安部公房『赤い繭』解説① 「おれには帰る家がない」
◇はじめに
この作品については様々な研究がなされてきましたが、今回の解説では、本文を丁寧に読むことにより、これまで触れられていない新しい視点・考え方を述べたいと思います。
この作品は高校の国語の教科書に採用されていますが、作品理解が困難であるという生徒の話を聞き、今回取り上げてみました。
まだ著作権が生きているため、本文は高校の教科書、文庫本、電子書籍などでご覧ください。
◇解説
「日が暮れかかる」
…夕暮れから始まる物語の型。芥川龍之介の『羅生門』では、悪の権化である老婆から悪の論理を学んだ下人が、最終場面で夜の底に駆け降りる。夕暮れは、覚醒と夢・幻想、意識と無意識、明瞭とおぼろの境界であり、自己の輪郭が夜の闇に溶け出す時間だ。無意識の世界である夜の闇へと向かう時間に、「おれ」がどのような運命をたどるかに注意して、この後読者は読んでいくことになる。
「人はねぐらに急ぐときだが、おれには帰る家がない」
…何者が棲み、また、何者が動き出すかがわからない危険な時間であるからには、それらから逃れるための「ねぐら」・「帰る家」が、「人」には無ければならない。またそこは、昼間の活動から遷移する安息の場所であるはずだ。だから「人」は「急ぐ」のだ。そのような場所を喪失しているという意識は、「おれ」の不安や鬱屈を増大させるだろう。それは、自分を守るべき障壁がないからだ。最悪の場合には、死を覚悟しなければならない状況に、「おれ」はいる。
また、「人」にはあって、「おれ」にはないという意識は、「人」への憎悪を掻き立てるだろう。
安息地の喪失と疎外感が、「おれ」を包む。
次の場面では、「帰る家」が無い「おれ」が、それでも立ち止まらずに「ゆっくり歩き続ける」。
「おれは家と家との間の狭い割れ目をゆっくり歩き続ける。街じゅうこんなにたくさんの家が並んでいるのに、おれの家が一軒もないのはなぜだろう?……と、何万遍かの疑問を、また繰り返しながら」
…「家」には、安息の場所を所有する「人」たちが住んでいる。夜へと向かう時間にそこに無事帰り着き、今頃は楽しく穏やかに過ごしているだろうという意識は、「人」への羨望と憎悪を増大させるだろう。持たざる不幸な「おれ」をまるで挟みつぶすかのような「家と家」。その間隙・「狭い割れ目」を「ゆっくり歩」かされる「おれ」は、たまったものではない。不幸な自分を取り巻く「人」の幸福。その落差に目がくらむだろう。「狭い割れ目」から足を踏み外してしまうと、その底には、無限の闇が広がるだろう。
「人」はみな所有しているのに、「おれ」だけは持っていない。「おれの家」だけが「一軒もない」。その不条理に疑問を抱くのは当然だ。しかしその問いに答えてくれる者もやはりいない。だから「おれ」は「何万遍かの疑問を、また繰り返」す。自問自答する「おれ」。
そうして彼に許されるのは、「町じゅう」の「家と家との間の狭い割れ目をゆっくり歩き続ける」ことだけだ。
「たくさんの家」の中に「おれの家が一軒もない」疑問を反芻しながら「ゆっくり歩き続ける」苦行。いくら歩いても目的地が無い。ゴールにたどり着けないのではなく、ゴール自体が無い虚無感。疑念だけが彼の足を動かし続ける。
また、被差別・疎外感は、不平や他者否定、自己否定へとつながる強い鬱屈だ。
「電柱にもたれて小便をすると、そこには時折縄の切れ端なんかが落ちていて、おれは首をくくりたくなった。縄は横目でおれの首をにらみながら、兄弟、休もうよ。全くおれも休みたい。だが休めないんだ。おれは縄の兄弟じゃなし、それにまだなぜおれの家がないのか納得のゆく理由がつかめないんだ」
…「小便」はまさに水入り。この尿意と放尿によって、「おれ」は自動歩行から逃れられた。
また、このような間をとることで、場面は転換・展開する。
ところで、「電柱」に放尿するのは普通、犬だろう。「おれ」は「人」でなし・動物的存在となる(である)。犬はまず嗅覚によってその電柱に付けられた他の犬たちの存在を把握し、その後やおら自分の尿で自分という存在と縄張りをマーキングする。この時の「おれ」も、電柱周りを観察し、「縄の切れ端」を発見する。
「時折」とは、そのような場面に遭遇することが以前にも何度かあったことを意味する。彼の自動歩行は今日だけでなく長く続いていた可能性がある。つまり今彼が歩き続けているのは、この日に自分の「家」の記憶を喪失したからではなく、もっとずっと以前から、「家」を探し続けていたということだ。そもそも彼には帰る家が無いのだ。
これは非現実的なことであり、従ってこの作品が寓話(的)と述べられる所以となる。
家を探しての自動歩行は、同じ作者の小説『鞄』をイメージさせる。「鞄」を持ったが故の自動歩行に似て、両者とも目的地点が分からない。それなのに歩き続けさせられる不条理。
電柱のそばに「時折縄の切れ端なんかが落ちて」いることは、むしろまれだろうし、また、それがあったからといって、「首をくくりたく」なることも、通常は無い。それが、このように感じられるということは、この時の「おれ」の心理状態が、「縄」を欲し、それによって「首をくく」ることを少しは望んでいたからだ。
「家」々のドアは固く閉じられている。「おれ」に話しかけるものは誰もいない。孤独も感じる彼に語りかけた(ように思われた)のは、つまらぬ「縄の切れ端」だけだった。その卑小な存在が、この時の「おれ」にはふさわしかった。
この「縄」は曲者だ。「おれ」の「首」をピンポイントで「にらみ」・狙いをつけながら、優しく、「兄弟、休もうよ」と語りかける。死の誘惑にとらわれつつある「おれ」を誘う親しげな言葉。「お前の辛さはこの俺にもよくわかる。俺たちは悲しみを共有する兄弟だ。さあ、この俺を使って、一刻も早く楽になろうぜ」
この死・縄の誘惑に、「おれ」はかろうじて抗う。「おれも休みたい。だが休めない」。「おれは縄の兄弟じゃなし」と、縄との関係性・同類性をはっきり・きっぱりと否定し、「それにまだなぜおれの家がないのか納得のゆく理由がつかめないんだ」と「家」の不在の論理的「理由」を模索しようとする。自分は家が無い理由を納得していない。ゆえに死の理由も納得できない、ということ。
死の誘惑の一歩手前で、「おれ」は我に返り冷静になった。彼には、生きる理由と同時に、納得できる死ぬ理由も必要なのだ。