安部公房『赤い繭』解説➁ 「ちょっと伺いたいのですが、ここは私の家ではなかったでしょうか?」
◇解説
「夜は毎日やって来る」
…帰るべき家がない「おれ」には、そのことを強く感じさせる「夜」は辛く、またやっかいなことにそれは「毎日やって来る」。夕方になると毎日、また夜の闇を家無しで過ごさなければならないのかと憂鬱になる「おれ」。
「夜が来れば休まなければならない。休むために家がいる。そんなら俺の家がないわけがないじゃないか」
…「夜」は体を横たえ、「休む」時間だ。そのためには当然「家」が必要であり、「人」がみな持っている「家」を、「おれ」だけが持たない理由も道理もない。「おれ」にも必ずどこかに、「家」があるはずだ、と、「おれ」は考える。不所有の不自然さに疑問を持つ「おれ」。それを探すために、彼はずっと歩き続けている。「夜」も寝ずに!
「ふと思い付く。もしかするとおれは何か重大な思い違いをしているのかもしれない。家がないのではなく、単に忘れてしまっただけなのかもしれない。そうだ、あり得ることだ」
…歩き続けであるにもかかわらず、どこかにあるはずの「おれ」の「家」が見つからない。彼はここで、「もしかするとおれは何か重大な思い違いをしているのかもしれない。家がないのではなく、単に忘れてしまっただけなのかもしれない」と、「ふと思い付く」。「家」の不在・不所有に対し、自分の思考の方が間違っているのではないかと疑念を抱く。自分には「家がないのではな」い。「単に忘れてしまっただけ」だ。そう考え、「そうだ、あり得ることだ」と確信する「おれ」。
人は、手元から姿を消した財布のありかを探す時に、もともと財布は無かったとは考えない。きっとどこかで落としただけだ、と考える。しかし落としたのはどこかはわからない。この落とし物の感覚を、「おれ」は感じている。
「おれ」の「家」は確かにあった。しかしそれがどこなのかを忘れてしまった。もとから無いものを失ったように思うというのではなく、もとは所有していたものを失ったという喪失感に、いま「おれ」はさいなまれている。忘れものの感覚。
また、この時の「おれ」は、迷子に似た状態にあるともいえる。自分の「家」は確かにある。しかしそれがどこにあるのかがわからない、一時的な記憶喪失の状態。
そうして次の場面で彼は行動する。忘れ物を取り返し、喪失の穴を埋めるために。または、帰るべき「家」のありかを見つけ出すために。
「例えば……と、偶然通りかかった一軒の前に足を止め、これがおれの家かもしれないではないか。無論他の家と比べて、特にそういう可能性をにおわせる特徴があるわけではないが、それはどの家についても同じように言えることだし、またそれはおれの家であることを否定するなんの証拠にもなり得ない。勇気を奮って、さあ、ドアをたたこう」
…「例えば」と、例として挙げられ、「偶然通りかかった一軒の」家が、「おれの家」である確率はゼロに近いだろう。ましてや、「他の家と比べて、特にそういう可能性をにおわせる特徴があるわけではない」のだから。しかし男は開き直りの論理を展開する。「それはどの家についても同じように言えることだし、またそれはおれの家であることを否定するなんの証拠にもなり得ない」と。自分の家である「可能性をにおわせる特徴があるわけではない」のであれば、男の論理とは逆に、他の「どの家についても同じように」、男の家ではないと「言える」。
さらに男は、「またそれ(「他の家と比べて、特にそういう(自分の家であるという)可能性をにおわせる特徴があるわけではない」こと)はおれの家であることを否定するなんの証拠にもなり得ない」と強弁するが、これはナンセンスであり論理が破綻している。ここで男が求められているのは、その家が自分の家であることを「否定する」「証拠」ではなく、自分のものであることを肯定する「証拠」だ。たとえば、道で拾った財布を、「これは俺のものではないという証拠がないから俺のものだ」と言っても自分の所有物とはならない。その財布が自分のものであることを立証しなければならない。
このように男は、非論理的な理屈を根拠に「勇気を奮って、さあ、ドアをたたこう」と行動する。こんな「勇気を奮」われた相手はたまったものではない。
「運よく半開きの窓からのぞいた親切そうな女の笑顔」
…「女」にしてみれば、「運よく」どころか不運でしかない。彼女の「親切」はあだとなるだろう。このように男は彼女を自分の都合のいいように解釈する。「親切」な人は裏切られ傷つくことが多い。
「希望の風が心臓の近くに吹き込み、それでおれの心臓は平たく広がり旗になって翻る。おれも笑って紳士のように会釈した」
…「希望の風」も先ほどと同じで、自分勝手に都合よく解釈している。相手の女にとって男は、「失望・絶望の風」だ。また「それでおれの心臓は平たく広がり旗になって翻る」も、独りよがりな感動だ。「おれも笑って紳士のように会釈した」からは、男の演技が感じられる。あれほど強く探し求めていた「おれの家」がここにあるという「希望」が自分の体を満たし、心を感動で翻らせ、その幸福感から、その「会釈」も自然、「紳士のよう」になった。女の「親切」を夢想・期待し、その恩に報いるために「笑って紳士のよう」に振る舞う「おれ」。
「ちょっと伺いたいのですが、ここは私の家ではなかったでしょうか?」
…「ここは私の家ではなかったでしょうか?」という不自然な問い。女は不気味さを感じただろう。「ここは私の家」まではいい。この後に、「ではなかった」と続くことによって、「ここ」が「私の家」であることが即座に否定され、さらにその後に続く、「でしょうか?」によって、自分が確信を持てないことを相手に尋ねるという形になっている。つまり、「ここは私の家ではなかった」ということを、ごく控えめに「でしょうか?」と問いかけ、相手にその判断をゆだねる形になっている。自分の家であることを否定しつつ、その逆である可能性をさりげなく尋ねる構文だ。
しかしこのまわりくどい表現は、それだからこそかえって相手に恐怖感をもたらすだろう。この人は何を尋ねようとしているのか。もしかしたら、気でも違っているのではないか。そのように心を不安にさせる疑念を抱くことになる。
それにしてもこれは、相手を気遣うようでいて逆にとても不安にさせる聞き方だ。「女」にしてみれば、自分の家であることは自明なのに、突然やってきた見知らぬ男によって、その確信が揺らぎ始める。こんなに優しい言い方をしている人なのだから、もしかしてこの人の言っていることの方が正しいのではないか。自分のものだと思っていたこの家は、実はこの男の言うとおり、彼のものなのではないか。そのような心理的不安と疑念を、彼女は抱くことになる。
自己の所有物を、「ここは私の家ではなかったか」と尋ねられた「女の顔」は、「急にこわば」る。不信、疑念が彼女の心に渦巻く。そうして女は、ごく当たり前で事を荒立てない言い方をする。「あら、どなたでしょう?」
家の所有者を問う質問に、女はそのまま素直に「私の家だ」と答えずに、「あら、どなたでしょう?」と論点をそらす。男への恐怖から、その存在の根拠を女は尋ねたのだ。
家の所有者は誰なのかを問うたのに、「あなたは誰」と話をそらされた男は、その「説明」に「はたと行き詰まる」。「なんと説明すべきか分からなくな」ったからだ。彼が言うとおり、「おれがだれであるのか、そんなことはこの際問題ではない」のであり、また自分の存在「を、彼女に」「納得させ」るのは困難だからだ。自分の家を見失っている彼は、自分自身についても はっきりと認識できていない。
自分についての説明を求められたが、それができず、「少しやけ気味になって」男は言う。
「ともかく、こちらが私の家でないとお考えなら、それを証明していただきたいのです。」
このセリフの話者としては、女の方が適切・適任だ。彼女は家の中にいて、ドアを開けた。その家の所有者である確率は、外から訪ねてきた男よりも高い。
また、そのものの所有者は誰かを争うときに、それが自分のものではないことの証明を相手に求めるのはナンセンスであることは先ほど述べた。だからこの男の無茶な論理に、女は、「まあ……。」と「おびえる」ことになる。わけのわからぬことを言い出す不審者が今、自分の目の前に立っている恐怖。
これに対し、男の方でも、彼女の様子が「癪に障」り、「証拠がないなら、私の家だと考えてもいいわけですね。」と詰め寄る。
当然女は、「でも、ここは私の家ですわ。」と答えるしかない。
これに対する男の、「それがなんだっていうんです? あなたの家だからって、私の家でないとは限らない。そうでしょう。」という言葉も、まったくのナンセンス。
何の説得力も持たず、論理が破綻している言葉に女は、「返事の代わりに」、「顔が壁に変わって、窓をふさいだ」。このような人には、このような対応しかできないだろうし、これが正解だ。ましてや相手は男性であり、力ずくで家の中に押し入ってくるかもしれない。
壁となって家への侵入を防いだ女に対し、男は、
「ああ、これが女の笑顔というやつの正体である。だれかのものであるということが、おれのものでない理由だという、わけの分からぬ論理を正体づけるのが、いつものこの変貌である」という感慨を述べる。
いかにも「親切そうな」「笑顔」の女が、突然「壁」に変移する。「これが女の笑顔というやつの正体である」と、「女の笑顔」の欺瞞への批判を展開する。しかしその根拠は論を成していない。「だれか(女)のものであるということが、おれのものでない」ことは正当な「理由」であり、それに対し「わけの分からぬ論理」とする男の方が非論理的だ。ここで「わけの分からぬ論理」を展開しているのは、かえって男の方だ。
女の非論理性を「正体づける(体現する)のが、いつものこの変貌である」とする男。
初めは「笑顔」で接していた女が突然豹変し、その顔がまるで壁になったかのように感じられることはあるだろう。「最初はあんなに優しかったのに、急に能面のような顔になる。あの愛は嘘だったのか」、と。しかしここでは男の方が非論理的であり、女性一般の対応を批判するのは当らない。それは言いがかり・逆ギレというものだ。我が身の不条理を嘆く男だが、ここでそれを感じているのは、むしろ女の方だ。とんだとばっちり。青天の霹靂。