#6
空を見ると大きな満月が私たちを照らし、その影を作っていた。
「何処から入るの……」
来夏さんはドアノブを回しているけど、勿論、鍵が掛かっていて入れない。
「そんなところからは入れないよ」
私はプールの脇に回った。
「もしかしてまた金網上るの……」
香緒里は少し嫌そうな表情で言った。
「大丈夫だよ。こっちに鍵の壊れた入口があるんだよ」
私はフェンスに付いたドアを開けた。
ずっと前から鍵が壊れていて、そこはコースロープやフロートが置いてある場所で、誰も通らず、そのままだった。
「ほらね……ちょっと、通りにくいけど……」
私はコースロープを越えてプール中に入った。
香緒里の手を取って中に引き入れる。
来夏さんは自分でコースロープを飛び越える様にして中に入った。
「私、夜のプールって初めて……」
香緒里はテンションを上げて、プールサイドに走り出た。
私もその後を着いてプールサイドに出る。
練習の後で、まだプールサイドが濡れていた。
私は靴とソックスを脱いで、フェンスの傍に置いた。
来夏さんも香緒里もそれを見て、同じ様に靴を脱ぐ。
水面が月明かりでキラキラと輝いていた。
風も無く、大きな月を捕まえたプールは、久しぶりに見た私の好きなプールに思えた。
来夏さんはポケットから缶コーヒーを出して、プールサイドにあるベンチに座る。
私は水際に立ち、水面に映る月と空の月を見ていた。
香緒里は傷も癒えたのか、嬉しそうにプールサイドを走っている。
香緒里……。
私はそんな香緒里を見て微笑んだ。
香緒里がこの先どうしようとしているのかはまだ聞いていない。
訊くつもりも無かった。
彼女は彼女でちゃんと答えを出せる子だ。
私と違って……。
私も前に進まなきゃな……。
私はじっと空の月を見る。
シャッターを切る音がする。
振り返ると来夏さんが私の写真を撮っていた。
「葉子。そのまま月を見て……」
私は言われるがままに月を見上げる。
吸い込まれてしまいそうな月。
こんな月がある事を今まで知らなかった。
「良いよ……。そのまま」
来夏さんは何度も何度もシャッターを切った。
このプールに浮かぶ月を撮ろうと思ったが、来夏さんの車の中にスマホを置いてきた事に気付いた。
「香緒里、スマホ持ってる」
私は反対側のプールサイドに立つ香緒里に訊いた。
「あ、車の中だ……」
香緒里もどうやら持っていない様だ。
来夏さんは私の横たち、水面の月を撮った。
「後であげるよ……。この写真」
微かな風が水面を揺らすと、月は波打ちキラキラと光る。
「同じ月は二度と見れない。同じ様な月はあってもね」
来夏さんは微笑むと、私にカメラを向けた。
そう。
同じ様な経験は出来ても、これと同じ経験は二度と出来ない。
私たちも月と同じだ。
香緒里が私の傍に来て抱き着いた。
「来夏さん、私も一緒に撮ってよ」
香緒里は笑っていた。
私も香緒里に抱き着き、その姿に来夏さんはシャッターを切る。
来夏さんはプールサイドに寝そべり、低い位置から私たちを撮った。
ちょうど月が一緒に映るのかもしれない。
香緒里はまた私から離れ、スタート台の上に立った。
「第一のコース、安東香緒里」
そう言うと手を上げた。
私はそれを見て微笑む。
来夏さんはその香緒里にシャッターを切る。
水面に映る月の向こうに香緒里が立つ。
香緒里は月に向かって飛び込む様だった。
すると香緒里はそのままプールの中に飛び込んだ。
「香緒里」
私は慌てて香緒里の名前を呼んだ。
直ぐに香緒里は水面から顔を出し、濡れた髪を掻き上げた。
「何やってんのよ……」
私は泳ぐ香緒里にそう言った。
「葉子もおいでよ。気持ちいいよ」
「やだよ。着替えも無いのに」
香緒里はクスリと笑って、プールに浮かぶ様にして泳ぐ。
感じている汚れの様なモノを洗い流しているかの様で、月明かりに輝いていた。
来夏さんは呆れた表情で、プールに浮かぶ香緒里の写真を撮っていた。
神秘的な絵だった。
制服姿の香緒里はゆっくりと波紋で崩れた月の中に浮かんでいた。
私はフェンスまで下がり、助走を付けてプールに飛び込んだ。
大きな水飛沫が上がり、私は六月のプールの中に沈んだ。
プールの中から見る月はとても綺麗で、初めて見る光景だった。
私は一気に水面から顔を出す。
髪を掻き上げながら大きく息をした。
来夏さんは笑いながら私を撮っていた。
私も香緒里と同じ様にプールに浮かぶ。
練習の時のプールとは違い、静寂の中に浮いている気がした。
来夏さんのカメラのシャッターを切る音だけが聞こえて来る。
私は、水を掻き分ける様にして歩き、香緒里の傍に立った。
香緒里はじっと浮かびながら泣いている様だった。
「香緒里……」
香緒里は浮いたまま私を見た。
「葉子……。ありがとうね」
私も香緒里の傍で身体を浮かせた。
「私、あんな事された事よりも、信じてた白石に裏切られた事が辛くて……」
香緒里は涙声で言う。
「うん……」
私は月を見ながらそれだけ言う。
「あんな奴の事好きだった自分が嫌で」
「うん」
私は香緒里と二人で、プールの真ん中に浮いていた。
何も考える必要の無い場所の様な気がして心地良かった。
「忘れなって言っても簡単じゃないかもしれないけどさ……」
香緒里が私の方を見た。
私は月を見たまま微笑む。
「私たちのこれからにはもっと色んな事があって、嬉しい事も、悲しい事も……」
「うん」
「そうやって大人になるんだと思う。その色んな事がある中の一つなんだよ」
「うん」
香緒里はプールに立った。
そして私の顔を覗き込んだ。
「ありがとう。葉子……。好きよ」
香緒里はそう言うと浮いている私を沈めるかの様に抱き着いた。
私は香緒里と一緒にプールの底に沈み、一緒に空に浮かぶ月を見た。
一緒に水面から顔を出して大きく息を吸った。
「もう、香緒里、何するのよ」
私は香緒里に水を掛けた。
来夏さんは微笑みながら、私たちに何度もシャッターを切っていた。
「ちょっと何やってるの」
と声がした。
私はゆっくりとその声の方を向いた。
プールサイドに腕を組んだ佐知が立っているのが見えた。
「佐知……」
私は佐知の傍まで泳いだ。
「葉子、泳ぐなら水着着てよ」
佐知はしゃがみ込んで私に言う。
「佐知こそ、こんな時間に何してるのよ」
私は髪を掻き上げて訊いた。
「立花女子との合同練習の打合せに行ってたのよ。その帰りに通りかかったのよ」
佐知は呆れた表情で微笑む。
「葉子だとは思わなかったけど」
私はクスリと笑った。
「久代、一緒に泳ごうよ」
と香緒里も寄って来る。
「安東……。葉子もほら、上がって」
と佐知が両手を出した。
私と香緒里は顔を見合わせてニヤリと笑い、佐知の手を二人で掴んで、プールの中に引っ張り込んだ。
佐知は「キャー」と声を上げて、プールの中に落ちた。
私たちは声を上げて笑った。
タバコを吸いながらその様子を来夏さんは見ていた。
「もう、葉子、安東」
水面から出て来た佐知は私たちに水を掛けた。
私たちも佐知にやり返す。
こんな経験はもう二度とする事は無いと思う。
今の私たちだから出来る経験。
プールサイドでタバコを咥えたまま、来夏さんは、二度と来ないこの六月の私たちをカメラの中に収めていた。
悩むとは考えるの先にある。
心理学の教授がそんな事を言った。
考える事の出来る人にしか悩みはやって来ないらしい。
私はキャンパスの喫煙所に入りタバコを咥えた。
ジーパンのお尻でスマホが震えているのに気付き、画面の表示を見た。
香緒里だった。
香緒里は推薦を蹴って、一般入試で更に上の美大に入った。
「もしもし」
「あ、葉子、今週何処かで時間無いかな」
私は煙を吐いて、
「何、どうしたの……」
と訊いた。
「少し直したいところがあってさ、葉子の絵」
私の絵とは、香緒里が大学に合格したらヌードモデルをやるという約束で一肌脱いだモノだった。
「え、また脱ぐの」
私の声に周囲の学生が一気に私の方を見た。
私はそれに気付いて声のトーンを落とす。
「あれ、結構疲れるのよね……」
香緒里は電話の向こうでクスクスと笑った。
「葉子のヌードを描く事は、私の幸せの一つなのよ」
私は息を吐いた。
「わかったわよ。土曜日で良い」
私はタバコを吸い殻入れに放り込んだ。
「やった。流石は葉子。大好きよ」
私は電話を切って、喫煙所を出た。
するとまたスマホが振動した。
今度は来夏さんからだった。
「はい、もしもし」
私は解けた靴紐をベンチで結びながら電話に出た。
「葉子、仕事」
「あ、はい」
私は歩く速度を速めてキャンパスを出る。
「とりあえず、家に来て」
来夏さんはそう言って電話を切った。
私は駅へと急ぐ。
私は来夏さんの元でカメラマンの見習いをしている。
「カメラマンならもっと良い人居るから紹介してあげる」
と言う来夏さんだったけど、来夏さんに教えてもらわないと意味がない。
何度も頼み込んで、私は来夏さんと一緒にスクープを追いかけている。
来夏さんは私とLGBTのパーティに行った時に撮った写真を元に遠藤議員の収賄事件のスクープを上げた。
水素エネルギー発電施設の建設に関わる贈収賄事件がそれで明らかになり、遠藤議員は辞職。
その彼氏である俳優の三島紀次もテレビでは見かけなくなってしまった。
何とも報道とは怖いモノで、社会的に人を殺す事が出来ると知った。
ペンは剣よりも強しとはよく言ったモノだ。
佐知はスポーツドクターになると言い、今は浪人中。
自分の様な好きなスポーツを諦める人を一人でも減らしたいと頑張っている。
私が水泳を辞めた事も、彼女にとっては大きかった様だ。
自宅から一時間弱掛けて大学に通う。
そんな選択肢を私は考えた事も無かった。
だけど今は、毎日大学まで通っている。
駅に着いて、駐輪場から自転車を出すと来夏さんのマンションまで自転車を走らせる。
「新しい自転車を買おう」
と父は言ったが、私はまだこの自転車に乗っている。
高校生だった自分に残した余韻の様なモノかもしれない。
自転車を止めて、来夏さんのマンションへ入る。
インターホンを押すと鍵が開き、来夏さんが顔を出した。
「急ぎなんですか……」
私は来夏さんに訊いた。
「ああ、神戸に行く」
来夏さんはジュラルミンのケースにカメラを詰め込みながら言う。
「え、神戸……」
来夏さんは顔を上げて微笑んだ。
「嫌か……」
私は首を横に振った。
「一旦帰って着替えとか準備して。迎えに行くから」
来夏さんは楽しそうに笑った。
私は返事をして来夏さんの部屋の窓から街の風景を見た。
そして、来夏さんの部屋を見た。
壁に大きな写真が飾ってある。
私と香緒里、そして佐知がプールに全裸で浮かんでいる写真だった。
あの後、私たちは制服を脱ぎ捨てて三人でプールに飛び込んだ。
月明かりが三人を照らし、輝く光のプールで私たちはそれぞれの抱えているモノを解放した。
少なくとも私はあの六月のプールサイドで何かが大きく変わった。
「神戸には美味い中華の店があるんだ。そこに行こう」
来夏さんは嬉しそうに笑っていた。