⑤反芻
私——秋城 紺は船出 道音の背中に回していた腕をゆっくりと解く。シャツの裾で涙をぬぐい取り、彼女の目を見つめる。
道音は涙を拭おうともせず、優しく微笑みかけていた。その笑顔にどこかモヤが掛っていた心が洗われる気がした。
「ありがとう……道音ちゃん」
「うん、大丈夫だよ。あ、紺ちゃん、この後時間ある?」
「……あるけど、どうしたの?」
そう問いかけると、道音はわざとらしく顎に手を当てた後、少しだけ楽しそうな笑みを浮かべた。
「一緒にカフェに行かない?」
「……ん?」
彼女の提案の本意が理解できず、私は首を傾げた。
★☆☆☆
道音に連れられて入ったカフェは、チェーン展開をしている有名なところだった。高校の近くに併設された、恐らく学校帰りの集客を狙って建てられたところなのだろう。
彼女は期間限定のフラペチーノを注文し、私はカフェモカを注文する。
甘いフラペチーノを幸せそうな顔で堪能する彼女に対し私は声を掛ける。
「道音ちゃんは、よくこういう所に来るの?」
「私も久々だよー、泣きじゃくる女の子を連れていくならカフェに限るからね」
「……え、どういうこと?」
「んー、何となくこうした方が良いんじゃないかな、って思うだけ」
「そ、そっかあ」
何だか釈然としないが、彼女がそう言うのならそういうものだと解釈せざるを得ない。
彼女に釣られるように私も自身が注文したカフェモカを口へ運ぶ。ほんのりと温かい甘みが口の中へと広がった。
「……ふぅ」
軽く息を吐くと、口の中に残った甘みが抜け出すとともに何か心の中に溜まっていた蟠りも少し軽くなった気がする。道音は私のその姿を眺めながら、手に持っていたコップを机の上に置く。
「でさ、本題に入っていい?紺ちゃん、君に一体何があったの?」
「……っ!」
思わず彼女の言葉に身構えてしまった。それが「悩みを受け入れる」と言ってくれた道音に対する不誠実な反応だと頭では理解していたが、どうしても本心から信じることが出来なかった。
「うん、怖いよね……否定されることってさ……わかった。じゃあまずは私の話からしようか」
「え?」
道音は唾を飲み、小さく息を吐いた。そして机の上に右手の人差し指を滑らしながら言葉を続ける。
「私さ、中学の頃ね。ストーカー被害にあってたんだよね」
「……えっ」
さらっととんでもない過去を話し始めた道音に私はどこか困惑を隠せなかった。だが、そんな私の様子を気にすることもなく彼女は言葉を続ける。
「しかもさ?そのストーカーしてきた相手。親身になって相談してくれた先輩だったの。『俺が助けになる』なんて言ってたのに騙された気分だったよ」
「それは、余りにもひどい話だね……」
「でしょ?私も本当に他人が信じられなくなりそうだった。でも、その時助けてくれた先輩がね、周りからの評価に吞まれるな……って言ってくれたんだ」
彼女の言葉は、どこか私にも刺さる気がした。周りの評価に怯えて、逃げてばかりの私自身の胸の奥深くへ。
それと同時に彼女も私と別世界の住民などではなく、様々な経験に悩み苦しんできた人なのだと感じる。
「大変な経験をしてきたんだね……でもどうしてその話を私に?」
道音は私の問いかけに、机の上に滑らせていた指の動きを止めた。真剣な眼差しで私の目を見据える。
「だって、紺ちゃんがせっかく悩みを打ち明けようと思ってくれたんだよ。だったら私が自分の経験を話さないと不公平じゃん」
「……なにそれっ」
真剣な眼差しでそんなことを言うものだから思わず笑いがこみ上げてきた。それと同時に、彼女の誠実さがひしひしと伝わる。
「もう、笑わなくていいじゃん……」どうやら彼女は笑われたことが不服らしく、わざとらしく頬を膨らませた。
……うん、一度彼女のことを信じてみよう。
いつの間にか、私はそう思えていた。ひたすらに真っすぐ向き合ってくれようとしている彼女のことを。
もう一度カフェラテを口へと運び、そしてゆっくりと息を吐いた。甘い匂いが口元から零れる。
「道音ちゃん」
「うん?」
「あのね、私ね、昨日同じ部活の先輩に失恋したの。遠巻きに先輩が告白して成功したのを見届けただけなんだけどね」
「……先輩に振られたんだね」道音は静かに私の言葉をフィードバックする。私はこくりと頷いた。
「そう。それを見ちゃったのがショックで、その場で退部届書いて逃げたんだけど、今日になってやっぱり罪悪感湧き出てきて……」
「うん、それでどうしたの?」
「……いざ、部室に言って昨日のことを改めて話そうと思ったのに、何を言われるかわかんなくて逃げ出しちゃった……」
そこで言葉を切って道音の方を見る。それで話が終わりだと理解したのだろう。彼女は小さく頷き返した。
「……そっか、話してくれてありがとう」
最後まで道音はわたしの言葉を遮ることはなかった。真っすぐに私の目を見て、私の不安を受け入れてくれた気がした。
「……こっちこそ、ありがとう。正直『この弱虫』って批難されると思ってた……」
「え?するわけないでしょそんなの!」
道音は笑いながら、大きく首を横に振った。その後にもう一度フラペチーノを口に運ぶ。
「……でさ、紺ちゃんはやっぱりまだ、向き合うことは怖い?」
「……うん、今はやっぱりまだ怖い」
特に意味もなく、机の上に置かれたコップを指で突っつく。軽く押す度にコップが少しずつ横にずれていった。
自分の胸中を話すことによって、私は初めて自分の今抱えている感情を鏡写しのように見ることが出来た。
先輩に対して、申し訳なさを抱いている私。昨日退部届だけ書いて逃げるように居なくなってしまった私。
そして、いざ何を言われるのか分からなくて恐れている自分。
さっさと話しに行けば簡単に解決するのだろう、とは分かっていたが内に秘めた恐怖心はそう簡単に消えそうになかった。
「それだったら仕方ないよね。ゆっくりと解決しこっか」
「……うん、道音ちゃん」
「ん?」
「本当にありがとう。話を聞いてくれたのが道音ちゃんで良かった」
私がそういうと、彼女は柔らかな笑みを浮かべた。まるで、その笑顔は太陽のようだ。
「どういたしまして!」
★☆☆☆
今日の帰り道は、少し心が軽くなった気がした。胸に抱えていた憑き物が少しだけ落ちたような感覚を覚えていた。
道音に自分の不安を話すことで、私は初めて自分の恐怖心を私自身でも受け入れられるようになった気がした。
ふといつしか読んだ本に書いていた、人格形成の話を思い出す。
私が自分を評価する時、それは本当の私自身の一部を切り出したに過ぎない。でも、自分の想いを表出することによって初めて私は心の内に秘めた自分自身を認識することが出来て、それは私自身に帰ってくる、といった話だ。
悩みを受け入れてくれた道音には本当に感謝しかない。
家に着いた私は早々にカバンを自室へと投げ出す。
その時、ポケットに入れた携帯からバイブレーションの振動が伝わっていることに気づいた。私はポケットからスマートフォンを取り出し、通知を確認する。
「……道音ちゃんかな?」
私はどこか期待をするようにロック画面を開くが、そこに表示されていたのは『yuki』というユーザーから、メッセージが送られてきたという通知だった。
[続く]