3 - 共通点
部活終わり、弁当箱を教室に忘れたことに気づいた高嶺は教室に戻った。いつもは部活が終われば体育館からそのまま直帰する訳だが、弁当箱を学校に置き忘れるということは明日の弁当を作ってもらえないということだ。面倒くさいが仕方ない。教室は蛍光灯の白い明かりで満たされていて、行儀よく机が並んだ空間に、ぽつんと一人が座っていた。それがちょうど前回の席替えで隣の席になった五十嵐だった。隣の席になって一ヶ月ほどが経つが、高嶺はまだ五十嵐ときちんと話したことがなかった。それどころか、五十嵐が他人と話しているところを見た記憶もないので、どんな声をしていたか思い出そうとしても思い出せないくらいだった。多くの人と大声で話したり笑ったりするようなタイプではなく、もちろん高嶺のところに来て声をかけてきたことなどなかった。がらんとした教室は妙に広々と感じられて、微妙な距離感のクラスメイトが座る席の隣に、わざわざ物を取りに行かなければならないことを高嶺は少なからず気まずく感じた。
「おつかれ〜」
驚かせないように声をかけたつもりだが、五十嵐はびくりと肩を震わせた。しっかり驚いた後にこちらを見上げた顔は不信感で満ちているが、一応といった体で「おつかれ」という小さな声が返ってきた。五十嵐の机の上には数学の教科書とノート、どうやら今日出された宿題に取り組んでいたらしい。机の横にかけられた弁当箱を回収してさっさと帰ろうとしていた高嶺だが、ふとノートの横に伏せられた五十嵐のスマホに目が止まった。ケースに貼られたステッカーを見て、高嶺は思わず唾を飲み込んだ。いつもは人に自分から話しかけることなんてほとんど無い。言おうか言わまいか迷って、それでも言わずにはいられなかった。
「それ、もしかして、ビッグフッターズ好きなの…?」
「なんで知って…」
「俺も好きだから…」
目を丸くする五十嵐に向かって高嶺はポケットから出した自分のスマホを示した。そこには五十嵐のスマホのステッカーと全く同じものが貼ってある。高嶺が中学の時から大好きなビッグフッターズはマイナーなバンドグループだ。ライブハウスで出会った人以外で、同志に会ったのは初めてだった。まさかこんなに近くにいたとは。高校で仲の良いやつらとは好きな音楽の話なんかしたことがないので、突然の邂逅に珍しく高嶺の胸は高鳴った。そしてそれは五十嵐にとっても同じように見えた。怪訝そうだった眼差しに分かりやすくきらきらとした光が差して、高嶺との間に築かれていた分厚い門が少し開いたように見える。
「俺、ビッグフッターズ好きなやつに会ったの初めて……」
驚きと高揚がにじみ出る表情で、五十嵐は小さく溢した。
「ライブはまだ行ったことないの?」
「県外のライブは親に禁止されてて」
「早くうちの県にも来て欲しいよな」
「ほんとそれ!」
いつも淡々と、「向ける」というより「溢す」ように話す五十嵐が、初めて高嶺に言葉を投げた気がした。抑揚と感情の乗った声が五十嵐の気持ちを明示しているようで、高嶺はそれが存外嬉しかった。それは、そっけない野良猫が、初めて撫でることを許してくれた時のような嬉しさだ。その日は「じゃあな」と言い合って別れたが、五十嵐は笑顔でこちらに手を振ってきて、高嶺はそれにも驚いた。普段はほとんど笑顔を見ない。そもそも注意して見たことが無いからかもしれないが、大人しくて淡々としている静かなやつというイメージだった。そんなイメージが、ほんの一分弱の会話で覆された。声をかけたときの不機嫌そうな表情と、同じバンドが好きだと分かったときの隠しきれない喜びの表情、そして別れ際の笑顔。短い時間でいくつもの表情を目にして、高嶺はおもしろいと思った。それから部活終わりには、弁当を忘れた訳でもないのに教室に寄るようになった。大抵の場合そこに五十嵐はいた。最初と同じように一人で勉強をしているか、時には他のクラスメイトも一緒にいた。前者の場合には声をかけて二言三言の短い会話を交わし、後者の場合は「おつかれ」とだけ声をかけて返事も聞かずに立ち去った。隣の席ではあるが、日中に会話をすることはなかった。高嶺にも五十嵐にも、それぞれ別の友だちがいて、別々に過ごしていた。会話は本当に短いもので、いつも高嶺によって始められ、高嶺が去ることで終わっていた。最初は共通の趣味の話だったが、やがて話題は他愛もない世間話へと広がっていった。
「どの曲が一番好き?」
「えぇーっと、決めるの難しいな」
「だよなー」
「何きっかけで好きになったの」
「ラジオで紹介されてて。高峰は?」
「俺はネットだね」
「毎日宿題してんのな」
「うん。家だといろいろ誘惑が……」
「あー、まぁ分からんでもない」
そんな他愛もない会話の積み重ねで、少しずつ、本当に少しずつお互いのことを知っていく。そんな小さな交流を、高嶺はまるで他人事みたいに感心していた。受動的なコミュニケーションが中心になっていた高嶺にとって、自分で選んで誰かに一歩歩み寄るという行為は、ひどく新鮮なものだった。いつしか、教室の扉を開ける前には「五十嵐、今日はひとりでいるといいな」なんて小さな願いを持つようになっていた。しかし、そう願っている自分にも、なぜそう願うのかにも、高嶺はまだ気づいていなかった。