安部公房『赤い繭』解説④最終回 「後に大きな空っぽの繭が残った」
「後に大きな空っぽの繭が残った」…この表現は、解体されてしまった自己の存在を、初めて外側から客観視できた男の様子を表す。視点がポンと外側に出ている。繭となった男の意識はまだ残っている。
自分の外形を眺め、初めて男は「ああ、これでやっと休める」とつぶやく。
男の客観視は続く。「夕陽が赤々と繭を染めていた。これだけは確実に誰からも妨げられないおれの家だ」。「夕陽」とともに「繭」・「家」となった自身を眺め、「これ」と表現する。家を求めていた男自身が家となってしまった不条理。自身の存在を消失することでしか、求めるものを手に入れることができない。それは、身を削って働く現在のわれわれも同じだろう。
「これだけは確実に誰からも妨げられないおれの家だ。だが、家ができても、今度は帰ってゆくおれがいない」と嘆くのも当然だ。自己の喪失の絶望。
「人はいるが家はない」から、「家はあるが人はいない」へ。両極端の不幸。
「繭の中で時がとだえた。外は暗くなったが、繭の中はいつまでも夕暮れで、内側から照らす夕焼けの色に赤く光っていた」…人としての身体と生命を失った男は、その意識も次第に変化する。彼の意識は時空を超えているようだ。夕陽に照らされて自己が消滅し、繭となった時点で止まり、繭となった男は存在し続ける。わずかに残った彼の命の灯火が、かすかに繭の「内側から」「赤く光」る。
「棍棒」を持つ権利を持つ「彼」が、再び登場する。「彼」は目ざとく「繭になったおれを、汽車の踏切とレールの間で見つけ」、公共の場に存在する男に「最初腹をたてたが、すぐに珍しい拾いものをしたと思いなおして」、自分の「ポケットに入れた」。道に落ちているものを勝手に持ち去るのは、拾得物横領・ねこばばだ。法に従うべき、「棍棒」を持つ権利を持つ「彼」も、しょせん自分の好奇心には抗えず、「すぐに」法を犯してしまう。
ところで、男はいつの間にか、「汽車の踏切とレールの間」に転がり落ちており、存在の危機にあったことになる。その意味では、「彼」に見つけられ、そのポケットに入れられたのはむしろ幸運だった。
「しばらくその中をごろごろした後で、彼の息子の玩具箱に移された」…「家」は無く、そのために歩かされ続けだった「男」は、個人としては独立していた。繭となった男は、「彼」の所有となり、そのポケットの中で「ゴロゴロ」させられる。自己の意志までもが他者に委ねられてしまった男。
さらに男は、その余生を「彼の息子」の「玩具」として過ごすことになる。しかしよく考えれば、彼の人生はそもそも初めからなにものかのオモチャだった。
すべての他者が所有する「家」を自分だけは持たず、それを探し求めて昼も夜も歩きつづけ、やがて足が糸に化け、それが自分を閉じ込める繭となり、最後は子供のおもちゃになる。休息の場所を持たず、肉体も意志も他者に奪われる人生は最悪だ。まさに繭となって自己存在が空ろとなった男。
自己は失ってしまったものの、「ねぐら」は手に入れた男は、不幸なのか幸福なのか。
この物語は、安住の地を持たない男が、やがて身も意志も崩壊していく過程が描かれる。異形の繭となり、時間と空間に自己が溶け出していく感覚の中、結局「息子」にもてあそばれる人生。不条理の悲惨さがそのまま形となる、希望が見えない物語だ。
それは、この「男」に我々が、何のアドバイスもできないところにもある。「家」を求めるのは止めよ、とも言えないし、なにものかの見えざる力による自動歩行を止めることもできない。何の罪もない男が、地獄に落とされることを止められない無力感。物語の向こう側も、こちら側にいる我々も、ともに不幸に落ちる不条理。
世の中とは、人生とは、このようなものだ。という諦念すら虚しい。誰も救わない物語。
坂口安吾に、「文学のふるさと」という文章がある。その全文を引用する。この文章は、「赤い繭」の読み取りにヒントを与えてくれる。
「シャルヽ・ペローの童話に「赤頭巾」といふ名高い話があります。既に御存知とは思ひますが、荒筋を申上げますと、赤い頭巾をかぶつてゐるので赤頭巾と呼ばれてゐた可愛い少女が、いつものやうに森のお婆さんを訪ねて行くと、狼がお婆さんに化けてゐて、赤頭巾をムシャ/\食べてしまつた、といふ話であります。まつたく、たゞ、それだけの話であります。
童話といふものには大概教訓、モラル、といふものが有るものですが、この童話には、それが全く欠けてをります。それで、その意味から、アモラルであるといふことで、仏蘭西では甚だ有名な童話であり、さういふ引例の場合に、屡々しばしば引合ひに出されるので知られてをります。
童話のみではありません。小説全体として見ても、いつたい、モラルのない小説といふのがあるでせうか。小説家の立場としても、なにか、モラル、さういふものゝ意図がなくて、小説を書きつゞける――さういふことが有り得ようとは、ちよつと、想像ができません。
ところが、こゝに、凡そモラルといふものが有つて始めて成立つやうな童話の中に、全然モラルのない作品が存在する。しかも三百年もひきつゞいてその生命を持ち、多くの子供や多くの大人の心の中に生きてゐる――これは厳たる事実であります。
シャルヽ・ペローといへば「サンドリヨン」とか「青髯」とか「眠りの森の少女」といふやうな名高い童話を残してゐますが、私はまつたくそれらの代表作と同様に、「赤頭巾」を愛読しました。
否、むしろ、「サンドリヨン」とか「青髯」を童話の世界で愛したとすれば、私はなにか大人の寒々とした心で「赤頭巾」のむごたらしい美しさを感じ、それに打たれたやうでした。
愛くるしくて、心が優しくて、すべて美徳ばかりで悪さといふものが何もない可憐な少女が、森のお婆さんの病気を見舞に行つて、お婆さんに化けて寝てゐる狼にムシャ/\食べられてしまふ。
私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違つたやうな感じで戸惑ひしながら、然し、思はず目を打たれて、プツンとちよん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでせうか。
その余白の中にくりひろげられ、私の目に泌みる風景は、可憐な少女がたゞ狼にムシャ/\食べられてゐるといふ残酷ないやらしいやうな風景ですが、然し、それが私の心を打つ打ち方は、若干やりきれなくて切ないものではあるにしても、決して、不潔とか、不透明といふものではありません。何か、氷を抱きしめたやうな、切ない悲しさ、美しさ、であります。
もう一つ、違つた例を引きませう。
これは「狂言」のひとつですが、大名が太郎冠者を供につれて寺詣でを致します。突然大名が寺の屋根の鬼瓦を見て泣きだしてしまふので、太郎冠者がその次第を訊ねますと、あの鬼瓦はいかにも自分の女房に良く似てゐるので、見れば見るほど悲しい、と言つて、たゞ、泣くのです。
まつたく、たゞ、これだけの話なのです。四六判の本で五、六行しかなくて、「狂言」の中でも最も短いものゝ一つでせう。
これは童話ではありません。いつたい狂言といふものは、真面目な劇の中間にはさむ息ぬきの茶番のやうなもので、観衆をワッと笑はせ、気分を新にさせればそれでいゝやうな役割のものではありますが、この狂言を見てワッと笑つてすませるか、どうか、尤も、こんな尻切れトンボのやうな狂言を実際舞台でやれるかどうかは知りませんが、決して無邪気に笑ふことはできないでせう。
この狂言にもモラル――或ひはモラルに相応する笑ひの意味の設定がありません。お寺詣でに来て鬼瓦を見て女房を思ひだして泣きだす、といふ、なるほど確かに滑稽で、一応笑はざるを得ませんが、同時に、いきなり、突き放されずにもゐられません。
私は笑ひながら、どうしても可笑しくなるぢやないか、いつたい、どうすればいゝのだ……といふ気持になり、鬼瓦を見て泣くといふこの事実が、突き放されたあとの心の全てのものを攫ひとつて、平凡だの当然だのといふものを超躍した驚くべき厳しさで襲ひかゝつてくることに、いはゞ観念の眼を閉ぢるやうな気持になるのでした。逃げるにも、逃げやうがありません。それは、私達がそれに気付いたときには、どうしても組みしかれずにはゐられない性質のものであります。宿命などゝいふものよりも、もつと重たい感じのする、のつぴきならぬものであります。これも亦、やつぱり我々の「ふるさと」でせうか。
そこで私はかう思はずにはゐられぬのです。つまり、モラルがない、とか、突き放す、といふこと、それは文学として成立たないやうに思はれるけれども、我々の生きる道にはどうしてもそのやうでなければならぬ崖があつて、そこでは、モラルがない、といふこと自体がモラルなのだ、と。
晩年の芥川龍之介の話ですが、時々芥川の家へやつてくる農民作家――この人は自身が本当の水呑百姓の生活をしてゐる人なのですが、あるとき原稿を持つてきました。芥川が読んでみると、ある百姓が子供をもうけましたが、貧乏で、もし育てれば、親子共倒れの状態になるばかりなので、むしろ育たないことが皆のためにも自分のためにも幸福であらうといふ考へで、生れた子供を殺して、石油缶だかに入れて埋めてしまふといふ話が書いてありました。
芥川は話があまり暗くて、やりきれない気持になつたのですが、彼の現実の生活からは割りだしてみようのない話ですし、いつたい、こんな事が本当にあるのかね、と訊ねたのです。
すると、農民作家は、ぶつきらぼうに、それは俺がしたのだがね、と言ひ、芥川があまりの事にぼんやりしてゐると、あんたは、悪いことだと思ふかね、と重ねてぶつきらぼうに質問しました。
芥川はその質問に返事することができませんでした。何事にまれ言葉が用意されてゐるやうな多才な彼が、返事ができなかつたといふこと、それは晩年の彼が始めて誠実な生き方と文学との歩調を合せたことを物語るやうに思はれます。
さて、農民作家はこの動かしがたい「事実」を残して、芥川の書斎から立去つたのですが、この客が立去ると、彼は突然突き放されたやうな気がしました。たつた一人、置き残されてしまつたやうな気がしたのです。彼はふと、二階へ上り、なぜともなく門の方を見たさうですが、もう、農民作家の姿は見えなくて、初夏の青葉がギラ/\してゐたばかりだといふ話であります。
この手記ともつかぬ原稿は芥川の死後に発見されたものです。
こゝに、芥川が突き放されたものは、やつぱり、モラルを超えたものであります。子を殺す話がモラルを超えてゐるといふ意味ではありません。その話には全然重点を置く必要がないのです。女の話でも、童話でも、なにを持つて来ても構はぬでせう。とにかく一つの話があつて、芥川の想像もできないやうな、事実でもあり、大地に根の下りた生活でもあつた。芥川は、その根の下りた生活に、突き放されたのでせう。いはゞ、彼自身の生活が、根が下りてゐないためであつたかも知れません。けれども、彼の生活に根が下りてゐないにしても、根の下りた生活に突き放されたといふ事実自体は立派に根の下りた生活であります。
つまり、農民作家が突き放したのではなく、突き放されたといふ事柄のうちに芥川のすぐれた生活があつたのであります。
もし、作家といふものが、芥川の場合のやうに突き放される生活を知らなければ、「赤頭巾」だの、さつきの狂言のやうなものを創りだすことはできないでせう。
モラルがないこと、突き放すこと、私はこれを文学の否定的な態度だとは思ひません。むしろ、文学の建設的なもの、モラルとか社会性といふやうなものは、この「ふるさと」の上に立たなければならないものだと思ふものです。
もう一つ、もうすこし分り易い例として、伊勢物語の一つの話を引きませう。
昔、ある男が女に懸想して頻りに口説いてみるのですが、女がうんと言ひません。やうやく三年目に、それでは一緒になつてもいゝと女が言ふやうになつたので、男は飛びたつばかりに喜び、さつそく、駈落することになつて二人は都を逃げだしたのです。芥の渡しといふ所をすぎて野原へかゝつた頃には夜も更け、そのうへ雷が鳴り雨が降りだしました。男は女の手をひいて野原を一散に駈けだしたのですが、稲妻にてらされた草の葉の露をみて、女は手をひかれて走りながら、あれはなに? と尋ねました。然し、男はあせつてゐて、返事をするひまもありません。やうやく一軒の荒れ果てた家を見つけたので、飛びこんで、女を押入の中へ入れ、鬼が来たら一刺しにしてくれようと槍をもつて押入れの前にがんばつてゐたのですが、それにも拘らず鬼が来て、押入の中の女を食べてしまつたのです。生憎そのとき、荒々しい雷が鳴りひゞいたので、女の悲鳴もきこえなかつたのでした。夜が明けて、男は始めて女がすでに鬼に殺されてしまつたことに気付いたのです。そこで、ぬばたまのなにかと人の問ひしとき露と答へてけなましものを――つまり、草の葉の露を見てあれはなにと女がきいたとき、露だと答へて、一緒に消えてしまへばよかつた――といふ歌をよんで、泣いたといふ話です。
この物語には男が断腸の歌をよんで泣いたといふ感情の附加があつて、読者は突き放された思ひをせずに済むのですが、然し、これも、モラルを越えたところにある話のひとつではありませう。
この物語では、三年も口説いてやつと思ひがかなつたところでまんまと鬼にさらはれてしまふといふ対照の巧妙さや、暗夜の曠野を手をひいて走りながら、草の葉の露をみて女があれは何ときくけれども男は一途に走らうとして返事すらもできない――この美しい情景を持つてきて、男の悲嘆と結び合せる綾とし、この物語を宝石の美しさにまで仕上げてゐます。
つまり、女を思ふ男の情熱が激しければ激しいほど、女が鬼に食はれるといふむごたらしさが生きるのだし、男と女の駈落のさまが美しくせまるものであればあるほど、同様に、むごたらしさが生きるのであります。女が毒婦であつたり、男の情熱がいゝ加減なものであれば、このむごたらしさは有り得ません。又、草の葉の露をさしてあれは何と女がきくけれども男は返事のひますらもないといふ一挿話がなけれは、この物語の値打の大半は消えるものと思はれます。
つまり、たゞモラルがない、たゞ突き放す、といふことだけで簡単にこの凄然たる静かな美しさが生れるものではないでせう。たゞモラルがない、突き放すといふだけならば、我々は鬼や悪玉をのさばらせて、いくつの物語でも簡単に書くことができます。さういふものではありません。
この三つの物語が私達に伝へてくれる宝石の冷めたさのやうなものは、なにか、絶対の孤独――生存それ自体が孕んでゐる絶対の孤独、そのやうなものではないでせうか。
この三つの物語には、どうにも、救ひやうがなく、慰めやうがありません。鬼瓦を見て泣いてゐる大名に、あなたの奥さんばかりぢやないのだからと言つて慰めても、石を空中に浮かさうとしてゐるやうに空しい努力にすぎないでせうし、又、皆さんの奥さんが美人であるにしても、そのためにこの狂言が理解できないといふ性質のものでもありません。
それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとゝいふものは、このやうにむごたらしく、救ひのないものでありませうか。私は、いかにも、そのやうに、むごたらしく、救ひのないものだと思ひます。この暗黒の孤独には、どうしても救ひがない。我々の現身うつしみは、道に迷へば、救ひの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷ふだけで、救ひの家を予期すらもできない。さうして、最後に、むごたらしいこと、救ひがないといふこと、それだけが、唯一の救ひなのであります。モラルがないといふこと自体がモラルであると同じやうに、救ひがないといふこと自体が救ひであります。
私は文学のふるさと、或ひは人間のふるさとを、こゝに見ます。文学はこゝから始まる――私は、さうも思ひます。
アモラルな、この突き放した物語だけが文学だといふのではありません。否、私はむしろ、このやうな物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。……
だが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があらうとは思はれない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそのやうに信じてゐます。」 (青空文庫より)
以上の文章をまとめる。
「赤頭巾と呼ばれてゐた可愛い少女が、いつものやうに森のお婆さんを訪ねて行くと、狼がお婆さんに化けてゐて、赤頭巾をムシャ/\食べてしまつた」。
「凡そモラルといふものが有つて始めて成立つやうな童話の中に、全然モラルのない作品が存在する。しかも三百年もひきつゞいてその生命を持ち、多くの子供や多くの大人の心の中に生きてゐる」「厳たる事実」。「なにか大人の寒々とした心で「赤頭巾」のむごたらしい美しさを感じ、それに打たれ」る我々。
「突き放され」、「戸惑ひしながら、然し、思はず目を打たれて、プツンとちよん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見」る、「氷を抱きしめたやうな、切ない悲しさ、美しさ」。
「逃げるにも、逃げやうが」ない。「私達がそれに気付いたときには、どうしても組みしかれずにはゐられない性質のもの」。「宿命などゝいふものよりも、もつと重たい感じのする、のつぴきならぬもの」がある。
坂口安吾は結論付ける。
「モラルがない、とか、突き放す、といふこと、それは文学として成立たないやうに思はれるけれども、我々の生きる道にはどうしてもそのやうでなければならぬ崖があつて、そこでは、モラルがない、といふこと自体がモラルなのだ」。
「モラルがないこと、突き放すこと、私はこれを文学の否定的な態度だとは思ひません。むしろ、文学の建設的なもの、モラルとか社会性といふやうなものは、この「ふるさと」の上に立たなければならないものだと思ふものです」。
「この三つの物語が私達に伝へてくれる宝石の冷めたさのやうなものは、なにか、絶対の孤独――生存それ自体が孕んでゐる絶対の孤独、そのやうなものではないでせうか」。
「生存の孤独とか、我々のふるさとゝいふものは、このやうにむごたらしく、救ひのないものでありませうか。私は、いかにも、そのやうに、むごたらしく、救ひのないものだと思ひます。この暗黒の孤独には、どうしても救ひがない。我々の現身は、道に迷へば、救ひの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷ふだけで、救ひの家を予期すらもできない。さうして、最後に、むごたらしいこと、救ひがないといふこと、それだけが、唯一の救ひなのであります。モラルがないといふこと自体がモラルであると同じやうに、救ひがないといふこと自体が救ひであります。
私は文学のふるさと、或ひは人間のふるさとを、こゝに見ます。文学はこゝから始まる――私は、さうも思ひます」。
「このふるさとの意識・自覚のないところに文学があらうとは思はれない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそのやうに信じてゐます」。
我々は、「男」の悲しみ・孤独に寄り添うことで、男の魂を鎮め、自分の魂も鎮めるのだろう。このように、アモラル・不条理は、物語の内と外を、かえって強くつなぐ力を持っている。