.獣の家
ジェイナは屋敷を訪ねる旨を昼の使いの者に伝えてもらい、その昼食後、アランとともに塔を出た。
服は両親に送ってもらった着替えから選んだ。森を通り抜けることになるとわかっていたのでかかとの平たい靴を履いた。
昼間の森は静かだった。朝さえずっていた小鳥は午睡をしているのだろうか。枝葉のあいだから陽光が差し込んでいる景色にはのんびりとした時間が流れている。
「ここはいいところですね」
「そうだね。しかも毎日まかないをもらえるんだから最高の住み家だよ」
冗談っぽい笑みを浮かべる。しかし本当にそう思っていることが感じられた。
「ここに来られる前はどこにいらっしゃったのですか?」
「近所だよ。日々ふらふらしてて、なりゆきでここに住むことになったんだ。雇い主は訪ねてきたことないけど、さいわいまだ存在を覚えてるみたいで生活費を捻出するのをやめないでいてくれてる。僕の質素な生活を演出するには金がかかるのにさ」
「ええ……」
よい返しを思いつかなくて生返事をした。的はずれなことや踏み込んだことを言って彼に嫌われたくなかった。
小道の先になだらかな丘が見えた。そしてそこに建つ、広い庭を抱える大きな屋敷も。
「僕はここまでだ。あとはきみ次第」
「はい。お見送りありがとうございました」
森の陰から出ると、夏のかがやかしい陽光が芝で照り返され、帽子の下の目を焼くようだ。
「気をつけて」
アランは小さく手を上げ、森の中へ戻っていった。
ジェイナは屋敷へ向かった。丘からの街の眺めは美しく、自分の家も見えるかどうか気になったが、脚は止めなかった。
屋敷の門をくぐって敷石を渡り、大きなドアを叩く。
少しして冷たい人相の執事が出た。
「お約束がおありでしょうか?」
「私はジェイナ・リンゼンといいます。セシル様にお会いすると伝えていただいたはずなのですが」
「セシル様はお出かけになられております」
「あ、あら……そうなのですか」
妙だ、ととっさに思う。仲の良い客人を家に泊めるつもりの時に出かけるだろうか?
「いつお帰りになられますか?」
「わかりかねます」
執事は胡乱な目を向けてきた。まるで知らない者を相手にしているかのように。
自信がなくなってしまいジェイナは切り出す。
「では出直しますので、お帰りになられたら――」
「ウォルター、こんなに晴れた日にいつまでお客人を外に立たせておくつもりだ?」
執事が後ろを振り返った。扉口から半身がどいたのでジェイナも声の主を目にした。
玄関ホールからは階段が伸びており二階の廊下につながっている。そこに老人がいた。体格はよいが片方の膝がほとんど曲がらず、杖をつきながら一段一段おりてくる。
「何かお困りなら私が話をお聞きしますよ、お嬢さん」
「ええ……その。はい、お尋ねしたいことがあるのです」
目上の者からの誘いを断りきれなかった。
「なら客間にご案内しましょう。ウォルター、冷たい飲み物を出してくれ」
執事はジェイナを中へ入れると主人の指示をこなしにいった。老人がようやくホールに到着する。
「おっと、何やら緊張しているようだと思ったら、まだ名乗ってもいなかったな。私はルズバリー卿クレイグ、このフェリス家の当主だ」
「初めまして、ルズバリー卿。私はジェイナ・リンゼンです」
「ジェイナか……。よろしく、ジェイナ。お若い方と新たに出会うのは久しぶりだから嬉しいよ。さあこちらへ」
ジェイナはルズバリー卿の歩みに合わせて客間に入った。テーブルを挟んで斜向いに置かれている椅子にそれぞれ腰掛ける。まもなく執事が氷入りのお茶を持ってきた。
「そうそう、今日はこういううんと冷たい飲み物がいい。医者はやめろと言うが、楽しみのない人生に意味なんてないからな」
そう言うと一息でほとんどを飲み干してしまった。
「ふぅ……。それで、尋ねたいことがあるんだったね?」
ジェイナは驚きから我に返って冷たいグラスを置いた。
「奇妙なことをお尋ねしますが、昨日、私がセシル様を訪ねて来たかどうかご存知ありませんか?」
「あなたが息子を? ふむ……わからないな。私はこのとおり年寄りで脚も悪いから、家の中を自分で把握するのはもうやめたんだ。今は一日じゅう二階から外を見ているだけなもんだよ。それにこの家は人の出入りが多いから、いつ玄関が開いたかもわからない。満足に動けない私のために客人がわざわざ足を運んできてくれるし、妻も息子も活動的だからな」
年寄りを自称するにはルズバリー卿は五十代とまだ若い。しかし貴族の婚期が早いことと一人息子が十九歳であることを考えると、歳をとっていた。
とにかく、ジェイナは落胆を押し隠して会話の終わりを待つことにした。
「そうですか……。お一人なんですね」
「退屈で死にそうになることもある。そんな時にも窓の外を見るのさ……あの森を。あなたは今あそこに避難しているそうだね? ならあの男のことが分かるだろう……私と同じように孤独な男だ。何が楽しくてあそこに留まっているのか理解できないが、毎日規則正しく煙突から煙を立ちのぼらせている。しかし私も毎日その煙を見るために規則正しく寝起きして、生きていることを確かめなければ気がすまなくなっているんだ。もう何年も顔を見ていない男に知らないうちに躾けられたわけだよ。おかしなことじゃないか?」
「ええ。どうして隠者を置いておこうと思われたのですか?」
「それがな。少しは理知的にならなければいけないと思ったんだ。私には悪い癖があってな……とても恥ずかしくて人には言えない癖があるんだ。だからさみしさを埋めるために貧しい家のお嬢さんを善意で雇い入れたりするとよくないんだよ。特に美しいお嬢さんだとな……君のような子は、特に」
老人の指がジェイナの水滴まみれのグラスをなでる。
「あの隠者はよくしてくれているだろうね? 苦労はしていないかな?」
「ええ、よくしてくれています……」
「嫌になったらいつでもこっちへおいで。かわいがってあげるよ。あぁそうだ、君が来る前に菓子が食べたくなって作るよう頼んでおいていたんだ。今ならできたてにありつけるかもしれない。一緒にいかがかな?」
「い、いえ。もうお暇しませんと。用もないのに長居しては失礼ですもの。ではごきげんようございます」
素早く立ちあがったジェイナの手首に老人の手がからみついた。手のひらは熱く、指先は濡れていて冷たい。
怯えて見おろすとルズバリー卿は嘲笑した。
これは底意地の悪いいたずらなのだ。ジェイナは力づくで手首を取り返して客間から、屋敷から逃げた。
丘を走りながら手首をハンカチで拭いた。しかしおぞましい感触がぬぐいきれない。氷河に浸してでも忘れ去りたいというのに。
悔しさと怒りの涙が頬を伝う。
ジェイナは森の小道を抜けて塔のドアを叩いた。出てきたアランの呆れた笑みを見て初めて、自分がここへ戻ってきたことに気づいた。全て無意識だったのだ。
「また泣きながらやってきたね」
けがれたハンカチの代わりに手の甲で顔をぬぐう。
「おかえり」
「……ここは家じゃありません。ここは……」
「僕は待ってたよ」
そっと肩に手が置かれる。少しも力がこめられていないのに、引き寄せられるように塔へ入った。




