時間の姿をしたチャンス
これまでの人生で、私は何度もチャンスを見送ってきた。
そのときは、それがチャンスだと認識すらしていなかった。ただ「面倒だ」と判断し、何も選ばなかっただけだった。
そうしてようやく気付いた。
チャンスには、三種類ある。
それを理解していれば、迷う時間は短くなる。迷いが減れば、チャンスを掴む可能性も高まる。
まず第一に、金銭的なチャンスがある。
「今日だけ割引」「今だけお得」といった類のものだ。
それらはチャンスの姿をしているが、本質的には消費を促す仕組みに過ぎないことが多い。得をしているように見えても、こちらからお金を差し出す構造は変わらない。
本当に必要なものは、割り引かれているかどうかではなく、最初から必要なものとして存在している。
安く手に入れたという事実は、満足感を生むかもしれない。けれどそれは、チャンスを掴んだというよりも、選択を正当化したに過ぎない場合がほとんどだ。
第二に、時間を費やすチャンスがある。
それは、イベントへの参加だったり、新しい学習だったり、あるいは誰かの誘いだったりする。
たいていの場合、それらは面倒の姿をして現れる。
行かなくても困らない。やらなくても生きていける。だから人は、それを簡単に見送る。
しかし、時間を使って初めて見える景色がある。
行動して初めて、自分が知らなかった価値観や、自分自身の輪郭に触れることができる。
仮に意味がなかったとしても、それは無駄ではない。
少なくとも、自分にとって必要のないものを知ることができる。次に同じ機会が訪れたとき、迷わずに判断できるようになる。
その意味で、時間を使うチャンスは、経験という形で必ず残る。
最後に、運命的なチャンスがある。
それは、帰ろうとしていたときに、ふと名前を呼び止められることかもしれない。
あるいは、閉じようとしていたページの、小さな募集の文字に目が留まることかもしれない。
普段の自分なら選ばないはずの選択肢が、なぜか静かに目の前に現れることがある。
それらはチャンスには見えない。
むしろ、損失の可能性として現れる。
時間を失うかもしれない。
安心を手放すかもしれない。
これまでの均衡が崩れるかもしれない。
だから人は、それを避けようとする。
けれど、盤石に見える構造ほど、変化の余地は少ない。
変化の入り口は、いつも小さく、不安定な形をしている。
チャンスは、選択肢の姿では現れない。
それは、ただの「違和感」として現れる。
だからこそ、判断の基準が必要になる。
お金を差し出す必要があるなら、慎重であるべきだ。
時間を差し出すだけで、自分の世界が広がる可能性があるなら、それは選ぶに値する。
例外はある。人の悪意によって作られた運命もある。
しかし、人生を変える転機の多くは、金銭ではなく、時間の投資として現れる。
チャンスとは、直感的な魅力ではなく、構造として判断したほうが後悔は少ない。
そして今なら分かる。
人生を変えるチャンスは、
たいてい時間の姿をして現れるものだ。




