『好きなものを語る』のと『好きなものを好きな気持ちを語る』のの違い
誰かが自分の好きなものについて語っている文章があるとします。
私はそれにまったく興味がなかったけれど、その文章を読んで「へー、そういうものだったんだ!」と知り、興味をもち、好きになる──そんなきっかけになるということはあると思います。
だから好きなものについて語った文章は、誰かにも好きにさせる効果がありうる──そうは思います。
ただ、私がどうしてもそれに興味をもてなかった場合、私は読んでも★をつけないか、あるいは最後まで読まないことでしょう。
また、もしも私がそれを既に好きではなかった場合──
この場合、誰かがそれを好きだと書いた文章には何の効力もありません。むしろ反感を強くさせるだけかもしれない。
私が既にそれを好きだった場合は──?
私には私なりのそれを好きな理由があり、その文章に共感できなかったら『そういう理由で好きなひともいるんだな』ぐらいの刺さり方しかしないでしょう。
もしも同じ理由でそれを好きなのだったとしても、『だよねー』ぐらいで他に私が感想をいえることはありません。
しかし──
好きなものについて、それを好きなそのひとの『気持ち』を書いた文章だと、話は変わってきます。
たとえば某ロックギタリストについて書いた文章があるとしましょう。
そして私はそのロックギタリストが好きではなく、どちらかというと嫌いだったとします。
もちろん文章を書いたひとは、そのロックギタリストのことが好きなので書いたという設定です。
【そのロックギタリストについて書いた文章】
○○は神だ。世界一のギタリストである。○○は音楽理論をじつは知らずに曲を作っている。ゆえにへんな音が混ざることがあるが、それが奇跡のサウンドを産む。何よりあのルックスがいいのである。○○ほどのギタリストが世界一のあの音楽祭に出演したことがないのはおかしいのではないか。
【私の反応】
○○は神じゃないですよー。世界一のギタリストは▲▲ですよー。音楽理論知らないからあんな下手くそなんですねーw 何よりあのルックスに虫唾が走りますーww ○○があの音楽祭に出演したとしたらそれは何かお金の力だと思いますーwww
同意できない。
共感できない。
だから途中で私は文章を読むのをやめてしまうでしょう。
あるいは最初から読む気も起きないかもしれない。
でも、これが○○を好きなそのひとの『気持ち』を書いた文章だったら、どうでしょう?
【そのロックギタリストを好きな気持ちを書いた文章】
ロックギターが好きなひとにはそれぞれ神がいると思う。私にとっての神は○○なんだよね。ロックは音楽理論じゃなくて行き当たりばったりのセンスだって私に教えてくれた。私も○○の真似して姿見の前でアクションしてるよ。あの『後ろ足ピン!』がたまらないの!
好きなひとがいるのって、いいよね! 好きなものがあるのって、いいよね! ○○に某有名音楽祭に出てほしいな!
【私の反応】
うんうん。私にも神、いるよー。へー、○○なんかが好きなんだねー、気がしれ……。うん、まぁ、海外のスーパーギタリストは『音楽理論より実践』みたいなこと言うしね。それもありかも……。ただ、○○のルックス大嫌いなんだけど……『後ろ足ピン!』? 何、それ。ちょっと動画で観てみようっと。
うんうん! 好きなものがあるのって、いいよね! 私にも大好きなもの、あるよー! 気持ちわかるー! 私の好きな▲▲にもあの有名音楽祭に出てほしいな!
○○がいいということには共感しませんが──
○○を好きなその気持ちには共感できたりします。もちろん○○を▲▲に置き換えて。
私の目に浮かぶのは○○ではなく、○○を好きな『そのひとの笑顔』なのです。
さて、ここからが本題です。
個人自主企画『フェイバリット企画 〜 あなたの好きを聞かせて 〜』を開催いたします。
あなたの好きなものに対する気持ちをエッセイにしてご投稿ください。
期間は3月1日〜3月31まで!
お一人様一作品、三千文字以内で募集します。
もちろんただ好きなものを語ったエッセイでも、「読ませてみせる!」という気概があって、実際読ませる力のあるエッセイなら、読ませてみてね!
もちろんどなたでも参加できます。
タグに『フェイバリット企画』(『』は取ってください)と入れれば、それだけで参加できます。
旧作でもOKです。R15は可、R18不可。
それではあなたの『好き』を聞かせてください。
お待ちしております。