2.塔の隠者
塔の中は外観よりも狭かった。一階は小さめの調度品が所狭しと配置されている。吹き抜けになっている二階は半分が個室になっているらしくドアが一枚あり、踊り場から屋上への階段が続いている。明かりはあちこちに置いたり吊るしたりしてあるランタンがおぎなっている。
「手当ての道具を取ってくるから、怪我がないか見ておいて」
男性は踊り場の下にある戸口へ入っていった。ほどなくして井戸水を汲み上げる音が響いてくる。風呂場があるのだろう。
ジェイナは自分の体を見下ろして傷がないことを確認した。派手に転んだり走り回ったにしては運が良かったようだ。
靴を玄関ぎわに置き、改めて部屋を見回した。一人で暮らしているのだろう、戸棚の食器の数は少ない。食卓テーブルの椅子は二つあるが、片方は台所の方で荷物置きにされている。土間になっている実用的な台所はあまり使われている形跡がない。
「どうだった?」
男性は救急箱を持って戻ってきた。
「傷はありませんでした」
「そう、よかったね。お湯を作るから風呂に入るといい。僕の着替えしかないけど、その服を綺麗にするまで貸してあげる」
「お心遣い痛み入ります。お借りします」
「身構えなくていいよ、選べる状況にないんだから。でしょう?」
「そう……です」
青い目が細まって笑う。男性は救急箱を階段に置いて土間におり、かまどにやかんをかけた。
男性の顔立ちは整っていた。目元は切れ長で甘く、鼻は高すぎず、口元はちょうどいい形だ。少し癖のある茶色の髪がなめらかな頬にかかりそうになっている。大人っぽい雰囲気のせいか歳は二十前後にも、半ばにも見えた。
知らない男性と二人きりの状況なんて、あんなことが起こらなければ死んでも避けていただろう。
「座ってていいよ」
「っはい」
横顔を眺めていたのが見つかったのだろうか。振り返らずに言われてジェイナは驚いた。小さな食卓の一つしかない椅子に腰掛ける。
「あの、今のうちに名乗らせていただいていいでしょうか。私はジェイナ・リンゼンと申します。ルズバリー卿の長男であられるセシル様の……婚約者です」
彼は耳だけをこちらに向けていた。返答までに少し間が空く。
「複雑な説明をありがとう。僕はアラン。ルズバリー卿に雇われてる隠者だ」
「雇われてる隠者……?」
「普段はここで普通に生活して、雇い主が来たら知恵を貸すんだ。外のお客が来た時は岩に座って考え込んだり、書物を紐解いているように見せかける。役者みたいなものだよ。大体タダ飯を食ってるけどね」
「はあ……そんな職業があるんですね」
ジェイナは困惑した。セシルからこの隠者について聞いたことは一度もなかった。
「それで、名家の跡取り息子の婚約者さんはなぜここにいるの?」
柔らかな声にうながされ、ジェイナは答えた。
「……逃げてきたからです。セシルから……あの二人から」
「二人?」
アランは土間との段差に腰かける。
「今日はセシルを訪ねに来たんです。最近は毎週会っているから、今日も予定はないはずなのに、セシルは知らない女性と一緒で、二人はすごく……関係が深そうだったんです」
「おや」
「セシルは私の目の前であの人に寄りかかられても避けようともしなかったし、私に何も言ってくれなかった……。子どもの頃からの仲なのに、まるで他人みたいでした」
「仲が良かったんだね」
「はい。セシルとは夏の休暇で行く別荘地で毎年会っていたんです。小さい頃から友達で、そのまま恋人になって婚約しました。恋愛結婚ができるなんて幸運だって思ってました。でも、向こうは私に不満だったんでしょうね。私たちは……私は、何もしてあげなかったし、女として不足してたに違いありませんから」
「…………」
「……命も惜しくないと思って森に来てしまいました。何も気づかずに思い上がっていた自分が恥ずかしくて、嫌になって……」
胸の奥がわしづかみにされたように苦しくなる。
そのとき、やかんが湯気を立てて遠慮がちに笛を鳴らした。アランが立ち上がってかまどから取り上げる。
「でもきみは助けを求めて叫んだでしょう。きみは、自分は正当な幸せをかみしめていただけで咎はなく、罪深いのはいつでも裏切り者であると分かっていたんだよ。ただね、失恋したことは命を投げ出していい理由にはならない。それこそ思い上がりだよ。……と、隠者らしいことも言っておこう」
呆然とするジェイナにアランは微笑みかけた。
「まあ、風呂にしなよ。時間はあるでしょう? 今日は帰りたくないって感じだよ」
「…………」
「もちろん気が変わったらいつでも屋敷まで送ってあげる」
ジェイナはアランについていって戸口をのぞいた。台所以外の水場がこの一画に集中しているようだ。窮屈な風呂場には小さな湯船が収められている。アランが水に熱湯を混ぜて、ぬるめのお湯にしてくれた。
「着替えは棚の上に出しておいたよ。あとはお好きにどうぞ」
「ありがとうございます」
引き戸は内側からしか引き出せないので、ジェイナが戸を滑らせて閉めた。服を脱ぎ、体を縮めてお湯につかる。水面はすこし低く見えたが入ると肩口まで上がった。
今日はこんなことになる予定ではなかった。お茶とケーキをいただきながら結婚式やその後の生活の話をするのだとばかり思っていた。
アランはああ言ってくれたが、ジェイナは自分を責めた。やっぱり何も気づかなかった方がばかなのだ。自分だけでなくセシルの望みにも気を使ってあげるべきだった。たとえそれが自分の不得意なことでも、精一杯かなえてあげるべきだった。行動しないと愛は伝わらないのだから。
嗚咽は一度はじまるとなかなか止められなかった。お湯を温め直すのも忘れて何度も涙を洗い流し、ようやく湯船から出た頃には指がふやけていた。
生成りのシャツとズボンに着替え、スリッパを履いて居間に戻った。テーブルの椅子が二つになっている。アランが台所の鍋の前で振り返った。
「さっき夕食が来たよ。食べる?」
「とても食べられそうにありません」
「とりあえず座ってみたらいい。飲み物を出すよ」
夕食、と聞いて時刻を見ようと思ったが、見渡す限り部屋に時計はなかった。窓もないので空の暗さも分からない。風呂場の換気口も位置が高すぎて外が見えなかったので、そろそろ時間の感覚を失いそうだ。
アランは水の入ったグラスをテーブルに置いて台所へ戻った。ジェイナは椅子に座って尋ねる。
「いつも食事は運んでもらっていらっしゃるのですか?」
「そう、屋敷からね。朝昼夕に使いが来て必要なものを渡したり洗濯物を引き取ってもらったりしてる。そうそう、きみの服と靴も渡したよ。丁寧に扱うように言っておいたから心配しないで」
ジェイナが無事でいることが屋敷に伝わったということだ。それをどう思うかは向こうの問題だ。
「今日はここに泊めていただけるでしょうか?」
「もちろん。客間はないから、そこのソファを使っていいよ」
暖炉の前にある部屋にそぐわないほど大きいソファのことだ。少し古いがやわらかそうだ。
アランは鍋を火からおろした。中身を二枚の皿に盛り付けて持ってくる。
「野菜の煮込みみたいだ。見たらお腹が空くかもよ」
その言葉どおり、少量が上品に盛り付けられた皿を見ると、ジェイナはフォークを手に取りたい気分になった。
時間をかけて全て食べたあと、水をおかわりし、ようやく体の中が落ち着く。
「どうして私に親切になさるのですか?」
「そうだな……。傷ついた人を見過ごせないからかな」
アランは親しげな笑顔を見せた。
その夜、重々しい疲れとともにソファに横になったが、眠りはなかなか訪れてくれなかった。




