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潮の記憶

作者:
掲載日:2025/12/13

 釣りに飽きた私は釣り竿を放ぽって海岸沿いのテトラポットを登る。上にあがると今までは見えなかった視界いっぱいに海の青が目に飛び込んでくる。そして潮風に乗ってきた生臭い磯の匂いが勢いよくこちらへ向かってくる。遠くでフェリーの汽笛がかすかに聞こえるが風でかき消される。あぁ気持ちがいい。するとうしろから友達の呼ぶ声が遠くで聞こえる。かかったのだろうか。今日の夕飯になるのかもしれない。そう思うと気になって友達のもとへ駆け出した。

 渋谷駅の改札を出ると、湿気を含む都会の空気が一気に肌にまとわりつく。太陽は沈み、電光掲示板の光と滲む。ビルを駆け巡った風からは様々なものが混じった独特な匂いを感じる。ハチ公前広場を素通りする。 今日はなにか足が重い。何か特別あったわけではない。ただなんだか足りないのだ。だからか今日は人通りから外れ、静かな方向へ歩いていった。東京での夕暮れは海沿いの町と違いはるかに早く沈む。あの町では景色全体が一枚の絵のように変わっていく。それが好きだった。

 少し歩いていくと狭い路地の奥にぽつんと明かりが灯っているのが見えた。なんだろうか。煤けた木の扉にレトロを感じさせる英字の看板。喫茶店のようだ。そこでは足取りは軽く、気づいたら扉に手をかけていた。

 扉を開けるとチリンと小さなベルが鳴った。コーヒー豆の湿ったような匂いが広がる。 店内は薄暗く、奥のカウンターに一人の男が立っていた。白髪が少し混じった黒髪を後ろに流し、落ち着いた灰色のシャツを着ている。

「いらっしゃい」

 少し低くて、掠れた声だった。なぜか耳に柔らかく届く。店内を見渡し、恐る恐るカウンターの一番端に座った。

 「学校帰りか?」

 「あ、はい。近くに中学校があって」

 「珍しいな。」

 言い方は静かだった。 問い詰める感じじゃない。ただ、ここへ来たことを自然に受け入れてくれたようだった。

 「なんとなく、こっち来ちゃって」

 「“なんとなく”で足が動くことは悪くない。俺もよくやる」

 男はそう言って、コーヒーを淹れ始めた。湯気がゆっくりと上がり、店の空気に溶け込んでいく。静かだった。人混みの中では聞こえない、呼吸の音まで聞こえるような静けさ。

 「中学生の頃の俺も、よく知らない店にふらりと入ったもんだよ。都会に出てきたばかりの頃は特にそうだった」

 「都会に来たばかり?」

 「あぁ。俺も最初は田舎で育っていた。海の近くの町でな」

 少しだけ目を見開いた。境遇が同じだったからだ。男は気づいたように、微笑を浮かべた。

 「今の君と同じくらいの年に、俺はここから遠い海辺の町で暮らしていた。毎日風が強くて、夕方になると潮の匂いが町まではっきり漂ってくるような場所だ」

  潮の匂い。その言葉に、胸の奥に眠っていた記憶が一瞬、微かに揺れた。

 「東京は憧れの場所だった。華やかで、どこか別世界みたいに見えてな。子どもながらに強く思っていた」

 男の声は静かだったが、その奥に熱があった。

 「でも実際来てみたら、想像以上に騒がしかった」

 男は笑った。懐かしむような、少し苦い笑み。

 「駅から出た瞬間に押し寄せてくる人の波。視界いっぱいに広がる光。街の音が絶えない。あれは……海よりずっと大きな波だな」

 「わかります。東京って、なんか、匂いや音がすごい」

 「田舎者には刺激が強いだろう?」

 男の言葉は柔らかく、軽いからかうような調子も混ざっていた。でも、その奥には自分に対する妙な理解のようなものがあった。

 「最初の頃はな、誰かの視線なんて気にもしなかった。いや、本当は気になっていたのかもしれないが、見ないふりをしていたのかもしれない」

 「見ないふり、ですか」

 「誰だって、知らない街の真ん中で、自分の位置がわからなくなるもんだ。 俺は特にそうだった」

 店内に沈むコーヒーの香りが、少し濃くなる。そして男の語りはゆっくりと波のように胸へ押し寄せてくる。

 「その頃は何もなかったんだ。知り合いもいない。ただ歩いて、見て、疲れ果てて眠る。そんな日々だった。渋谷の夜は、どこまで歩いても光が尽きない。俺はそれに救われた気がした」

 「救われた?」

 「暗闇がないのは、田舎の夜よりましに思えたんだよ」

 男はカウンター越しに、少し視線を遠くへやった。その目の奥に、遠い過去が微かに揺れていた。

 「おじさん、東京嫌いだったんですか?」

 尋ねると、男はすぐには答えず、窓辺に吊られた電灯を見つめた。明かりはぼんやりと滲み、小さな星のように震えている。

 「好きだったよ。いや……好きになろうとしてたんだと思う。馴染めていると思い込んでいた。でも、当時の俺には分からなかったんだ。馴染むってことは、どこかを切るってことでもあるって」

 その横顔には、柔らかさと、言葉にならない静かな痛みが宿っていた。男の先程から動いていた手が自然と鈍くなる。まるで記憶をなぞるように。

 「君はどうだ? 馴染めているか?」

 その質問に、僕はうまく答えられなかった。喉の中で言葉が形を変え続け、どれも本当のようで本当じゃない気がした。代わりに、ただ。

 「渋谷は、風が不思議です」

 とだけ言うと、男は少し笑った。

 「いい感覚だ。あの街の風は気まぐれで、時々、昔の匂いを運んできたり、全く知らない土地の匂いを連れてきたりする。何かを思い出す前に、何かを消してしまうような……そんな風だ」

 胸の奥で、波が微かにきらめいた。そして男の手が止まり、こちらを向いた。

 「君が感じていることは、たぶん全部正しいよ。自分の歩いてきた土地の匂いは、そんなに簡単には抜けない。抜けてしまったら、それはそれで寂しいもんだ」

 その言葉を聞いた瞬間、胸に小さなざわめきが生まれた。言葉にならない気持ち。けれど、どこか救われるような温度。

 「さ、もう少し話そう。ここからが面白いんだ。俺が東京に来て、最初に感じた“違和感”の話をさ」

 男は再び手を動かし始めた。

 「俺が東京に来たのは戦後、景気が回復してきた頃だ。田舎の小さな港町に生まれて、海ばっかり相手にして育った。君も分かるだろう? 潮の満ち引きが生活のリズムそのものって感じ」

 おじさんは遠くを見るように目を細めた。その瞳には、ないはずの海がほんのりと揺れていた。

 「親父は漁師でさ、夜明け前の空気の冷たさがまるで刃物みたいで、それでも胸の奥は不思議と温かかった。あの頃の俺は、東京なんて“雲の上の国”くらいにしか思ってなかった」

 そこでおじさんは小さく笑う。懐かしさと、少しの痛みが混ざった笑いだった。

「だけどある日、親父の仕事が傾いてね。叔父を頼って東京へ行くことになった。“海を離れるんだ”って意識した瞬間、胸の奥が妙にざわついたのを覚えてるよ。港を出るフェリーはやけに真っ白だった」

 僕の胸にも、その映像が鮮明に浮かび上がる。故郷を離れた朝の、あの湿った風。おじさんが語るその景色に、自分の記憶が静かに呼び出されていく。

「東京に降り立ったときの衝撃は、今でも覚えてる。空が……狭いんだよ。ビルってものは、こんなふうに人の空を奪うのかって思った」

 おじさんの声には、微かな震えが含まれていた。

 「駅の中の空気が重くてね。何かの匂いに押されるようにして歩いた。潮の匂いとは違う、混じり合いすぎて正体の分からない匂い。人の声、人の熱、電車の金属音……全部が息を飲むほど強烈で、海の音とは違う“ざわめきの海”の中に放り込まれた気持ちだった」

 ざわめきの海。それはまさに、僕が初めて渋谷に来た日の感覚そのものだった。

 「叔父の家に向かう途中、車の窓の外に流れる街の光を見て思ったんだ。 “ここでは風が自由じゃない”って」

 おじさんは掌をひらひらと動かした。

「風は本来、生き物みたいに走り回るものだろう?でも東京の風は、街の角にぶつかって、跳ね返って、またどこかで引っかかって……まるで街の形をなぞるためだけに吹いてるように思えた。それが、俺にはたまらなく寂しかった」

 僕は、胸の奥にひそんでいた違和感がそっと形を持った気がした。

 「東京の学校はね、意外とみんな優しかったよ。田舎者だなんて笑うやつもいなかった。むしろ、よくしてくれた。けどね、」

 おじさんは言葉を継ぐ前に、少し黙り、風の音に耳を傾けた。

「友達と話して笑ってても、家に帰ると、どこかで潮の匂いが探してしまう。そんなこと、誰にも言わなかったけどな」

 僕も、教室で何をしていても、どこかの層だけが水の底みたいに静まっていて、そこに故郷の波がひそやかに揺れている。

 「それでも時間が経つと、人は変わる。俺も都会の言葉を覚え、駅で迷わなくなり、友達と走って笑えるようになった。“あぁ、自分はもう大丈夫なんだ”って。馴染んだんだと。そう思ってた」

 おじさんは小さく息をついた。

「でも、本当は違ったんだ」

 その静かな声に、僕の胸の何かがひっそりと揺れた。

 「中学三年のある日だった。部活の帰り、兄貴とケンカしてさ、一人で夜の街を歩いてたんだ。そしたら急に、ある路地の角を曲がった瞬間、潮の匂いがした。確かにしたんだよ。東京の、ど真ん中でだ」

 おじさんの瞳に、あの瞬間の光が宿る。

 「身体の奥が一気にあったかくなって、でも次の瞬間には胸が締め付けられるほど苦しくなった。あぁ……俺はまだ故郷を探してたんだ”って気づいたんだ。馴染んだと思ってたけど、そうじゃなかった。馴染んだように振る舞ってただけなんだって」

 おじさんはそこで、静かに笑った。

 「その瞬間、急にひとりになった気がした。いや、たぶん、ずっと気づいてなかっただけなんだよ。本当はずっとひとりだった」

 胸の奥に、風がひと筋通り抜けた気がした。その風は痛くも優しくもない、ただそこに在るという存在そのもののようだった。

 「でもな、不思議なもんで……」

 おじさんは手を止め、振り返る。

 「気づいた“その瞬間”から、ようやく自分の足で歩き始められた気がするんだ。誰でもない、自分の足でな」

 その横顔は、棚にかけられたランプに照らされ、まるで長い旅の終わりを迎えた船乗りのように見えた。

 「人はな、自分がどこから来たのかを忘れた途端に、迷うんだよ。でも、それを思い出した瞬間から、やっと前に進める。皮肉な話だけど、そういうものさ」

 僕は何も言えなかった。ただ、おじさんの言葉が胸の奥に沈んでいくのを感じていた。そして、その沈んだ場所こそ僕がまだ「気づいていない」何かが眠っている場所だということだけは、はっきり分かった。

 「東京に慣れようとしてた頃な。俺は“都会の子”を演じるのに必死だったんだよ」

 おじさんは微笑みながら言った。その笑みは、どこか痛みを含んでいる。

「教室の中では寄り添うように笑い、流行りの歌を覚え、標準語を真似して、学校の裏山の代わりにゲームセンターへ行ったり。でも、家に帰ると、ふとした瞬間に海の音が胸の奥で鳴ってた」

 「鳴る?」

 「あぁ。言葉や匂いじゃなく、もっと底の方で。理屈じゃない場所で鳴るんだよ」

 僕にも心当たりがあった。しかしそれが何なのか、まだうまく説明できない。

 「東京の子はね、いや、あの時の俺にはそう見えたんだがね。みんな、自分の居場所を疑ってないように見えたんだ。ここで育ち、ここで呼吸することが“当たり前”という顔をしていた。俺はそれが羨ましくて仕方がなかった」

 外では木々の葉が風に揺れ、その影が地面に波紋のように広がった。

 「都会の子が羨ましかった理由は、ただ都会にいるからじゃない。“居場所を疑っていない”その感じが、俺にはなかった」

  その言葉は、僕の胸の奥に静かに落ち着くていった。波の底に沈む黒い小石のように。

 

 「時代ってのは残酷でね。俺が少しずつ馴染めてきた頃、東京の街はちょうど大きく変わり始めた」

 「変わる、って……?」

 「工事だよ。再開発。路地も商店街も、少しずつ壊されていった」

 おじさんの声は深い場所から響いてきた。

 「俺が初めて“落ち着ける”と思った場所があったんだ。学校帰りに寄り道していた、小さな古本屋でな。店の奥には、窓がひとつだけあって、そこから入り込む風がどこか海に似てたんだよ」

 「海、に?」

 「あぁ。理由は分からん。ほんの少し塩気を含んでるようで、埃っぽい都会の風とは違っていた。俺はそこに座って、本を読んでるふりをしながら、その風に包まれてた。“あぁ、自分はここにいてもいいのかもしれない”って、本気で思った」

 おじさんの表情が一瞬ほどけた。その柔らかな笑みは、まるで長い間閉じていた引き出しの中から、大切なものをそっと取り出すような、そんな温度だった。

 「でもある日行ったら、店はもうなかった。更地になって、白い布がかけられていて、“再開発予定地”と書かれた看板が立ってた」

 胸の奥がぎゅっと縮むようだった。

 「俺の中で、何かが音を立てて崩れた。“やっと馴染める場所を見つけた”と思った瞬間、それはもう存在しなかった。そのとき初めて理解したんだ。東京には“地に足のつく場所”が見つかっても、次の瞬間には消えてしまうことがあるって」

 おじさんは手を軽く動かし、風を掴むような仕草をした。

 「けれど……消える前にその場所がくれた温度だけは、消えないで胸に残るんだよ。不思議なもんだ」

 

 「友達にも言えなかった。“都会に馴染めない”なんて言葉は、恥ずかしくて仕方なかった。でもその違和感は、場所が消えてもずっと付きまとった」

 おじさんは、電灯からこぼれる光を指先でなぞった。

 「教室で笑いながら、心だけが水の底を歩いてる——そんな気分の日があったよ。みんなと同じ速度で笑ってるはずなのに、ひとつずつ音が遅れて胸に届く。“このまま遅れたまま一生歩くのかもしれない”って思ったことすらあった」

 僕は息を飲んだ。その感覚を、僕も知っている。けれど今は、まだ言葉として結びつけられない。

 「だがな……」

 おじさんは声を少し低くした。

 「それは、悪いことじゃなかったんだ。むしろ大事なことだった。違和感があるというのは、“自分だけの土地を持っている”証拠だからな。その土地が心のどこにあるのかを知れば、ようやく自分の道を選べる」

 「土地……」

 「あぁ。育った場所だけの話じゃない。人の居場所ってのは、地図には載らない場所にあるもんだ」

 おじさんはベンチにもたれ、目を閉じた。

 「気づかなかった若い頃の俺は、ずっとそれを“孤独”だと思い込んで避けていた。だけど……本当は違った。その違和感こそが、俺が俺である証だったんだ」

 その言葉は、まるで深い海の底からゆっくりと浮かび上がってくる泡のように、静かに胸へ届いた。

 

 「その後、色んなことがあって俺は大人になった。働いて、恋をして、別れて、また働いて……そういうごちゃごちゃも全部“東京らしさ”だと思えば悪くなかった」

 おじさんはゆっくりと立ち上がった。日がだいぶ傾き、彼の影が長く伸びていた。

 「だが、君に話したいのはここからだ」

 「ここから……?」

 あぁ。俺が本当に“自分の場所”を知ったのは、大人になってからじゃない。中学生のあの日……“潮の匂いのする風”を東京で感じた日のことだ」

 おじさんは振り返り、僕の目を真っ直ぐ見つめた。

 「それから俺は初めて、自分がどこから来て、どこに立っているのかを理解した。そして、初めて自分の孤独に気づいたんだ」

 その言葉は重く、しかしどこか温かかった。ただ、胸の深いところに波が寄せては返すような気配だけがある。おじさんの過去は、僕に何かをゆっくりと近づけていた。

 

 「もういい時間だろう。親御さんも心配するから一緒に駅まで行ってあげるよ。」

 おじさんは焦ったような顔をした。

 店を出る頃には、空は薄い藍色に変わっていた。街灯がぽつりぽつりと灯り、夕暮れと夜の境目が曖昧になっていく。おじさんは僕より少し前を歩き、足元の影を長く伸ばしていた。

 渋谷駅へ戻る道は、来たときとは違っていた。街の色が変わったからではない。おじさんの語る“過去の東京”が、いま目の前の街の内側に薄く重なって、僕の見ている景色を透かし始めていた。高層ビルの窓に映る光の層が、まるで波のように見えた。歩道を行き交う人々の歩幅が、潮の満ち引きのように見えた。風がビルの隙間を抜けるたび、おじさんが語った“潮に似た匂い”がほんの一瞬だけ胸をかすめた。

 昔と今が、海と街が、自分と誰かが。

 すべてがゆっくりと重なって揺れているような、そんな不思議な感覚だった。

 

 駅が近づき、ネオンの光が強くなるほど、おじさんの背中は少しずつ小さく見えるようになった。話は一区切りついたようだったが、おじさんの歩く速度には、どこか惜しむような迷いが残っていた。

 「……おじさんは、そのあとどうしたんですか」

 僕は思わず声をかけた。過去の話の続きを、本当は聞かなくても分かる気がしていたが、どうしても聞きたかった。おじさんは振り返り、少しだけ笑った。

 「俺か? そうだな……東京で生きて、歳をとって、それでもたまに風の匂いを確かめるようになったよ」

 「風の……匂い?」

 「あぁ。日によって違うからな。新しい風が吹く日もあれば、昔を連れてくる風もある。どちらがいいとかじゃない。ただ、自分が歩いてきた道が、風の中にうっすら残ることがあるんだ」

 おじさんは胸のあたりをそっと叩いた。

 「このへんにな」

 胸の奥を、そっとくすぐるような言葉だった。おじさんの人生は、人に語れるほど整ったものではないのかもしれない。だが、その中に確かに残った“風の匂い”だけが、長い時間を経ても色を失わずにいる。

 駅前の交差点が見えた。

 昼間よりもさらに明るい光が街を包み、すれ違う人々の影を細かく散らしていた。おじさんは足を止め、スクランブル交差点を指し示した。

 「あそこを渡ると、君はもう“今日の東京の風”の中に戻るんだ」

 その言い方は、別れを示すというより、何かをそっと差し出すようだった。

 「おじさんが東京で気づいたこと……俺も、気づけますかね」

 聞いた瞬間、自分の声が少し震えているのが分かった。気づきたくない何かに、すでに触れてしまっている気がしたからだ。おじさんはしばらく黙っていた。そして、僕の目を静かに見つめて言った。

 「……気づきたくないことほど、風はよく運んでくる」

 その瞬間、風がふっと吹いた。街の光を散らす風とは思えない、どこか湿った、柔らかい風だった。胸の奥の、ずっと沈んでいた場所がひとつだけ小さく波打った。何かが触れた。でもそれは、まだ言葉にはならない。

 「今日は、ありがとう」

 おじさんは僕に手を振った。

 「えっ、もう行くんですか?」

 「君には、君の歩幅がある。この街で見えるものは、その歩幅でしか見えないからな」

 そう言って、おじさんは人々の流れの中へ溶けていった。一度も振り返らずに。まるで最初から、風の中に混ざっていた存在だったかのように。

 

 僕は交差点の中央に足を踏み入れた。たくさんの足音が重なり合い、信号の音が遠くで響き、光の粒が空中を漂っている。普段なら気にも留めないそのすべてが、不思議と胸の奥で反響していた。

 どうしてだろう。

 人の流れの中を歩きながら、僕はふと、おじさんの言葉を思い返した。

 「馴染めていると思い込んでいた」

 「風に昔の匂いが混ざる」

 「気づいた瞬間から、ようやく歩ける」

 どれも、おじさんの人生の話だ。でも、そのどれもが、胸の奥のどこかにそっと触れていた。信号が点滅し始めたとき、風がまた吹いた。胸の深い場所で、何かがゆっくりとほどけていく。

 ああ。

 その瞬間、初めて思った。

 自分と同じだ。

 それ以上の言葉は、何もなかった。でも、それだけで十分すぎるほど何かが変わった気がした。風は冷たくも温かくもない。ただ、確かに吹いていた。

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