④理解者
文化祭実行委員の会議を終え、午後の授業は特に問題なく終了した。
秋を迎えるとなると、夕暮れになるのも早い。既に学内は狐色の光に包まれ、校舎が橙色の輪郭を纏う。
教師による放課後の挨拶を終え、クラスメイト達は部活動や文化祭の準備などで散り散りになっていく。私——秋城 紺は一ノ瀬 有紀先輩からもらった四つ折りにされたメモ用紙を開く。
整った文字で彼女の電話番号が記載されており、それをスマートフォンの電話帳の項目に打ち込んでいく。それが電話帳に登録されるのを確認した私は次にチャットアプリを開き、電話帳からの検索を行った。すると、自然の風景をアイコンとした「yuki」という名前が表示される。恐らくだがこれが一ノ瀬先輩のチャットアプリの登録名なのだろう。勝手に登録するのは気が引けたが、連絡の利便性を考えるとこっちの方が都合が良い。そう自分に言い聞かせ友達登録を行った。
スマートフォンをスカートのポケットに入れた後、私は部室に向かおうかと考えていた。
やはり先日、いくら感情が暴走していたとはいえあのような失礼な態度を取ったことに対して負い目が消えなかった。結果的に先輩は自身の想いを意中の女性に伝えることが出来て、恋愛を成就させることが出来たのは事実だ。
しかし、退部届だけを置いて去ってしまったのは失礼に値する行動だった、と今になって自覚した。
「……よし」
正直気が引けるのはあるが、このまま終わらせるのは不誠実だろう。ゆっくりと深呼吸をして文芸部の部室へと向かうことにした。
文芸部の部室は食堂の二階に備え付けられている。すれ違った食堂では学生達が各々部活動の休憩をしていたり、雑談を繰り広げている。
その中に見知った顔が居た気がしたが、今の私にはそこに意識を向ける余裕がなかった。
外付けされた階段を上り、文芸部の部室の前まで近づく。ゆっくりと深呼吸をして、ドアに手を掛けようとした。その時。
ガチャリ。
「……っ!!」
手を掛ける前に文芸部のドアが開かれ思わず私は逃げ出してしまった。物陰に隠れ様子を見ると、友坂 悠先輩がキョロキョロと廊下を見回している様子が見える。
「……気のせい、かな?」
そう言って彼はドアを閉め、部室の中へと戻っていった。
……逃げてしまった。
何故思わず逃げ出してしまったのかは自分でもわからない。あれほど失礼な態度を取ったと後悔をして謝らなければいけないと思っていたはずなのに。いざ直面すると怖くて、やっぱり向き合うことが出来なくて。
「……あは、私って本当に臆病だ……」
思わず自嘲の笑みが零れる。彼の口からどんな罵声や侮蔑の声が浴びせられるのか。本心とは相反するように、いざ想像すると怖くて向き合うことが出来なかった。
気が付けば視界が歪んでいた。それが自然と溢れ出た涙によるものだと気づくまで時間がかかった。
——自分のせいでしょ!泣くなんて身勝手にも程がある!
心の奥底で自分にそう言い聞かせる。強く両目を擦り涙を誤魔化そうとしたが、どうしても溢れる涙は止まらなかった。
しかし、その場に留まっている訳にはいかなかった。もしまた先輩がドアを開けて私の存在に気づいてしまったら。私の存在が先輩に再び認知されることが怖くて。
踵を返した私はゆっくりと階段を降り、食堂の前を通り過ぎる。その最中、見知った人物が私に声を掛けた。
「……紺ちゃん?」
その時、食堂から聞きなれた声がして思わず振り返る。そこには、船出 道音がいた。彼女は心配そうな顔で私を見ていた。
思わず両手を目元に当てるとやはり消えない生温かい涙が両手に付着していた。
「……見ないでっ」
私は涙に掠れた声でそう言い放ち、再び彼女の視界から離れたくて逃げ出してしまった。
最悪だ。こんな姿、誰にも見られたくなかったのに。ましてや私と別世界の住民であるはずの道音に知られてしまうなんて。
「ごめん、ゆきっち、真水先輩!ちょっと行くね!」
道音が食堂に向けて何やら言い放つのが聞こえたが私にはそれを気にする余裕はなかった。ただ彼女に追いつかれたくなかった。
みっともない姿をこれ以上見られたくなかった。
★☆☆☆
「つぁ……は、はぁ……っ」
息を吐く度に血の味が混じった空気が私の喉奥を刺激する。大きく口を開き深呼吸を繰り返し息を整える。
気が付けば私はいつもの居場所である校舎裏のベンチまで来ていた。さすがに体力の限界を迎えた私は、深くベンチに座り込む。古ぼけたベンチから軋む音が聞こえる。
「は、はぁ……すぅ……っ」
額から汗があふれ出し、涙と一緒に混ざり合う。それはやがて口元まで流れ込み、喉奥を不快な塩味が刺激する。
そんな私の傍に近づく人影が居た。
「はぁ……はぁ……っ何で逃げるの……っ」
「……道音ちゃん……っ」
道音が壁に手を突きながら、息を荒くして私を睨むように見ていた。その姿に思わず私はびくりとしてまた逃げ出したくなったが、わざわざ私を追いかけてきた彼女に対しそのような態度をとるのは失礼な気がした。
「ごめ、ん……隣座らせ、て……」
彼女はそう言いながら私の隣に腰掛ける。私は道音が座りやすくなるように、ちょっとだけ腰を浮かせベンチの端に寄る。再びベンチがぎしりと軋む音が生まれた。
しばらくの間、私たち二人が大きく深呼吸を繰り返すだけの時間が続いていた。
徐々に体が休まってきて、道音は汗で滲んだカッターシャツをパタパタと仰ぎながら私の方を見る。
「……どうして、泣いていたの?」
「道音ちゃんには関係ない……」
私はそっぽを向きながら、吐き捨てるように呟いた。
事実そうでしょ。クラス内の立ち位置も違う、私と住む世界の違う彼女にとって、私が泣いていたことなんてどうでもいいはずだ。
彼女から目線を逸らしていた。しかし、突如として両肩を鷲掴みされ私の身体は揺さぶられる。
驚いて私は正面を向くと、道音は泣きそうな顔で私の方を見ていた。
「何でそんなこと言うの……!関係ないなんてことない……同じクラスメイトでしょ!?」
「私と道音ちゃんは、住む世界が違うよ……」
「違うことなんてない!」
「いいから私に関わらないでよっ!!もう嫌なの、私が誰かに迷惑をかけるのが!!」
気が付けば、喉が張り裂けるように私は叫んでいた。悲痛な叫びが、私達しかいない校舎裏に響き、やがて虚空へと消える。
「……っ」
道音はどこか苦しそうな表情を浮かべた。私の両肩を掴む力が弱まるのを感じる。
私は、もう何度目かになるかわからない後悔をする。
私の言動で誰かが傷つくくらいなら、最初から誰も関わらない方が良い、と何度も何度も遠ざけて来たのに。
「……ごめん。でも、もう私なんかに関わらない方が良いよ……こんな私なんかに……」
「紺ちゃんはどうしたいの?」
「え?」
「私の重荷になりたくないのは分かった……でも、紺ちゃんはその先に何を見出すの?」
「……私がいなくなったら、みんなが幸せに……っ!?」
自嘲の笑みを浮かべながらそう答えている最中、頬に熱い衝撃を感じた。それが道音にビンタをされたのだと気づいたのは、彼女が涙を流していることに気づいた後だった。
「紺ちゃんも含めてみんなでしょ……!?」
「……違うよ」
「違うことなんてない!他人の目線ばっかり気にして!自分自身を後回しにして、それでいいと思ってるの!?」
「……」
頬の表面を這う痺れが、彼女の悲痛な想いを如実に伝えていた。
彼女が言うことは最もだ。だけど、それは自分の行動が間違っていないと自信を持って言える人だからこそ言える言葉なのではないか、と心のどこかで思っている私もいる。
間違うことが、怖い。否定されることが、怖い。
私のそんな胸中を察してか、道音は私を叩いた頬を優しくなでた。
「……叩いちゃってごめんね。間違ってもいいよ、見当違いでもいいよ。自分の悩みを受け入れてくれるか不安なのは分かるよ、私もそうだったから」
「……え」
「大丈夫、私が紺ちゃんの悩みを受け入れる第一人者になってあげる」
「……っ!!」
私は思わずベンチから立ち上がり、道音の胸元に抱き着いていた。溢れ出る涙を隠すこともできず、涙は道音のシャツを濡らしていく。
彼女はそんなことを気にも留めず、私の背中を優しくさすってくれた。
[続く]