⑧決意表明
しばらく私——秋城 紺は止め処なく溢れる涙を抑え込むので精一杯だったが、その間に店員がやってきてバナナミルクのホットを持ってきた。
てっきり一ノ瀬 有紀先輩の注文したものだと思っていたが、彼女は「あ、彼女の前に置いてください」と私の所へ配置を促す。
「え、一ノ瀬先輩……んびっ、ずず……私……頼んでません……」
「バナナは心を落ち着かせる効果があるらしいよー、私の奢りでいいからゆっくり飲んでね」
「……ありがとうございます、っぅー……」
私は鼻水を拭い取った後、バナナミルクをゆっくりと啜る。優しく温かい甘みが口の中へと広がった。
「あ、美味しい……」
「良かった、って言っても私が作ったんじゃないけど、あははっ」
冗談めかして笑った後、彼女自身も注文したブラックコーヒーを啜る。
少し気持ちの落ち着いた私は、彼女の行動について触れることにした。
「……一ノ瀬先輩ってブラックコーヒー飲むんですね?」
「うん、結構好きでさ」
「なんだか、男の子みたいですね……」
「んぐっ、けほっ、けほっ!!」
「先輩!?」
私が何気なく発した一言に一ノ瀬先輩は激しくむせ込む。慌ててお冷を彼女の前に手渡すと、小さく頷いた後それを一気に流し入れた。
「っふぅー……はぁ……今は男子じゃないよ」
「『今』は?」
「んぐっ……私は女子だもん……」
先程からよく分からない補語が入り混じっている気がするがあまり深堀する話でもないと思い、それ以上は問い詰めるような真似をするのは止めた。現状、彼女は誰がどう見たところで女性なのだから。
「……ふぅ、さてと……秋城さん落ち着いた?」
「あ、はい。ありがとうございます……一ノ瀬先輩」
「ん、どうしたの?」
「一ノ瀬先輩は、自分が発した言葉のせいで、後悔したことってありますか?」
その質問に彼女は一瞬逡巡した様子を見せたが、覚悟を決めたように私の目を見据えた。
「……あるよ。正確には発した言葉、というよりかは行動だけど」
「行動?」その言葉を反芻するように問いかけると、彼女は深く頷いた。
「そう、行動。私が幼馴染と崩落事故に巻き込まれた、って話は電車の中でしたよね?」
「あ、はい。それでバレー部が続けられなくなったって……」
「うん。その幼馴染って男の子なんだけどね、事故の影響で大怪我しちゃって歩けなくなっちゃったの。それで私でさえも拒絶しようとしてね……で、その……えーっと……」
急激に歯切れが悪くなり、彼女は言葉に詰まる様子を見せる。後悔の念というよりは、どちらかというと恥ずかしいという気持ちが混じったような様子だ。
「……え、先輩なにしたんですか」
「……キスしようとしました」
「何で?」
思わず即答で聞き返すと、一ノ瀬先輩の耳元が真っ赤になり慌てた様子を見せた。
「や、えーと、幼馴染である私を拒絶するなんてダメでしょ、だから、そのね。男女の仲になれば絶対に切り離すことのできない関係になるんじゃないかなー……って……」
「……先輩って、その幼馴染の人のことが好きなんですか?」
その質問には彼女は首を縦にも横にも振らず、ただ傾けた。
「うーん、どうなんだろう。好き……とは違うのかなあ。でも高校卒業したら離れ離れになっちゃうから、それも寂しいなあとは思うけど……それは私も分からないかな、ごめんね」
殆ど好きと言っているようなものでは——と思ったが、当人の問題に口を出すべきではないと思い直し、何も言わなかった。
代わりに、本題へと話題をシフトさせることにした。
「実は、私の聴いて欲しい話というのも、私が片思いしていた先輩の幼馴染に関係する話なんです」
「……そうなの?」
「はい。私は文芸部に所属してた、って話は知ってますよね」
「うん。文芸部をちょうど辞めたところだったんだよね」
彼女が記憶を頼りに言葉を紡ぐ。
「そうです。私はその文芸部の先輩のことが好きだったんですけど、その先輩には幼馴染が居ました。でも、彼自身はあまり自分が本当に好きなのかどうか分かっていない様子で……」
ちょうど、一ノ瀬先輩みたいな状況です、と言おうと思ったがそれを言うと余計に話がこじれそうな気がしたので止めた。
彼女はそんな私の真意には気づかない様子で、「うーん」と小さく唸る。
「えっと、それで秋城さんはどうしたの?」
「私はこう言いました、私は先輩が好きです。ですが、何か思っている言葉があるなら口にしてください、あの人は本当にただの友達ですか……って」
「ただの友達……いや、今はいいか」何か思案する様子を見せたが、首を軽く振ってから向き直る。
それでどうしたの、と更に話を促す。
「結論から言うと、告白の答えは得られませんでした。急に降り出した雨を見て『ごめん』って出て行っちゃったんです」
「うん?」
「それで、遠巻きにしか見てないんですけど、幼馴染の女の子に告白したみたいで……私は逃げるように退部届を書いて出ていきました」
船出 道音に以前同様の話をして、ある程度自分の中で考えがまとまっているからだろうか。前回言葉にした時よりも少しだけスムーズに話すことが出来た。
一ノ瀬先輩はまだ何かを思案するように、顎に手を当てて唸っている。
「そっか、それは辛い経験をしたね……それ以降、その先輩とは?」
「……連絡を取っていません。メッセージすら来ていなくて」
「えぇ?」
私のその言葉に、彼女は少し苛立ったような返答を見せたことに一瞬不安げになる。
「え、あの、何か気になることありました?」
「……あっ、ごめん続けて」彼女は首を激しく横に振って、話を再度促した。
「あ、はい。あの日……私が泣いて逃げ出した日ですね。その日は先輩に会いに行こうとしたけど、結局怖くて逃げ出しちゃったんです。何を言われるか分からなくて」
「分からない、というのは怖いよね」
「はい。『どんな言葉を浴びせられるんだろう。失望か、呆れか』……って、そんな不安ばかりが押し寄せて向き合うことが出来ませんでした」
そこで言葉を切り、再度バナナミルクを口へと含む。少し話が長引いたからか、先ほどよりも常温に近づきつつあった。
一ノ瀬先輩は、机の上に置いたペーパーナプキンを撫でつつ、私の方を真っすぐ向いた。
「それで、秋城さんはこれからどうなったらいいな、って思う?」
「私は……」
改めて自分がどうしたいのか、考え直す。先輩と元の関係に戻りたいのか、と考えたがそうではない気がした。
先輩は幼馴染の女の子と恋仲になって、幸せそうにしていることは私もどこか望んでいたのかもしれない。早々に割り切って新しい恋愛に進もうとしている自分がいるというのも事実だ。
だから、今私が望むのは。
「せめて、先輩の口から私のことをどう思っていたのか、聞きたいです」
「……そうだね、一回話をしてみないと分からないもんね」
はい、と私は彼女の言葉に頷いた。話すことで徐々に私がしたいことがクリアになっていく。
「やっぱり私、明日もう一度話をしに行こうと思います」
「……そうだね、それが良いと思うよ」
彼女は柔らかな笑みを浮かべる。しかし、私はその表情に違和感を感じた。
口元こそいつもの優しい笑顔を浮かべているが、目元はどこか私以外の別の所を見ている気がしたからだ。
彼女の前に置かれたペーパーナプキンは何度も擦られたのか、幾度となく皺が重なっていた。
☆★☆☆
気が付けば、日は暮れて私たちを取り巻く世界全ては橙色に染まっていた。
「今日は、本当にありがとうございました」
駅のホームに戻った私は先輩に深々と礼をした。一ノ瀬先輩は少し慌てた様子でおろおろと私のお辞儀を制止する。
「いや、だ、大丈夫だって!気にしないで」
「あと、この間話しかけてくれた時、ぎこちない態度を取ってごめんなさい」
「いや、面と向かって話すの初めてだったし仕方ないんじゃない?」
「それだけじゃないんです。一ノ瀬先輩があの人と同じおさげの髪型だったので、どうしても思い返しちゃって……」
「ああ、これ?」
一ノ瀬先輩は両肩に乗せた栗色のおさげを触る。櫛通りの良さそうな髪が、暮れた日に照らされ艶やかに反射した。
すると、突如として先輩は髪を括っているヘアゴムを解き、後ろにまとめ直した。後ろに垂れた髪を自らの右肩に持っていく。
「……これで気にならなくなった?」
「あ、別に髪型を変えてほしい、と言ったわけじゃなかったんですけど……」
「大丈夫だよー、別に髪型にこだわりある訳じゃないし」
優しく微笑む彼女は、夕日に照らされて一層美しく輝いて見えた。
「本当に、先輩は優しい人ですね」
「そうかな、私は私の目的の為だけに動いてるだけだよ?」
「そうなんですか?」
「うん、こうして頼ってくれるのは嬉しいから、そうした人達にちゃんと恩返ししたいだけ」
それを優しいというんだと思ったが、あえて口にはしなかった。それが一ノ瀬先輩の信念である気がしたから。
「では、また学校で」
「うん、ありがとうね?じゃあまた明日!」
そう言って、一ノ瀬先輩とホームで手を振り合って別れた。
――――
私——一ノ瀬 有紀は、秋城 紺の言っていた相談内容を頭の中で要約し、何度も反復していた。
秋城は、文芸部の先輩に告白。しかし、先輩は幼馴染の女性に行為を抱いているという自覚がなかった。その為秋城が、自らの想いを伝えながらも彼自身が想いを自覚出来るように催促した結果、晴れて彼は意中の相手と結ばれる。
彼らからすればハッピーエンドと言えるのだろう。だが、そこに秋城の感情は介入していないことに、私は憤りを感じていた。
「秋城さんのことを蔑ろにしてんじゃねぇよ……」
普段隠している、私の中の一部分が思わず口から洩れていることに気づき、慌てて口を両手で抑える。
周りを見渡すと、誰もいないことが分かり安心して両手を離した。
[続く]