4.天秤
ベッドと寝室をジェイナのために整えたあと、アランは塔の中を案内した。といってももうほとんどの施設を知っていたので、残るは地下室だけだった。
地下室の入り口は階段下の上げ蓋だ。引き上げると板を組み合わせた簡易な階段が現れる。アランがランタンを持って先におりた。
「ここは薬品の研究室だ。前の住人が薬師だったそうなんだけど、ほとんどの荷物を処分しないまま出ていってしまったみたいなんだ。危ないものも残ってるから、ここには一人で入らないでね」
「わかりました」
ランタンが流し台つきの広いテーブルと黒板を照らす。どちらも昨日まで使われていたかのように道具は出しっぱなし、化学式は書かれっぱなしだ。
戸棚のガラス窓を覗くと、薬品の瓶の並びも雑然としている。しかし、全ての瓶の首にかけられている名札の字は几帳面だった。
「結構な厚遇を受けていたはずなのに、薬師は手荷物だけ持って慌ただしく出ていってしまったようなんだ。この塔にあるものはほとんど彼が住んでいた時に揃えられたものなんだよ。時代遅れなのはそのせいさ」
一通り見終わり、二人は地下室から上がった。
「私、ここに置いていただくあいだ何をしたらいいでしょうか?」
「どうしてもタダで過ごしたくはないんだね……。なら、食事の用意はきみがしてくれる? 自分で盛り付けるのもそろそろ飽きてたんだ」
「はい。任せてください」
ささやかな手伝いだとしても仕事があれば「これはただの下宿だ」と言えるはず。だからジェイナはホッとした。
「家に手紙を書こうと思います。セシルはきっと上手くごまかしてくれていますよね?」
「屋敷に変わりはないって朝の使いは言ってたよ。婚約者のところに泊まってるって赤裸々に書いたらいい。昼の使いに持たせるよ」
「そうしてみます」
ジェイナは目を伏せた。
両親に嘘をつくのは後ろめたかったがセシルと自分のためには必要なことだ。便箋をもらい、書庫で手紙をしたためた。両親は清らかな交際を望んでいるので、心配しないように、と強く念を押しておいた。
昼の使いが来るとアランが上がってきた。
「手紙はできた?」
「はい。でもまだ封をしてなくて」
「じゃあ、屋敷で封蝋をするように言うよ。それまで誰も見ないように別の封筒に入れて僕の印璽を押しておくね」
「それで結構です。お願いします」
「ここにいて。姿を見られると余計な噂が立つから」
ジェイナは頷いてドアを閉めた。
さすがに何もかもをアランに任せすぎかもしれないと思ったが、だからといって自力で行動したせいで下手を打ってしまっては目も当てられない。それに余計な噂が立つことほど面倒なことはないのだ。
ドアがまたノックされる。開けると、アランがジェイナの服一式を抱えていた。
「戻ってきたよ。どうぞ」
ワンピースの汚れはすっかり落ちていた。靴も両足そろっており、ストラップが修理されている。
「あぁ、よかった。靴も見つけていただいたのですね」
「ぜひそれに着替えてほしいな。可愛らしい格好のきみがいれば楽しい食事になりそうだ」
「そんな……」
この水色のワンピースはセシルに見せるために選んだものだった。
微妙な顔になってしまい、アランが遠慮がちになる。
「ああでも、また汚したくはないよね。今日はスープみたいだから無理は言わないよ。じゃあ、下でね」
ドアが閉められると、ジェイナは少し考えてワンピースに着替えた。破れたタイツはよく似た新品に代わっていた。
一階におりるとアランは驚いたように笑んだ。
「素敵だよ、ジェイナ。夏の妖精だね」
「ありがとうございます……」
やはり気恥ずかしいような微妙な気持ちになった。ジェイナは無言で台所におりた。
かまどで温め直されている鍋にはトマトのスープが入っている。ぐつぐつしはじめたところでアランが火からおろしてくれた。ジェイナの仕事はスープ皿に盛り付けて食卓へ運ぶだけだった。
二人はしばらく無口でいた。
「手紙はちゃんと任せたよ。確実に届けるように言っておいたから安心して」
「はい。お手数おかけしました」
スープとパンの山に再び沈黙が落ちた。次はジェイナがそれを破る。
「明日もういちどセシルの気持ちを確かめてみようと思います」
アランは僅かに目を細めた。
「そう……なるほど。きみは本当に婚約者のことが好きなんだね。今回の出来事はちょっとした痴話喧嘩だった、ってことにしてもいいというわけだ」
「そうしないとお互いに困りますから……。お金のこともあるし、なによりこのまま別れたら体裁が悪くなって、他の人を探すこともままならなくなってしまいます」
ジェイナは無意識に細いため息をこぼす。
「こんな現実的なことと恋愛を天秤にかけることになるなんて、夢にも思いませんでした。すごく居心地が悪くて……悲しいです」
クス、とアランはほほえんだ。
「大人になった悲しみだね。お祝いしよう」
「……ごめんなさい。今は冗談を聞きたい気分じゃないんです」
「いいえお嬢さん、これは祝うべきことだよ」
そう言うと戸棚の下からワインボトルを取り出す。
「この世はひたすら現実的なことでできていて、そこにおいて恋愛ははかない泡にすぎない。しかし大人は現実の苦味や辛味すら、甘みを引き立てるスパイスにして複雑な愛を味わうことができるんだ」
赤いワインが注がれたグラスが食卓に置かれる。ジェイナは呆れ顔を隠さなかった。
「物語みたいにですか? そういえば書庫に小説もありましたね。誰のご趣味かはわかりませんが」
「おや、まだお子様向けの甘口をご所望かな?」
さらに戸棚から新しいワインを取り出す。グラスを切らしたのか次はカップに注ぐ。ジェイナはますます呆れた。
「どれだけお酒があるんですか?」
「月に一本だけの嗜好品だよ。開けないでおけば将来年代物の貴重品として高値で売れるかもしれないと思って取っておいたんだ。けど、やはりこれは飲むためにあるときみのお陰で思い出したよ」
アランは一本目のグラスを掲げた。
「からい恋に乾杯」




