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 .無謀

 たおやかな字が罫線に沿って丁寧にならんでいる。手紙は誠実かつ正直に、婚約者との婚約を解消したい旨を書き綴っていた。

 老人はもういちど封筒を見た。銀色の封蝋には見覚えのある印璽が押されている。しかし老人の記憶に新しい紋様とは少し違い、丸い枠線の一部が欠けており小さなひびが入っている。

 老人は便箋を封筒に戻して握りつぶした。

「燃やしてくれ」

 机の上に投げ捨てられた手紙を執事が拾い上げた。冷淡な目がふと主人の杖へ向く。

 老人は愛用の杖の柄に両手を置き、人差し指で拍を刻んでいた。思案の際の癖だ。

 視線をたどると窓をながめていた。森のあるほうだ。執事もそこにたなびく白い煙を見た。

「もう、潮時だな」


   *


 昼前だというのにドアが激しく叩かれた。聞き覚えのあるリズムだ。

 ジェイナはアランに指されたとおり二階へ上がった。今回もドアをわずかに開けておく。

 玄関が開かれたとたんセシルのわめき声が響いた。

「婚約解消ってどういうことだよぉ!!」

「……僕と君の婚約じゃないんだけど?」

「分かってるよッ! 彼女を出せよ早くっ!」

 セシルが強行突破しようとしたのだろう。静かな攻防の気配。

「泣き落としは効かないと思うよ。君は信頼を失ったんだ、完全にね」

「なんでだよぉーっ!」

 もうほとんど泣いている。

 アランは大きなため息をついた。

「屋敷にいたころはさ、君は困るとすぐ僕に甘えていたよね。普段は僕を足蹴にして顎で使うくせに、そういう時だけかわいい弟のふりをするんだ。で、僕は嫌々ながら君を助けてあげていた。どうしてか知ってた? 君に優しくしてあげないと、僕は何もかも失うことになるからだよ。名前を剥ぎ取られて家から追い出され、路頭を迷い、運良く職につけるかもしれないけど、細々とした生活を送りながら皆を恨んで老いていく。それって生きていると言える? それよりも僕は君に寄生して生きながらえることを選んだわけだ。形は違うけど今もそう、屋敷から生かしてもらっている。ここから出ていくことなんていつでもできたのに、どうしてそうすることにしたか分かる? いつか君に仕返しするためだよ」

「……あ?」

 セシルがどんな顔なのかはわからない。しかし二人は睨み合っていることだろう。

「弟よ、彼女との婚約解消を甘んじて受け入れるんだ。しかし死んでもそれはできないというなら、僕はここを通そう。彼女が慈悲を与えてくれるかもしれないからね」

 長い沈黙があった。

「……わかっ、た。貴様の顔を見ながらこんなこと言うなんて吐き気がするし死んだほうがマシだし屈辱だ。が、言う。ぼくは彼女との婚約を解消しなきゃいけなくなるくらいなら死ぬ。この場で死ぬ」

「剣に誓え」

 アランの声は笑んでいた。

「……この剣に誓う」

「いいだろう。さぁどうぞ」

 玄関が閉められた。セシルは足音を立てなかったため、声がするまで入ってきたと気づかなかった。

「ジェイナ、そこにいるの? ぼくは君との婚約を解消したくない。そうするくらいなら死を選ぶと誓いを立てたよ。だからどうかもういちど顔を見せてくれないか?」

 もういちど、ということは以前会ったことがあるのだ。その時にあの荒々しい本性を見抜けていれば、顔も知らない彼に失望することもなければ、彼と婚約して自分の格を下げることもなかったのに。

 ジェイナは億劫ながら踊り場へ出た。

 一階を見おろす目は冷たかったがセシルは顔をほころばせた。一歩前に出ようとした肩をアランが押さえる。

「あぁ、ジェイナ。元気そうだ。すごく怒らせてしまったからずっと心配だったんだ。こんなところで生活するのは不便だろうし……。それに一度会いに来てくれたっていうのに、ぼくは出かけてしまっていたし。ぼくは間が悪いよね、本当。でも自分が全く誠実じゃなかったことは分かってる。間違ったことをして君を……いや、僕が決めつけていいことじゃないよね。とにかく本当にひどいことをした。でも、ぼくは、これだけは信じてほしいんだけど、ぼくはずっと君のことだけが好きなんだ。君以外に何でも話せる頼れる人はいないんだ。君は最高の友達で、恋人だと思ってる。君は運命の人だと思うよ。だからお願いだ。僕の太陽……戻ってきてください」

 腰を直角にまで曲げて頭を下げた。

 だが、ジェイナは首を横に振る。

「ごめんなさい。あなたの言うことにまったく実感が湧かないんです」

「そ……そんなこと言わないでくれよ」

 おもむろに上げられた顔面に焦りが浮かんでいる。

「ぼくたちのあいだにこんな大きな問題があったことってこれが初めてだけど、ぼくたちは小さい頃から仲良しだったじゃないか。今さらそんな冷たくされても信じられないよ……!」

「小さい頃から……? 私達、どこで出会ったんですか?」

「え!? 別荘地だよ! 毎年夏に君もぼくの家も行く場所さ! そこで出会って今に至るんじゃないか!」

「夏に? あなたと……?」

 頭痛がする。片手でその部分を押さえて顔をしかめる。

 その姿がセシルの不安をさらにあおるとも知らず。

「もちろん一緒に遊ぶ友達は他にもいたよ。ぼくら公認の仲だったじゃない! どうしたんだよ急に!?」

「……たしかに友達たちとは、一緒に海に行ったり、パーティを開いたりしました」

「そう!」

「でも、あなたは……そこにいましたか?」

 セシルの体が揺れた。倒れかけて後ろにたたらを踏む。乾いた笑いを上げるのも、ジェイナにはわざとらしい態度に見えた。

「ア、ハハ。怖いこと言わないでくれよ」

「…………」

「……ねぇ、君はぼくの夢を応援してくれるって言ったよね? 結婚したら一緒に仕事をしようって。そのために大事な書類に署名してくれたじゃない」

 そうささやくと、懐から一本の巻物を出した。

 ジェイナは目を疑った。高級紙をリボンでくくっている。金銭に関わる契約をする時に用いられる形式だ。

「私があなたとお金に関する契約をしたんですか……?」

「ぼくたちにとってすごく重大な決定だったよね? もしかしたら婚約よりも長く話し合ったかもしれない」

「そ、そんな……知りません。覚えていません」

「ここに名前があるんだ……! ほら!」

 契約書を広げて掲げてくる。

 とっさにアランに視線で助けを求める。彼は弟を一瞥して小さく首を振った。

 ジェイナは一度目を閉じて息をついた。

「もういい加減にしてください。あなたの目的は私の持参金で、私自身じゃないということはよくわかりました。それに婚約を解消するつもりだと知っているということは、私が家へ送るつもりだった手紙を読んだのですね? 人の手紙を勝手に読むなんて卑怯で最低な行為です。あなたの言うことは一つも信じられません」

 さすがにセシルは口を閉じた。

 しばし愕然と目を見開いていた。力を失った手から契約書がすべり落ちる。突然、腰の片手剣の柄を逆手につかみ、切っ先を己へ向けた。

 その刃をアランの素手が握りしめる。

「あっ……!」

 刀身に一筋、二筋と血が流れる。ジェイナは恐怖のあまり手すりをつかんだ。

 アランとセシルは睨みあった。互いに苦痛で、絶望で、顔を歪めている。やがてセシルが拮抗をやぶってアランを押しのけた。

「貴様が彼女になにかしたんだろう!? こんなのはおかしい! 公平じゃないッ!」

「君が他人に公平だった時があったか?」

「このッ……雑種がぁ!」

 怒声を叩きつけ、剣を順手に持ち直す。

「思い上がるなよ! 貴様がいくら卑劣な手を彼女に使おうが、ぼくがその気になればすぐに取り戻――」

 ボォ、と悪魔の吐息のような低音が塔を取り囲む。

「アラン!」

 ジェイナは玄関のドアを指した。隙間から炎が舌を伸ばしていたのだ。

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