この中に狼がいる ~オオカミ少年異聞~
「お、狼が来たぞーっ!」
羊の番をしていた羊飼いの少年は、ひどく慌てた様子で村に駆け込んできました。そのあまりの狼狽振りに、村の人々は手に鋤や鍬を持って集まります。しかし狼の姿はどこにもなく、羊たちはのんびりとあくびをしていました。嘘を吐いたのか、と怒る村人たちに、少年は青い顔をして震えながら言いました。
「ぼ、ぼく、見たんだ。狼がみるみるうちに人間の姿になって、村に入っていくのを。あいつはただの狼じゃない。きっと村に紛れ込んで、夜になったら人間を喰うつもりなんだ」
少年の身体はカタカタと震え、とても嘘を吐いているようには見えません。もし少年の言葉が本当だとしたら、狼が来たどころの話ではありません。化け物がいつその怖ろしい牙を剥くかもしれない中を平気な顔で生活することはできないのです。村人たちは、村にいるすべての人を集会所に集め、話し合いをすることにしたのでした。
村の集会所に、村に住む人々がぞろぞろと集まってきました。小さな村です。村人同士はみんな顔なじみで、皆、化け物の噂に不安げな顔をしながら、互いにまだ無事であることにほっとしているようでした。村人全員が揃い、村長が皆に事情を説明しようと口を開きかけたとき――見覚えのない若い男が集会所に入ってきました。集会所がざわめき、そこかしこで「誰だ?」というささやきが聞こえます。しかし若い男は特に気にした風もなく、一番はしっこの位置に座りました。村長はじっと、最後に入ってきた若い男を見つめると、ちょっぴり険しい声で言いました。
「お前、狼だろ」
若者は驚愕の表情を浮かべ、必死に首を横に振りました。なぜか言葉を発することはありません。村人全員がジトッとした目で若者を見る中、羊飼いの少年が声を上げました。
「待ってよ。確かに見覚えのない顔だけど、それだけで狼と決めつけたら可哀そうだろ。本人も違うって言ってるし、もし本当に違ったら取り返しがつかない。疑わしきは罰せずは刑法の大原則なんだぜ? 有罪の立証責任はこちら側にある」
少年の言葉に、村人たちは「確かに」と納得し、若者に「疑って悪かった」と謝罪しました。若者はほっとしたように笑顔を浮かべると、気にしていないというように軽く首を振りました。
空気を改めるように村長は大きく息を吸い、そして村人たちに向かってこの集会の趣旨を説明し始めました。
「もう聞き及んでおると思うが、狼が人間に化けて村に潜り込んだと報告があった。もしかしたら狼はすでに誰かを襲い、入れ替わっておるのかもしれん。狼を野放しにすれば村の存続にかかわる。今からひとりずつ、狼かどうか確かめていくので、協力してほしい」
村人たちが緊張した面持ちでごくりとつばを飲み込みます。一体何を聞かれるのか、うまく答えることができなければ狼と見なされてしまうのか、狼だと見なされたらどうなってしまうのか。集会所を不安が包みました。村長は少しの間目をつむると、覚悟を決めたように目を開き、そしてはしっこに座る最後に入って来た若者に向かって言いました。
「お前、狼だろ」
「ガウ」
「お前だーーーっ!!!」
村人が一斉に若者を振り返り、指をさして詰め寄ります。若者は怯えたような表情を浮かべ、必死に違うと手を振りました。すると一人黙っていた羊飼いの少年が、よく通る声で言いました。
「待ってよ。確かにガウって言ったけど、それだけで狼だって証拠にはならないだろ。もしその人が別の国の人で、『ガウ』がその国のあいさつか何かだったらどうするんだ。外国の人を冤罪で処罰したら国際問題だぞ。僕たちにその責任が背負えるのか?」
少年の静かな問いかけは、村人たちの熱くなりかけた心に冷水を浴びせました。村人たちは「確かに」とつぶやき、そして「すまん」と若者に謝ります。若者はほっとした表情を浮かべ、気にしていないというように軽く手を挙げました。村長は「ふむ」と思案げに腕を組むと、ポケットから缶詰を取り出し、皆に見えるように掲げて言いました。
「ところで、ここに一つ、めったに手に入らない高級ドッグフードがあるのだが」
「わおん♪」
「お前だーーーっ!!!」
思わずよだれを垂らして声を上げた若者を、村人たちが一斉に振り返ります。若者は「ちょっとそれずるくない?」とうらめしげな表情を浮かべています。すると一人冷静な羊飼いの少年が、たしなめるように声を上げました。
「待ってよ。確かにドッグフードに反応したけど、それだけで狼だって決めつけるのは乱暴に過ぎるよ。ドッグフードは薄味だけど意外に食えるんだぜ? 高級って言われたら、ちょっと興味がわいたって仕方ないよ」
村長は羊飼いの少年に視線を向け、そして何とも言えない複雑な表情を浮かべました。
「……食ったのか?」
羊飼いの少年はわずかに視線を落とし、苦しげに呻きました。
「若気の、至りさ」
村人たちもまた、痛ましげな瞳を羊飼いの少年に向けました。そしてその心意気を汲み、「すまなかった」と若者に謝罪します。若者もまた、こちらこそと言いたげにうなずきました。村長はまたも思案げに中空を見つめ、そして再びポケットから、今度は玉ねぎを取り出して、皆に見えるように掲げました。
「皆にはこれから、玉ねぎを食べてもらう」
「クゥーン」
「お前だーーーっ!!!」
怯えるような声を上げた若者を村人たちは一斉に取り囲みました。若者は少し涙目になり、弱々しく首を振ります。羊飼いの少年が怒気をはらんだ鋭い声を上げました。
「待って! 玉ねぎの放つ催涙成分、硫化アリルが好きな人間なんてこの世にいない! 苦手なものを突き付けられて、それを素直に嫌がったら狼だとでも言うのか!? そんなおかしな話があるものか! みんな、冷静になってくれ! 一度犯した過ちは、取り返しがつかないんだ!」
少年の悲痛な叫びに、村人たちは冷静さを取り戻したようでした。村人たちは指示を仰ぐように村長を見つめます。村長は少年を見遣ると、努めて冷淡な声音で言いました。
「確かに、玉ねぎが嫌いなだけで狼であるとは言えまい。しかしな。今までの経緯をすべて考え合わせれば、もはや偶然で片付けられることではなかろう」
この小さな村にあって知る者が誰もいないこと、問われて「ガウ」と返事をしたこと、ドッグフードが好きなこと、玉ねぎが苦手なこと。それらはすべて、若者が狼であることを示していました。若者は観念したようにうつむいています。村人たちもまた、これ以上は無理だろう、と羊飼いの少年を見つめていました。しかし少年は、運命に抗うように叫びました。
「すべて状況証拠に過ぎない! 明白な物証がなければ、罪を問うのは間違いだ!」
少年の悲痛な声に気圧されるように、集会所を沈黙が覆いました。村長は不可解だと言わんばかりの顔で少年に問いかけます。
「どうして、そこまで?」
少年は視線を床に落とし、つぶやくように言いました。
「……だって、誰にも信じてもらえないなんて、悲しすぎるじゃないか」
少年のつぶやきに、誰も、何も言うことができずに、集会所は無音のまま、時間だけが流れていきました。どれだけの時間が経ったことでしょう、不意に、ぽふん、というどこか気の抜けた音が集会所に響きました。皆が音のした方向――最後に集会所を訪れた見慣れぬ若者のいる場所を振り返ります。そこはもくもくと白い煙に覆われ、そして、煙が晴れたときにその場所にいたのは、一匹の若い狼でした。
「……お前、狼だったのか」
ショックを受けた様子で、羊飼いの少年は呆然と狼を見つめます。狼は気まずそうに「クゥーン」と鳴き、お座りをしてしょんぼりとうつむきました。村長が厳かに告げます。
「これで、はっきりしたな」
狼は家畜を喰らう村の敵。まして人に化ける魔物なら、放置すれば村にどんな災いをもたらすか分かりません。村人たちが道を開け、村長は狼に近付いてその正面に立ちました。
「かわいそうだが、これも運命。あきらめてくれ」
冷たく言い放つ村長に、
「待って、待ってくれ!」
羊飼いの少年は懇願するように声を上げ、そしてその身体を村長と狼の間に割り込ませました。
「確かにこいつは狼かもしれない! だが、まだ何もしちゃいないじゃないか! こいつが罪に問われる理由はないはずだ!」
床に手を突き、村長を見上げて少年は断罪の根拠を問いました。村長は動じることなく少年を見下ろしています。
「狼は家畜を襲う。村人も襲うかもしれん。そうなってからでは遅いのだ」
「それはただの可能性に過ぎない! 可能性で罪を問うてはいけない! 狼は家畜を襲う可能性がある、確かにそうだろう! だが、誰も襲わない可能性だって持っているんだ! 神ならぬ僕たちに、こいつの未来を決めつける権利はない!」
そして少年は、額を床にこすりつけ、血を吐くような思いと共に懸命に訴えました。
「お願いだ! 命は、失われてしまえば取り戻すことはできないんだ! こいつは僕がきちんと躾ける! みんなに迷惑はかけない! だからどうか、どうか! お願いします!」
必死に訴える少年に、狼はそっと近づき、そしてその頬をペロッと舐めました。少年は微笑み、狼の頭を優しく撫でてあげました。村長は困ったように小さく唸ると、村人たちの顔を見渡します。村人たちは互いに顔を見合わせ、そして苦笑いを浮かべると、村長に向かって小さくうなずきました。村長もまた、苦笑いと共にうなずき、
「ちゃんと毎日散歩に連れて行くんだぞ」
そう言って、どこかわざとらしく厳しい表情を作りました。少年は勢いよく顔を上げると、強い決意と共に「もちろん!」と答えました。狼が嬉しそうに少年に飛びつきます。少年は立ち上がると、
「ようし、今日から僕らはパートナーだぞ! ふたりで一緒に、この村を守っていこうな、相棒!」
嬉しそうにそう言って、集会所を出るべく足を踏み出しました。
「お、おい」
希望にあふれた少年の背中に、村人の一人が遠慮がちに声を掛けます。
「……頭、かじられてるぞ」
少年は振り返り、ああ、なんだそんなことか、とばかりに言いました。
「野生の狼に懐かれるなんて、簡単じゃないことくらいわかってるさ」
少年は年齢にそぐわぬ男前な笑顔を浮かべ、少しだけふらつく足取りで、集会所を後にしたのでした。
やがて少年は成長し、相棒の狼と共に、村に迫りくる十万の兵を退けて英雄と呼ばれることになるのだが、それはまた、別のお話。