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19. 道標

『前回のあらすじ』


ノアとルカスは伯爵邸へ帰還する。

ユスティナはルカスの葬儀不在を咎め、ドミティア夫人との権力争いが明らかになる。

その後ユスティナに呼ばれ書斎へ向かう。

書斎の扉をノックする。


「ノアです」

「入って」


中に入ると、夕暮れの光が差し込む書斎でユスティナ様が窓辺に立っていた。

柔らかな金色の光が髪を照らしている。

ユスティナ様はしばらく外を眺めていたが、やがて僕に視線を向けた。


「急に呼び出して悪いわね。少し話したいことがあるの」

「如何なさいました?」

「ヴェルクラティア学院への入学の件よ」

「あっ、そういえば……」

「ふふっ、屋敷に戻ってから忙しそうだったものね」


その笑みに少し安堵する。


「申し訳ございません……」

「いいのよ。でも、聞いたわ。公爵閣下のお誘いを保留にしたんですって?肝が据わっているわね、あなた」


「そ、そんな……ただ、ユスティナ様に相談してから決めた方が良いのではと思いまして」

「ノアは、どうしたいの?」


少し間を置いて、僕は息を吸い込んだ。


「僕は……僕を拾ってくださった伯爵家のお役に立ちたいです。学院への推薦は光栄ですが、伯爵家を離れてまで行きたいとは思いません」

「そう……」


ユスティナ様は目を伏せほんの少し微笑んだ。


「ノア。――あなたは学院へ行きなさい」

「えっ……?」

「あなたの気持ちはよくわかったわ。でもね、それだけじゃ駄目なの。視野が狭すぎるのよ」

「視野が……?」

「世界は広いわ。外へ出て、見て、学んで、自分で考えること。それも立派な奉仕よ。そもそも平民の身で学院に通えるなんて、そうある機会じゃないのよ」


ユスティナ様の声は穏やかだったが、一言一言に力があった。


「四年間、しっかり学びなさい。それでも伯爵家に仕えたいと思うなら――その時はまた帰ってきなさい」

「……よろしいのですか?」

「ええ、もちろん。ただ、一つだけ約束して」

「なんでしょうか?」

「――周りに流されないようにしなさい」

「流されないように……?」

「そう。周りの空気や協調の名のもとに、心を押し殺してしまうことがある。でもね、何か大切な選択を迫られた時は、必ず自分で答えを出すの。それが、あなたらしく生きるということよ」

「あなたは伯爵家の従者である前に一人の人間なのだから」


ユスティナ様は窓の外を見つめながら、静かに言葉を結んだ。

その横顔は、少し寂しげで――どこか過去を思い出しているようにも見えた。


「……はい。心に刻みます」

「ふふっ、真面目ね。でもこの言葉、実は受け売りなのよ」

「え?受け売りですか?」

「ええ。義母様の言葉よ」

「ドミティア夫人の……?」


ユスティナ様は軽く首を振って、少し懐かしそうに笑った。


「いいえ。あの方じゃないわ。二番目の義母様、アーデルハイト夫人から教わったの」

「二番目の……?」

「ええ。……ねぇ、せっかくだし少し昔話に付き合ってくれるかしら?」

「僕でよければ、喜んで!」


沈みゆく陽が、彼女の瞳に淡く反射していた。



オルディス伯爵家。

ヴェルクラティア帝国の南東、隣国デュアリス王国と国境を接する穏やかな土地。

気候は温暖で、季節ごとに豊かな実りをもたらす。

春には丘一面に花が咲き、初夏には黄金色の麦が風に揺れた。

当主であるお父様――オルディス伯爵は、領民の声に耳を傾け時間があれば自ら領地を巡るほどの領民思いの方だった。

そんなお父様の姿を私は誇らしく見ていた。

お母様もまた、その優しい背中をいつも微笑みながら見つめていた。

けれど、その穏やかな日々は長くは続かなかった。


「おかあさま……!」

「ティナ……」


お母様は流行病に倒れ、私の呼びかけに小さく微笑んだあと――静かに息を引き取られた。

その頃、帝国は長く続いたデュアリス王国との戦争をようやく終結させたばかりだった。

けれど、安息の時は訪れなかった。

すぐに南西の海を隔てた島国――インスリア連邦との戦が始まり、戦火は再び広がっていった。

インスリア連邦は大小さまざまな島々からなる連邦国家で、海上交易の要でもあった。

帝国の主な港は冬になると海路が殆ど氷に閉ざされるため、貿易の多くをその連邦に頼っていた。

だが、その依存を嫌った帝国はついに海上貿易の主導権を奪うための侵攻を開始した。

戦が長引くにつれ、領地にも影響は広がっていった。

物資は不足し、男たちは徴兵され残された領民たちは疲れ果てていった。


そんな折、皇帝の命によって新しい夫人――アーデルハイト様が迎えられた。

まだ20にも届かぬほどの若さだったがとても着いていて、まるで冬の朝に差し込む光のような人だった。

初めのうちは、領民も使用人たちも少し距離を取っていたが彼女の柔らかな笑みと気配りで、いつの間にか皆の心を掴んでいった。

屋敷の空気は次第に明るくなり、笑い声が戻っていった。


――けれど、私は違った。


(みんな……お母様のこともう忘れちゃったの?)

(どうして、あんなに簡単に笑えるの……?)


心の奥で黒いものが渦を巻いた。

お父様が微笑むたびに、胸の奥がひりついた。

夫人の優しげな声を聞くたびに、思い出したくない寂しさが蘇った。

やがて夫人とお父様の間に男の子が産まれた。

お父様は彼を抱き上げ、穏やかな顔をして笑っていた。

その光景を見た瞬間、私は心のどこかが壊れた気がした。


(あの子ばっかり……)

(どうして、私はあんなふうに笑ってもらえないの?)


弟を抱くことも、名前を呼ぶこともできなかった。

見えない距離が、日を追うごとに広がっていった。

そんなある夜、私は高熱で寝込んだ。

喉が焼けるように痛く、体は鉛のように重かった。

うなされるたびに、お母様とお父様を呼んでは泣いていた。

けれど、もう返ってくる声はなかった。


……ふと、目を覚ますと。

枕元の灯が小さく揺れていた。

その光の中で、夫人が私の手を握っていた。

長い髪が頬にかかっていて、眠っているようにも見えた。

でも、その指先はしっかりと私の手を包んでいた。


「……おはよう、ティナ」

「少し熱が下がったみたいね」


夫人はかすかに微笑み、私の額に手をあてた。


「も、もう大丈夫です……」

「よかった。……お医者様を呼んでくるわ。少しのあいだ、ゆっくり休んでいてね」


その声を聞いた瞬間、胸の奥があたたかくなった。

お母様がかつて同じようにしてくれた夜を思い出した。

その記憶と、夫人の手のぬくもりが重なって、

涙が知らぬうちに頬を伝っていた。


――その夜を境に、私は少しずつ心を開いていった。

夫人は私を叱ることもなく、けれど見守るように優しく導いてくれた。

一緒に庭を歩き、刺繍を教えてくれ、時には静かにお茶を飲んだ。

いつしか私は、彼女を避けることをやめていた。



ある日の夕暮れ。

金色の光が廊下を染める中で、夫人は私の肩にそっと手を置いて言った。


「ティナ、貴女はとても優しい子ね」

「……そうでしょうか」

「ええ。でもね、優しさだけでは世の中は流されてしまうの」

「流される……?」

「人の言葉や恐れ、世間の『正しさ』に。本当に大事なことを決める時は、周りの声じゃなくて――自分の心で選びなさい」


その言葉は私の心に深く刻まれた。


ある夜、廊下を歩いていると書斎からお父様たちの声が聞こえてくる。


「陛下は……いったい何をお考えなのだろうか。

数年前のこの季節は、一面に黄金の麦畑が広がり、領民たちの笑い声が絶えなかったというのに。今では、民の悲鳴と飢えの嘆きばかりが耳に残る……」


お父様の声は低く、どこか遠くを見つめるようだった。

執務机の上には地図と報告書が山積みになり、蝋燭の火が揺れている。


「旦那様……」

「すまないな。お前に言っても仕方のないことだとわかっている。

だが、どうしても今の陛下のやり方には納得がいかぬのだ」

「いいえ。伯爵領の現状を見れば、旦那様のご心労は当然のことかと存じます」

「……そう言ってくれるだけでも救われる。お前のような者がいてくれて助かる」


お父様は疲れ切った顔で小さく笑った。

その笑みを見て、胸の奥が痛んだ。

扉の陰からそっと覗いていた私は、拳をぎゅっと握りしめる。


(お父様……)


どうしても何もできない自分が悔しかった。

ただ悲しんでいるだけでは、お母様にもお父様にも夫人にも顔向けできない。


「私がこんなに泣いてばかりいたら、お父様を困らせちゃう……!

しっかりしないと!」


私は両手で頬を叩き、鏡に映る自分へ言い聞かせた。

その日から、伯爵家の令嬢としてできることを探し続けた。

領民の話を聞き、書簡を届け時には孤児院に足を運んだ。

小さなことでも、自分の手で変えられるものを増やしたかった。



――それから、数年が経った。

長く続いたインスリア連邦との戦争が、突然終結した。

噂では、戦場に若干十歳の少年が現れ、誰よりも勇敢に戦ったという。

その功績が和平のきっかけになったのだと。


(……十歳の子が、戦場で?)


信じられなかった。

けれど、領地に届いた正式な報告書には、確かに記されていた。

私はどうしても彼に会って、直接お礼を言いたかった。

けれど、戦が終わったあと彼は忽然と姿を消したという。

ただひとつ残ったのは――

彼は平民の出だったという噂だけだった。


それからほどなくして夫人は、突然この世を去った。

暗殺――そうお父様から伝えられた。

突然の訃報を聞いたとき、胸の奥に大きな穴が空いたようだった。

悲しみよりも先に、信じられなかった。

つい昨日まで、いつもの穏やかな笑顔で私に声をかけてくれていたのに――。


(どうして……どうして夫人が……)


ただ、朝の光が射し込む夫人の部屋にもうあの人の姿はなかった。

涙が止まらなかった。

私を気にかけ、優しく見守ってくれていた人。

あの人は、陛下の命によってこの家に嫁ぎ、自由を奪われた身だったのに……。

それでも私の心ばかりを案じてくれていた。

今になってようやく、その想いに気づいた。

そして、自分がどれほど愚かで狭い世界しか見ていなかったかを思い知らされた。

申し訳なさと後悔が、胸を締めつけた。


――それから、屋敷の空気は一変した。

ルカスとは、互いに言葉を交わすことがほとんどなくなった。

夫人の葬儀の日、棺の前でルカスが私とお父様を睨みつけた顔が今でも脳裏から離れない。

怒りとも、悲しみともつかぬあの瞳が脳に焼き付いている。

そして、お父様も次第に体調を崩されていった。

あの日を境に、まるで何かが壊れてしまったようだった。

以前のような穏やかさは消え、政治の舵取りは厳しく、冷たくなっていった。

領民の間では不満が募り、反発の声が日に日に強くなっていった。


(このままでは、領地が壊れてしまう……)


そう感じた私は行動に出た。

お父様には『治療に専念する』との名目で政務から離れてもらいその代わりに、私が領地の治世を取り仕切った。

領民たちの不安を抑え、少しでも秩序を取り戻すために。

恐れもあったけれど、夫人から受け取った言葉が私の背中を押してくれた。

だから、今でも胸を張って言える。

夫人の言葉を胸に、自分の道を選ぶと。

――流されずに、生きていくと。

それが、夫人へのせめてもの弔いだった。


「……と言うことがあって、私が代わりに治世を取り仕切っていたの」

「その後お父様は、ドミティア夫人と再婚なさって子供も授かったけれど……今ならわかるの。お父様も、誰かに支えられたかったのよ」


静かな口調には、恨みも怒りもなかった。

ただ、過去を受け入れた人の穏やかさがあった。


「夫人はね、最後まで私に自分の道を選びなさいと言っていたの。だから、私もそうありたいの」

「……素敵です」

「ありがとう。ノアもね、何かに迷ったときは思い出して。誰かに決められた道より、自分の答えを選ぶのよ」

「はい!」


ユスティナ様は小さく微笑み、息をついた。

外では、夜の帳がゆっくりと降りていた。


「……あ、それと」


ふと思い出したように彼女は言葉を継いだ。


「これはまだルカスにしか言っていないのだけれど――」


少し照れくさそうに笑ってから、


「私ね、近いうちにレオニスと婚約するの」

「えっ!?!?」


驚きに声が裏返る僕を見て、ユスティナ様は楽しそうに笑った。

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