㉒大切な、とても大好きな先輩
放課後のチャイムが残響する。文化祭を終え、打ち上げの為かワイワイしながら下校する生徒の声が遠くから聞こえる。
まるで私ーー秋城 紺と友坂 悠先輩だけがその世界から隔離されたような感覚さえ覚える。
お互いの視線が錯綜する。まず、ゆっくりと私は口を開く。
「友坂先輩、あれから彼女さんとはうまくいっていますか?」
彼は当たり障りのない問いかけにこくりと頷いた。
「うん、君が気づかせてくれたおかげでね、秋城さんこそ友達とはうまくいってる?」
「はい。あれから新しい友達もできて、大切な人たちに囲まれて過ごしています」
そうか、と友坂先輩はどこか嬉しそうな、それでいて寂しそうな表情を浮かべた。その表情のまま、言葉を続ける。
「僕はあの日から、後悔していたよ」
「後悔?……いや、その前にあの日とは、私が文芸部を辞めた日ですね?」
うん、と彼は大きく頷き言葉を続けた。
「君が告白したことに対して何も言わないまま居なくなったこと。それ以降のことも君に伝えなかったことをね」
「私は、ずっと先輩の優しいところが好きでした。困った時に手を差し伸べてくれる先輩のことを忘れることが出来なかったんです」
「優しい、か……君にとってはそう見えていたのかもしれないけど、僕は臆病だっただけだよ。自分の行動に責任を負うことが怖かった」
「私だってそうですよ。私の行動が他の人にどう影響を与えるのか分からないから怖い、もしかしたらとんでもない方向に流れていくかもしれない……でもそれでもわたしが正しいと思う事をするしかなかったんです」
「それであの告白、か」
「……はい。鶴山先輩は友坂先輩の友達だと聞きました。あの人は、『たとえ偽りの言葉だとしても、それを演じ続けていれば本物になる』と言っていました」
「偽りの言葉……」
友坂先輩はその言葉をぽつりと自分に言い聞かせるように反復する。そして、小さく深呼吸をした。
「そうだね、僕は自分を偽ることが出来ていなかったんだ。『こうありたい僕』が分からなかったから。変化することが怖くて、ただ現状を維持できていればいいと思っていた。だから逃げ続けて目を逸らし続けていれば、変化することなく安寧の世界の中に身をゆだねることが出来ると思っていたよ」
「変化することは誰でも怖いです。今までの自分を失う可能性すらありますから……実際、私も文芸部という居場所を失いました」
「それは本当に申し訳ないと思っているよ……」
「もし私も先輩があの幼馴染の女性のことを好きだという事を気づかせていなければ、きっと今も私は文芸部の一員として一緒に居ることはできたのでしょう……でも」
そこで私は言葉を切る。無理矢理頬を持ち上げて、作り笑いをする。
唇が震える、手に汗がにじむ。それでも振り絞るように言葉を紡ぐ。
「私は、先輩にはいたあの日の言葉に後悔はしていません。もし、私があの言葉を発していなければ、きっと私は今日、文化祭開催の時に皆を盛り上げることはできなかったです」
風が吹けば桶屋が儲かる、という言葉があるのをふと思い出す。些細なきっかけが、やがて大きな結果を生み出すという話だ。
あの日、先輩に告白をした日から私を取り巻く環境は大きく変化した。文芸部にはいられなくなってしまったし、クラスメイトとは大きく衝突した。
でも、その衝突の結果生まれた人間関係もあった。皆、自分を偽って生きていた。……だから、私も自分自身を偽ってもいいんだって思えたんだ。
そして、私が吐いた嘘は、結果として文化祭を盛り上げるという大きな本当を生み出した。これだけは変わりようのない事実である。
私の言葉に、友坂先輩は困ったような笑みを浮かべた。
「本当に、いつの間にか秋城さんは大きく成長したと思うよ。それに比べて、僕は変わらないままだった、だから正直君が羨ましく思うよ」
「羨ましい、ですか……?私の居場所を失った原因を作っておいて……そんなことを言うんですか」
私は内に秘めた思いを隠すことが出来ない。煮え滾るような感情がこみ上げてきて、やがてそれは言葉となる。
「……秋城、さん?」
「私は!!あなたにそんなことを言われたくはなかったっ!!本当は、ずっとあなたのそばで居れたらよかったのに……、変わらなくて良かったんです、でも、いつか変わらなきゃダメだったんです。それを避けて、目を逸らしていても、何も始まりません。……私は、たくさん考えて、たくさん困難に向き合いました。けど、先輩は何かしてくれましたか!!先輩は、何か困難に向き合うために何かしてくれましたかっ!!!!」
私が発した言葉の最後の方はもはや悲鳴にも似た慟哭と化していた。抑えきれない感情の奔流が私自身を飲み込んでいく。
本当は、ずっと言いたかった言葉だ。ただ一言、彼からの誠意ある言葉が聞きたかった。
今でも彼は本心から向き合うことを避けているように見える。今でも、彼は変化を恐れて、『自分が望む姿』を演じようとしないことに苛立ちさえ覚える。
その慟哭は、夕暮れの遠くへと残響を残して消えていく。校舎では徐々に生徒の声もほとんど聞こえなくなってきていた。
気が付けば、頬を厚いものが流れているのを感じる。それをぐいっとぬぐい取り、彼の相貌を見据える。
もう一度、あの日に先輩に刻んだ呪いを、もう一度叩き込む。
「何か思っていることがあるなら言葉にしてくださいっ!!先輩にとって、私は一体何なんですかっ!!」
「……っ」
彼は双眸を見開き、ついには黙り込んだ。逡巡として目線を揺らし、小さく呼吸を繰り返す。
その後、ゆっくりと深呼吸をして私の目を真っすぐに見た。
「……ただの、後輩だよ。君はそれ以上でも、それ以下でもない。文芸部の後輩、たったそれだけだよ」
「ただの、後輩」
「そう。ただ困っている人を放っておくのは何となく気になったから助けただけ。そこに特別な感情はなくて、先輩が引退した時も別にやめたとしても僕は気にしないつもりだった。だって、僕の存在が他人に影響を及ぼすことなんてないと思っていたから」
「つまり、先輩は自分自身は、他人にとってどうでもいい人間だと、そう思っているってことですか。自分の存在が私自身に影響を与えることがあってはならないと」
確認の言葉を発すると、先輩は小さく頷いた。
「それ、先輩の彼女の前でも言えますか……?自分のことはどうでもいい人間だ、だから自分から人が居なくなるのは仕方のないことだって言えますか……」
「……!!」
「私も自分の問題なんて他人には関係ないことだ、って閉じこもって逃げようとしていました。でも、そんな時友達が手を差し伸べてくれて、初めて向き合うことの大切さを知ったんです。初めて、自分の想いを他人に伝えようと思ったんです」
「……秋城さん」
「本当はこんなことだって言いたくないです。でも、案外簡単なようで出来ていないことが多いから、誰かが言わなくちゃいけないんでしょう……、もう少し、先輩も自分自身を大したことのない人だと思うのはやめてください。先輩が自分自身のことを取るに足らないどうでもいい人間だと思っていたとしても、私にとってはどうでもいい人間じゃなかったんです。大切な、とても大好きな先輩だったんです」
「うん、僕は自分自身を過小評価していたのかもね。本当に、ごめんなさい。もう少し、君と向き合うべきだったよ。もう少し僕自身が持つ価値を考えるべきだった」
友坂先輩は、自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。どこか彼も瞳に涙を浮かべ、後悔の念を表情に浮かべる。
ああ、ようやく通じたんだ。
そう思って、どこかさらに心の奥底から何か熱いものがこみ上げるのを感じる。
「はい、誰かと関わった時点でみんな、自分自身に価値が生まれるんです。そのことを胸に刻まないといけなかったんです……」
「そうだね。君がどれだけ僕のことを大切に思ってくれてたのか、それを考えるべきだったよ。それが分かっていなかったから、君と関わることを避けようとしていたんだ」
「……そうですね、友坂先輩は大馬鹿です。もっと、自分のことを大切にしてください」
[続く]