3.助言
役柄としての隠者とはいえアランの朝は早かった。ジェイナは井戸から水を汲み上げるポンプの音で目を覚まし、ソファに身を起こした。今日も灰色のローブを着ている家主が桶を持って居間に戻ってくる。
「おはよう。起こしてごめんね」
「いえ、お気遣いなく……おはようございます」
「洗面所で顔を洗ったらいい。少し冷たいけどね」
塔の中は暗いのでランタンが早くも灯されていた。夜中は階段まわりはつけっぱなしだったほどだ。
ジェイナは言われたとおり戸口のむこうの小さな洗面所に入った。小さな鏡の前に水盆が用意されている。顔を洗っても目の下の顕著な疲れは落ちなかった。
アランは台所の水桶の水を取り替えていた。昨日の汚れた水を移し、新しい水を入れている。重労働そうだ。
「何か手伝いましょうか?」
声をかけると、アランは袖まくりした腕で髪をはらった。
「これはタダ飯食らいの数少ない仕事だから気にしないで。朝食まで時間があるから、屋上へ出てみたら? 今日は気持ちのいい日だよ」
「そうしてみます」
ジェイナは階段をのぼり、踊り場で足を止めた。そこから一階が隈なく眺められる。やはり狭いと思ったが、その狭さが居心地の良さなのかもしれない。
さらに階段をのぼり、天井についている戸を押し上げた。その瞬間、内部の空気が風となってジェイナの周囲を上昇していった。
外の空気は驚くほど冷たくて爽やかだ。しっとりしている森の香りに満ちている。まだやわらかい陽光がかがやく美しい朝だ。
ジェイナは深呼吸をしてしばらく佇んだ。
木々は塔よりも少し背が高いため、丘の上の屋敷は屋根しか見えない。屋敷からこの塔を見たことがなかった理由もそれだ。だが建設された当初はきっと塔の方が森より高かっただろう。
ふと、塔の下で人の声が聞こえたので耳を澄ませた。アランが誰かと喋っているようだ。
でこぼこの銃眼になっている塔の縁から身を乗り出して見おろすと、ちょうど短い会話が終わって見知らぬ人が塔を離れていくところだった。使用人の服装で、頑丈そうな鞄を背負っている。毎日三度来るという使いの者だろう。
ジェイナは階段をおりた。足音でアランが振り返る。
「朝食が来たよ。きみの服はまだ乾いてないから昼になりそうだって。もう少しその服で我慢してね」
「分かりました。お心遣いありがとうございます」
「冗談。心を遣ってたら男物の服なんか着せないよ。朝食にしようか?」
「は……はい」
ほほえみは美しいがつかみどころのないアランにジェイナはまだ慣れなかった。
食卓に果物入りの粥がなみなみと入ったボウル皿が二つ置かれた。今日はそれくらいなら完食できる食欲があった。
「ジェイナ、これからどうするつもりか聞いても?」
空になった皿を端に寄せてアランが尋ねた。ジェイナはお茶を数口飲んでから口を開いた。
「恥ずかしい話ですが、お金の問題があるので簡単には解決できないと思うんです」
「お金の問題?」
「はい。両親が私に大きな額の持参金をもたせてくれるつもりなんです。私はそのお金を自分のためという名目で、セシルの夢だった旅行業の開業にあてるつもりでした。そのために何枚も書類にサインしたんです。だから結婚をとりやめにしてしまったら、セシルは大変な借金を負うことになってしまうんです」
ふぅん、とアランは興味深そうに唸る。
「つまり婚約者は金のために愛をささやいていたのかな?」
「そんなことはないはずです! 一緒にいるとき、心は同じだと思えていたのですから……!」
「でも具体的なことは起こらなかった」
ジェイナは全てを見透かすような瞳に見つめられて息が止まりそうになった。その瞳はよく見ると青空色に……セシルの瞳に似ていた。
「男が愛を捧げるのは具体性を勝ち取るためだ。たいていの場合はね。きみのように精神的な関係だけで満足できる高尚な男も世の中にはいるだろうけど、大多数は下半身でものを考えているんだよ。……おっと、嫌な事実を教えてしまったね。これは失礼……」
絶句するジェイナへ片頬を上げて見せる。
「お察しのとおり僕はひとかけらも隠者らしい人間じゃないし、演技も下手なのさ。金持ちの道楽に生かされている装飾に過ぎないから、期待しないでね」
「あの……どうしてお若いのに隠者として暮らすことをお選びになったのですか?」
アランは考えるそぶりを見せた。
「それは孤独がよくないことだと思ってる人の質問だね。でも今の僕にとって、孤独はほどよい刺激なんだ。だからこの生活をそこそこ気に入ってるんだよ」
「私は早めにおいとましないといけませんね」
「いいや、きみは好きなだけいていいよ。面白い、もとい興味深い話を聞かせてくれたお礼だ。というより、…………」
言葉の空白に首を傾げる。アランはようやく続けた。
「……考えてみたところ、きみは屋敷に戻らないほうがいい。でないときみの婚約者はきっと婚約の解消を全力で阻止するよ。なんたって結婚は金だから」
「…………」
「それともきみが彼を捨てるのかな? 妥当な選択だけどね」
「……私はどうすれば……」
「どうせ考える時間はたっぷりある。時間は生殺与奪の権を握る者への特典だよ」
そう締めくくり、皿を重ねて台所へ持っていこうと立ち上がった。ジェイナも席を立とうとする。
「お皿洗いなら手伝います」
「今はいいよ、水につけておくから。それよりしばらく滞在するなら、きみにちゃんとした寝床を割り当てないと。先に二階の部屋に行っててくれる?」
「え? いえ、それにはおよびません。自分の服が戻ってきたら家に帰りますから」
アランは驚いたように振り返った。
「家に帰ってどうするの? ご両親に起こったことを説明する気? それとも何事もなかったかのようにふるまうのかい?」
「そ、れは……」
「どちらにしても、きみも、きみの情熱的な婚約者も傷ついたままになってしまうんじゃないかな」
答えられないと見るとアランは台所で片付けを始めた。その背中を一瞥し、ジェイナはすごすごと階段をのぼった。
二階の踊り場に到着し、ドアを開ける。
そこは光の溢れる書庫だった。本がたくさんあるのに、この部屋には大きな窓から陽の光が差し込んでいるのだ。あたたかな窓の下にはきちんと整えられたベッドがある。
うしろからアランが上がってきた。申し訳なさそうに眉尻が下がる。
「きついことを言ったみたいだ。ごめんね」
「いえ……。ほとんどアランさんの言うとおりなんです、セシルのことは」
「じゃあ、きみのことは?」
「私も婚約は解消したくありません。たとえ両親に事実を打ち明けたとしても、何もかもを終わらせたくはないんです。他人には理解できないでしょうけど……。でも私にはセシルとの長い思い出があるから、『裏切り者』という手早い言葉で彼を包んで捨ててしまうことは、できそうにありません」
「……そう。まあ、そうだよね。幼馴染なんだから。ちょっと僕は気が早かったみたいだ」
ジェイナはほほえみを返した。
「でも、家に帰るにしても、その前に両親を納得させる方法を考える時間が必要なのは確かです。それに私にはアランさんのような頭のいい方のお力が必要みたいですから……」
アランは後半を聞いておかしそうな笑みを浮かべると、書庫の中を指した。
「ここは僕の寝室なんだけど、下のソファと交換で貸すよ。夕食後ここにいるときは鍵をかけておいて。でも昼間きみがいないときに勝手に入って本を取っても文句は言わないでね」
「わかりました。お部屋はきれいに使わせていただきます」
「ならまずはシーツを替えないとね」
踊り場に置いてあるチェストが寝具入れだった。アランはそこからきれいに畳まれたシーツを出し、いたずらっぽくジェイナに手招きした。




