリは何度も読み込みを繰り返す。


 Arcanum Star Hotel


 だが、どこにも表示されなかった。


 男は空を見上げる。

 昼間の空に、星は見えない。


 それでも——

 確かに、あの夜、彼は導かれたのだ。


 人生から、一度だけ降りるための場所へ。

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