それでも生きていた
「セイタさん、聞きました?副団長、空いたって」
昼休憩の食堂で、ユキが唐突にそう口にした。
手にしていたスープが、カチャリと揺れる。
「……俺には関係ない」
そう返したつもりだった。
けれど、ユキは表情を変えなかった。
「でも、上が推薦してるらしいですよ。“空気が変わった”って」
(それは俺のせいじゃない)
言葉にしようとしたが、できなかった。
「“空気を変えた”人が、その座にふさわしい……私は、そう思います」
彼女はそう言って、静かにスプーンを口に運んだ。
周囲のギルド員が、一瞬だけこちらを見た気がした。
***
廊下を歩いていると、今まで挨拶すらしてこなかった男が軽く会釈してきた。
訓練場では、若手が「セイタさんの構え、参考にしてます」と言ってきた。
物言わぬ誰かが、背後からついてくる気配。
無数の視線が、静かに“後押し”してくる。
ギルドマスターに呼び出されたのは、その翌日だった。
応接室。静かな光。カップに注がれる茶の香り。
「副団長職に、空きが出た」
ヴァレンの声は、感情の揺れを含んでいなかった。
「推薦が上がっている。君を――という声だ」
「……断る」
即答だった。
「責任は、俺には重すぎる」
「そうか」
ヴァレンはそれ以上、何も言わなかった。
ただ最後に、カップを置く音だけが響いた。
「君がそう言うなら、それが正しいのだろう」
***
けれど――
その夜。
ギルド内の掲示板に、こう書かれていた。
《副団長選任延期》
※候補としてセイタの名が挙がっているが、本人の希望により見送り。
※当面の実務はセイタが担当することとする。
「……は?」
貼り出されたそれを見た瞬間、頭が真っ白になった。
(いや、断ったんだが)
が、周囲の反応はまるで違った。
「セイタさんらしいよな」
「責任より現場を選ぶ。さすがだわ」
「ほんと、俺たちのこと分かってくれてるって感じ」
誰も疑っていなかった。
“任されても当然の男が、それを辞退した”──そう受け止めていた。
***
その夜。
自室でひとり、セイタは硬いベッドに座っていた。
拳を握る。震えてなどいない。だが、手のひらは汗ばんでいた。
(……断ったのに)
(ただ、静かに消えていきたかったのに)
けれど、世界はもう、静かにはならなかった。
「……また一歩、戻れなくなったな」
吐き捨てるように、呟いた。
その声は、自分にしか届かない。