“分からない”恐怖
エッセイという名の論説文です。
幼い子供の無知さを、羨ましく思ったことがあった。
様々な知識を蓄えた私たちは、災害や戦争などの、遠く抽象的な脅威に対しても考えが及んでしまう。
一方で、無知な子どもは、恐れを抱くことはあるが、その対象はお化けや暗所、雷などの身近で具体的なものに限定されるため、たかが知れている、と。
でも、本当にそうなのだろうか。
記憶をたどると、幼少期に感受した恐怖は、その対象が些細なものであったにもかかわらず強烈だった。
無知、ひいては知能が未発達な段階における恐怖は、むしろ大人よりも強く、純粋に感じられた。
雷を怖がる子どもは多いが、そのほとんどが成長の過程でそれを克服する。
雷が大気中の電気現象であり、科学的に説明可能な自然の仕組みだと知るからだ。
知識の獲得が、「漠然とした恐怖」を、対処可能なものに変化させたのである。
また、言語能力の発達も、恐怖の変化に寄与する。
恐怖は、自己で分析し、他者と分かち合うことで緩和されるが、この過程において、言語は主要なツールとなるからだ。
幼い子どもはこの力が未発達であるため、感情がスムーズに処理されず、いわば消化不良を起こしてしまう。
彼らにとっての恐怖は、認知できず、共有もできない、「得体のしれないもの」であろう。
子どもの恐怖体験は固有かつ特殊であり、大人が追体験することはできない。
それでも、ある行為によって、その質を垣間見ることは可能だ。
悪夢の記憶を反芻すればよいのだ。
悪夢は非現実であり、常識を超越した奇想天外な出来事が展開する。
それらは、あらゆる既有知識や論理、経験の枠組みを無効化し、対抗できない形で迫ってくる。
恐怖や絶望は直感として心に響き、目覚めた後もその余韻が残る。
言葉で説明しようとしても、他人には一切伝わらず、私たちは言語化の限界にぶち当たる。
この感覚は、子どもの無知な恐怖——言語や知識で処理しきれず、ただ心を支配する感情——に驚くほど似ている。
悪夢のあらましや、幼少期の恐怖のトリガーは、客観的に捉えれば恐怖するに値しないもので、それらに怯えていた過去は、滑稽にすら思える。
災害、戦争、病気…
“分かる”からこその杞憂や疲弊は多い。
しかし、私たちが見ている世界は、子どもの頃のそれよりも、ずっと開けていて明るいはずだ。
恐怖もまた同じだ。
“分からない恐怖”に勝るものはない。