墓探し
「おい、そこに座られると困るんだけど」
カフェの窓辺、木製の丸テーブルに肘をつきながら僕――伊藤悠一は、そう呟いた。
言葉を聞いた隣席の女性がぎょっとした顔で振り向く。
湯気を立てるカフェラテの向こう、彼女は目を丸くしている。
僕が本当に声を掛けたのは、彼女の後ろに立つ青白いスーツ姿の男、つまり幽霊に対してだった。
もちろん説明する気にはならない。
生まれつき幽霊が見える能力は、子どもの頃はちょっとした特技だったが、大人になればそれは厄介な呪縛となる。
人間には見えない存在に話しかける自分の姿は、常人には奇行にしか映らない。
女性が怪訝そうにコーヒーを啜り、嫌な顔をして席を立つと、その背後で幽霊男がべろりと舌を出した。
「これだから困るんだよ、幽霊ってやつは」
僕は苦笑する。視線の先、ガラス越しに映る街路樹の影が、柔らかな午後の日差しに揺れている。30代という人生の半ばまで来て、僕は今、ある奇妙な問題に取り組んでいた。
「自分に合う幽霊を探して、墓を買う」
なぜそんな不可思議なプロジェクトに乗り出したのか。話は数ヶ月前、父が残した古びた家族墓に遡る。
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初夏の薄曇りの日、先祖代々の墓がある郊外の寺を訪れたとき、僕はそこで不愉快な幽霊たちに遭遇した。家族が代々眠るべき土地には、何人もの幽霊が常駐している。その多くは生前の因習や不満を抱え込み、ここが自分のテリトリーだと主張していた。
「お前、あの世で一緒に入る気か?」
墓石の陰から現れた70代くらいの男は、古い喪服を着たまま、他人の参拝にいちいち文句をつける偏屈者だった。
「静かにしていろよ! こっちはお経聞いてるんだから!」
「あんた、またその花か? センスねえな!」
彼らは死後も狭量なエゴを捨てられず、墓地に訪れる生者たちを値踏みするような目で見ていた。その醜さは、生きている人間の不寛容をそのまま凝縮したようでもあった。僕はぞっとして、ここには到底自分が安らげる余地はないと確信した。
その晩、帰宅後、父の遺した書類をめくりながら、僕は決意を固めた。
「気の合う幽霊を探して、自分用の墓を見つけよう」
そう、僕は死後も続くかもしれない隣人関係に、少しでも明るい未来を求めることにした。奇妙な発想かもしれないが、幽霊が見える僕だからこそ、死後を見据えた“下見”ができるのだ。
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東京郊外に広がる共同墓地は、休日ともなれば観光地さながらの賑わいを見せていた。
参道には花屋や石材店が並び、行き交う参拝客が絶えない。
石段を上がり、芝生の広がる区画に足を踏み入れると、そこには風に揺れる多彩な花と無数の墓石が並び、華やかささえ感じさせた。
しかし、その明るい表面の下には、思わぬ陰が潜んでいる。
墓石の近くでは、幽霊たちが激しく言い争っていた。
「おい、そこは俺の区画だ! 生前しっかり金を出して買ったんだから、どけよ!」
「何を言ってるんだ、お前なんか後から来たくせに! ここは俺が先に陣取ってた場所だろうが!」
僕は目を見張った。幽霊同士が墓所を巡っていがみ合うなんて聞いたことがない。
彼らは死後も生前の不動産トラブルを引きずっているかのようだった。僕は恐る恐る、近くに立つ幽霊に声を掛けてみることにした。
「すみません、ちょっとお尋ねします。僕は自分に合う墓所を探しているんですが、ここってどういう雰囲気なんでしょうか?」
「お兄さん、悪いことは言わんよ。ここはやめといた方がいい。見ての通り、奴らは生前と同じで自己主張ばかりだ。ゆっくり寝かせてくれん」
「そんなに争いが多いんですか?」
「多いなんてもんじゃないさ。あっちを見ろよ」
初老の痩せた幽霊は指を差す。
そこには、再び別の幽霊たちが睨み合いを続けていた。風に乗る他人事のような笑い声すら、冷たく耳を突き刺してくる。
「ここは洒落にならんよ。生前から土地に執着のあった連中が多くてな、死んだ後も縄張りを離れないんだ。人も多いし、皆それぞれ『自分が正しい』と信じて疑わない」
「そうなんですね……。じゃあ、僕が落ち着いて過ごせるような幽霊たちは……ここにはいない感じですか?」
「悪いが期待するだけ無駄だ。ここに来る参拝客は驚くだろうが、こっちは毎日こんなもんだ。お前さん、別の墓地を探した方が身のためだぜ」
僕は肩を落とす。
生前と変わらぬ人間臭さが、そこかしこに蔓延しているこの場所は、どう考えても自分には合わない。
賑やかなはずの光景が、今はただ空虚な争いの音として耳を打つだけだった。
「忠告ありがとう。助かりました」
「気にするな。もしまた縁があればな」
痩せ型の初老の幽霊が手を振る姿を横目に、僕はその大墓地を後にした。明るい花の彩りは、見た目と裏腹に、内実のざわめきを隠しきれない。
僕は深く溜息をつき、次なる墓所を求めて歩き出す。
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次に足を運んだのは、人里離れた山中の小さな墓地だった。鬱蒼と茂る樹林が日差しを遮り、苔むした石碑がひっそりと点在している。
鳥のさえずりが細く響くだけで、人影はほとんど見当たらない。しんとした静寂が、この場を覆っていた。
そんな中、草刈り機を手にした中年男の幽霊が佇んでいるのが目に入った。
「よう、何しに来たんだ? こんな寂れた場所までよ」
「実は、自分に合う墓を探しているんです。死後、誰と並んで眠るか、考えてみたくて……。もし気の合う幽霊がいたら、一緒に居られたらな、なんて思って」
僕がそう言うと、中年の幽霊は目を丸くした後、面白がるように笑った。
「へえ、そいつは変わった考えだな。でも悪くない。ここは平和だぜ。生前は地元の有志で手入れしてた墓地だからな。埋まってる連中は穏やかな性格が多いんだ。がなり立てる奴なんか、ここにはいないよ」
「それはいいですね。少なくとも、さっき見た大墓地と比べたら天国みたいなもんだ」
周囲を見回せば、青々とした苔が石碑を包み、山の風が柔らかく耳をくすぐる。
ここなら確かに、死後も安らぐことができそうだ、と僕は胸をなでおろした。
そのとき、石碑の陰から子どもの幽霊が走り出してきた。
「おっちゃん! 一緒に鬼ごっこしようよ! こっちの世界、ほんと退屈なんだよ。ね、遊ぼうよ!」
「え、鬼ごっこ……? いや、今はその……」
子ども幽霊は無邪気に笑い、袖を引っ張る。
自然豊かな土地の穏やかな空気も、この奔放な子どもの相手をするには少々気が重い。
死後も童心を失わず遊び回る彼らと、静かに眠りたい僕。そのギャップに、僕は苦い笑いを浮かべる。
「気立てはいいが、ちと騒がしいだろ? ここの連中は、明るいって言えば聞こえはいいが、静かに過ごしたいなら考えもんだな」
「そうですね……。子どもとずっと遊ぶ死後も、それはそれで大変かもしれない」
中年男の幽霊が苦笑し、子ども幽霊は相変わらず笑顔で手を振る。
ここは確かに平和で親切だが、僕が望む究極の静寂や落ち着きからは、もう一歩遠い気がした。
山あいの光は淡く揺れ、鳥が微かな羽音を立てる。僕はここを後にして、新たな可能性を求めることに決めた。
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墓地巡りの旅は、奇妙な営みだった。行く先々で僕は幽霊たちに声を掛け、彼らの死生観や性格を探る。
広い街外れの墓所や、雑木林に包まれたひっそりとした墓地、歴史ある寺院の古い区画、様々な場所を巡るうち、出会う亡者たちは一人として同じ顔を持たない。
「お兄ちゃんさ、俺、生前は芸術家になりたかったんだよ! でも家業を継がされてさ、夢を諦めてたんだ。死んでしまえば誰に遠慮も要らない。ほら、この空中に描いた絵、見えるかい?」
青年の幽霊は、両手をひろげて何かを描くような仕草をする。
彼の指先は何もない空間をなぞり、その表情は楽しげだった。
色彩も形も、僕には見えないが、彼はそこに確かに自分の作品があると信じているらしい。
「そこにいる犬っころが見えるかい……? ずいぶん長いこと吠えてる。でも、あの人はもう戻らないだろう、主人は彼がここにいることもわからないだろうし。犬っころもそれをわかってる。でも、待たずにはいられないんだな。」
そこには、透けた毛並みを持つ犬の幽霊がいた。擦り切れた首輪を残したまま、その犬は虚空へ向かって小さく鼻を鳴らしている。
怒りや恨みは微塵もなく、ただ懐かしむような寂しさが全身から滲み出ていた。
首をかしげ、あてもなく風を嗅ぎとろうとするような仕草からは、一点の諦めも感じられない。
犬の視線は遠く、生前に培った忠誠心が、死後さえもその足を縛りつけているのだろう。
そこには、帰らぬ人を待ち続ける切ない気配だけが、静かに漂っていた。
「俺は戦場から生きて戻れなかった兵士だ。名前も記憶も薄れたが、この土地から離れられない。何故かって? さあ、俺もわからんが、自由になる日を待ってるんだ」
そう言って、兵士の幽霊は湿った土を踏みしめ、かつて歩いた戦場へ向かう道を思い出すかのように長く息を吐いている。
彼らは、死してなお生者よりも鮮やかな個性を解き放ち、その場を独特の空気で満たしていた。
そんな中、とある野辺の小さな無縁墓地で、一本の揺れる花の近くに立つ幽霊が、ふと口を開いた。
「人は死んでも人だよ。死で完成する人間なんていない。俺たちはあの世でも、まだ途上なんだ。成長も、後悔も、続いているんだよ」
「死んでも途上……ですか。確かに、ここで出会う幽霊たち、生前と変わらない欲求や夢を抱えているように見えます」
「そうさ。魂はそんな簡単に完結しない。だからこそ、あんたも自分の行き先を考えたくなるんだろう?」
その言葉は胸に残った。死は終着点じゃない。途上のまま、僕たちは何かを求め続ける。
もしそうなら、僕が望むのはどんな死後の風景だろう。
静かな共生か、互いに干渉せず並んで眠る心地よい余白か。
それとも、生と死が溶け合う不思議な調和か。
旅を続けるうち、幼い頃の記憶が蘇る。
幽霊を見えると友達に打ち明け、奇異の目で見られた日々。
大人になってもこの能力はやっかいでしかなく、仕事でも恋愛でも誤解や摩擦を生んできた。
時折、幽霊の方が身近に感じることさえある。
「へえ、あんた、生きてるうちに死後の住処を物色中か? こりゃ新しいな」
「変でしょうか?」
「いや、悪くはないだろう。先物買いみたいなもんだ。どうせ死ぬなら、ちょっとでも居心地のいい場所を確保したい。それがあんたの望みなら、誰も止めやしないよ」
「ありがとうございます。少し前までは、こんな考え方、誰にも理解してもらえないと思ってました」
会話を交わした幽霊は、にやりと笑って消えていく。
そのあとに残るのは、薄い風と揺れる花々だけ。
僕はふと肩の力が抜けて、自分が抱えていた“奇妙な保険”のような計画が、少しずつ形を持ち始めているのを感じた。
いつか必ず訪れる死。
そのとき、共に眠る存在を選べるのなら、今、この目で確かめておくのも悪くはない。
満ち足りた沈黙、穏やかな微笑み、ちょっとした会話ができる相手――そんな死後の隣人を求めて、僕はまだ旅を続けるつもりだ。
===
最終的に僕が辿り着いたのは、町外れにある古びた寺。
その境内の隅、ほとんど人の訪れない無縁墓地がひっそりと横たわっていた。
木漏れ日を受けて輝く斜面には、杉の落ち葉がふかふかと積もり、白い蝉の抜け殻が風に転がっている。
喧騒の欠片もないその場所は、透明な静寂で満たされていた。
そこには、わずか数体の幽霊がいた。
彼らは互いに干渉することなく、押し付けがましいところもない。
ただ黙って風を聞き、遠くの町のかすかな音をぼんやりと見つめているだけだった。
「やあ、珍しいね。ここを訪ねてくる人間なんて、ほとんどいないんだよ」
「ずいぶん静かですね……争いも、自己主張も感じない」
上品な和服をまとうおばあさんの幽霊が、穏やかな笑みを浮かべている。
「ここはいい場所だよ。誰も余計なことはしないし、互いを干渉もしない。時々、通りがかりの人が花を置いていくけど、それだけで充分なのさ。何も望まないし、何も奪わない。ここでは、それが自然なんだよ」
僕は息を飲む。
ずっと探し求めていたのは、こういう墓所だったのかもしれない。
騒ぎ立てる幽霊もいなければ、息苦しい主張もない。
ただ、穏やかな時が流れるばかりだ。
「ここでいいかも……」
「そうかい、じゃあ契約成立だね。あんたの場所はここにしな」
おばあさんの幽霊が微笑んで頷いた瞬間、僕の足元がほんのりと光り始める。
複雑な文様が地面に浮かび上がり、足元がかすかに揺れた。
それはまるで、別の世界がこちらに手を伸ばしてくるようだった。
「まってください、僕まだ生きてるんですって!!」
「なにぃ、あんた死に場所を探していたじゃないのかい?」
「そうですけど、もっと先、ずっと先の話ですよ!」
「そうだったのかい、危うく取殺すところだったよ。この墓所はね、人が少なくて寂しいから、仲間は大歓迎なのさ」
「い、いえっ、僕はまだっ……」
「おっと、やりすぎちまったか」
足元が揺れ、奇妙な文様が刻まれた光が地面から立ち昇る中、僕は意識を失いかけた。
そのとき、年老いた女性の声が、遠くで微かに笑うのが聞こえた。
目を開くと、僕は自宅のソファに横になっていた。
朝日がカーテンの隙間から差し込み、あの墓地で感じた静寂を嘲笑うかのように室内を明るく照らしている。
「あれは……夢だったのか」
しかし、胸ポケットに手を入れると、そこには小さな和紙の切れ端が挟まっていた。
見知らぬ文字が記されている。
まるで、あの無縁墓地のおばあさんがサインを残したかのようだ。
半信半疑のまま、僕は町外れの古寺に足を運んだ。
苔むした参道を抜け、無縁墓地へと向かう。
その墓地は昨日と変わらず、静かで、風が杉葉を揺らす音しか聞こえない。
石碑のそばには、おばあさんの幽霊が再び立っていた。
「おや、あんた、また来たね。ここは生きたい人間がくるようなところじゃないさ」
「ははは、夢じゃなかったのか……」
「ふふ、短い人生を楽しみな」
おばあさんは、その穏やかな声色を変えず、こちらを見つめたまま静かに微笑んでいた。
その表情を思い出しながら、僕は帰宅後、ネットや図書館であの寺と無縁墓地について調べてみることにした。
すると、過去に原因不明の不審死が相次いだという古い記事が目に留まる。
外傷も動機もない不可解な死――そして「人を殺す幽霊」の噂。
真偽はわからないが、あの笑顔の裏で、何が潜んでいるのか。
考えるほどに背筋が冷たくなった。
生きているうちに自分の墓を探す、そんな奇妙な行為が、いつの間にか危険を孕んでいたかもしれない。
安住の地を先取りするつもりが、命を縮める事態に転がり込むなんて、まっぴらだ。
死後の隣人を今すぐにでも定めなければいけないほど、僕の人生は急いでいない。
呼吸する空気はまだ美味しいし、雑多な日常には笑い声が溢れている。
人も幽霊も、気紛れに僕を翻弄し続けるかもしれないが、それだって生きているからこそ味わえる出来事だ。
「墓探しは、もっと歳を取ってからでいいかな……」
そう呟いて、僕は外へ出た。
商店街の通りには、人々が行き交い、花屋の店先には色とりどりの花が咲き誇っている。
少し湿った風が頬を撫で、誰かが笑う声が聞こえる。生きている時間が、そこにはたしかにあった。
今はそれで充分。墓探しより、生きることの不思議を謳歌するほうが、はるかに僕らしいと思えた。
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