.炎
「は……?」
ドアを振り返ったセシルが硬直する。
アランはその隙に剣を叩き落として炎のほうへ蹴った。が、武器を奪われた当人はすでに戦意をなくしていた。
「なん、なんなんなんだよぉ……!?」
「油を撒かれたんだろう」
「なっ、放火だっていうのか!? なんで……?」
一階には窓がないため外の様子はわからない。だが耳をすませると全方位から勢いのある炎の音が聞こえる。この塔は炎に包囲されているのだ。
ジェイナは階段を駆け下りた。
「ジェイナ? 何をするの?」
「救急箱を取ってこなきゃ。確か洗面所の方でしょう?」
しかし戸を引くと、灰色の煙が飛び出してきて視界を覆った。驚いて後ずさったお陰で吸い込まずに済む。
よく見ると風呂場が燃えていた。換気窓から火種が投げ入れられたに違いない。
「ジェイナ、こっちへ」
「え、ええ……」
アランはジェイナの肩を抱えて階段下の上げ蓋へ向かった。セシルも後についてくる。途中で契約書をひろって巻きなおしながら。
「どうするんだよ!?」
「火に囲まれている以上、もうここを出る方法はないんだ。屋上から縄を垂らしたところであぶられるだけだろうしね。だから地下に避難して火がおさまるまで待つしかない」
「地下!? 危険じゃないのか……!?」
ジェイナが一番に地下へおろされた。アランは弟の前に立ちふさがる。
「話の続きだけど、結婚が金のためじゃないっていうなら証明しなよ」
「は!? なに?」
セシルの目が丸くなる。
「愛の証明だ。夢を手放してジェイナを自由にするんだ」
「……!」
握っている契約書を見おろす。そして兄を、階段をおりかけているジェイナを見つめる。
二人がセシルに向ける目はまるで他人だった。ギリ、と奥歯を噛む。
「……ちくしょう」
それを振り返らずに後ろへ放り捨てた。
アランはセシルを階段へ通すと、近くのランタンを持って最後におりた。
上げ蓋を閉じると地下室はほとんど闇となる。兄弟は一つきりの光源をたよりに物を積み重ねて上げ蓋を塞いだ。
重労働を終え二人は息をつく。
「ハァ……火から逃げるために火を頼りにするなんて悪魔の皮肉だ。というか、この部屋はなんなんだ?」
「ここは僕たちが生まれる前に雇われてた薬師の研究室だ。
君を殺せる毒で溢れかえってるよ」
セシルが兄を睨みつけたのがぼんやりと見えた。
三人はテーブルの下に身を隠すことにした。大の大人、特に男が二人も入ると距離をとる余裕もない。アランがジェイナとセシルのあいだの壁をつとめるしかなかった。
「アラン、怪我の手当をしないと」
「ん……そうだったね。忘れてたよ」
刃を握った両手は血まみれだったが、傷はさほど深くないようだ。ジェイナはテーブルの引き出しでハサミを見つけ、ワンピースの裾を長く切って両手に縛りつけた。一連の作業をセシルは横目で悔しそうに見ていた。
「……くっ。憎んだりしないよ」
「なに?」
「なんでもない! 黙って鼻の下伸ばしてろ!」
アランに気にするそぶりはなかった。これでも兄弟らしいたわむれなのだろう。だがジェイナは眉をひそめた。
「新しい意地悪を言う前に、まずさっきひどいことを言ったことについて謝ったらどうです?」
「んぐ……」
悔しさのあまり妙な声で唸った。口を錆びつかせたように開閉させる。
「ご、ごっ、ごゴメ――」
「いいんだよ、過去のことは」
「い、言わせろよ……ッ」
アランが笑ってその肩に腕を回した。もう片方の腕でジェイナの腰を抱く。
「昔のセシルは腰抜けだった。家に年上の女の子を連れてきたとき、デートするのかと思ったら僕に相手をさせて、自分は見ているだけだったことがあった。事故があったらイヤだとか、何かあったとき責任を追及されたくないとかって駄々をこねてね。僕が断ろうとしたら、年上の男を連れてきて僕の母親をデートさせるぞって言ったんだ。今だから言うけど、あんな子どもが言葉の意味を本当に理解しているとは思えなかったよ」
クスクス笑うアランをセシルもジェイナも凝視した。
「……なんてこと言うんだよ……」
「アハハ……。ロウソクの火を見ていたら何もかもさらけ出したくなっちゃって。この際だから嘘をつくのはもうやめるよ。それで、その数年後は――」
「ちょ、ちょっ、おい!」
制止は無視された。
「その数年後は、僕に女の子を誘わせるようになった。世間は僕を遊び人あつかいしたよ、その正体は弟が投げた釣り針にすぎないのにね。……もちろん、完全に潔白ではないさ。僕は不潔な男だよ」
ジェイナはアランの胸に震える手を置いた。
「あなたはお母様を守るためにそうするしかなかったの。そうでしょう? 自分をけなすのはやめて」
「そう言ってくれるの、ジェイナ? たしかに僕はけがれたくてそうしたことなんて一度もないよ。でも……分かるよね。男の言い訳には何の意味もないって。だから僕に期待しないほうがいいよ」
「いやよ……今さら気持ちを試さないで。あなたを諦めさせようとしても無駄なんだから」
「ジェイナ……」
恋人たちは身を寄せあった。セシルがじっとりとした視線を注ぐのも構わずに。
「なるほど。そりゃぼくを悪者にしたいわけだ。言っとくけど、婚約はまだ正式には解消されてないからな」
アランの口づけがジェイナの額に落ちた。
さすがに身を乗り出す。
「おい貴様っ、未来なんかないのにこの先どうする気だ? この塔が使い込んだ焼き窯みたいになっても彼女と住むつもりじゃないだろうな? そんなことしたら本気で許さないぞ」
「僕もそんな未来はごめんだ。きっと灰から生まれ変わってみせるさ」
「は……?」
天井から大きな物音がしてそれどころではなくなった。
風呂場の火が燃え広がっているのだろう、上げ蓋の様子を見ると、遮蔽物の隙間に赤い光が現れ始めている。
「……まだ最後の隠れ場所がある。こっちだ」
アランはジェイナにカンテラを持たせると、部屋の隅にある戸棚へ向かった。それを横にずらそうと引っ張りはじめる。意図を察してセシルも力を貸す。
隠されていたのはこれも上げ蓋だった。
「この収納には薬師が隠した危険な廃棄物がまだ残ってて、一部は気化しているみたいなんだ。いい? 中に入るまで息を止めておいて、中では空気を直接吸い込まないようにね」
ジェイナとセシルは無言で頷いた。
まずジェイナが最初に中へ入った。人ひとりがやっと通れる大きさの入り口に短いはしごがかかっている。中は少しひんやりとしている。
下でランタンを受け取り、次はアラン、最後にセシルが入り蓋をおろした。
よくない空気を避けるため、三人は棚に挟まれている狭い通路にしゃがんだ。棚にはほとんど物がなかったが、何か置いてあると思えば、変な色の物体がこびりついてしまった試験管や、一部が泡立ってしまったビーカーなど、尋常ではないものばかりだ。
ジェイナはブラウスの袖で鼻と口を覆った。それでも薬っぽいにおいを感じた。
「大丈夫?」
「ええ……」
アランには頷いて見せたが、だんだんと頭痛が脈打ち始めていた。記憶をたどろうとすると起こるあの小さな痛みだ。一呼吸するたびに痛みが増していく。
ふと、この薬のようなにおいには覚えがあると気づいた。しかしどこで知ったのかがわからない。飲み物だったような気もする――。
「ジェイナ?」
とてつもない眠気とともに目の前が暗くなった。
肩を揺すられている。まぶたを開けられない。
光が、影が、ちかちかとまたたく。




