1.裏切り
婚約者は執事に呼ばれてやっと出迎えに来たが、様子が変だった。階段をバタバタと駆けおりながら衣服の乱れを整えていたのだ。
「やぁごめんよジェイナ。来てくれるって分かっていたんだけど、どうしても片付かない用事があったものだから……」
言い訳じみていたがジェイナは好意的に聞き取った。
「いいのよ、セシル。間近に二つも大きな用事が控えているんだもの。もうひとつのほうは約束どおりだけど、式場の準備はあなたのお家におまかせしきりで申し訳ないわね」
「君のご両親には何かと手伝ってもらっているから平気だよ。それより、君はドレスの担当を頼むよ」
「ええ、おまかせください。どんな花嫁もとびっきり美しく仕立てますわ」
笑顔を見合わてくれたセシルにもう問題はないように見えた。
しかし、階段の上の角から見知らぬ少女が顔を覗かせ、猫のような目と目が合ってしまうと、ジェイナは笑顔ではいられなくなった。セシルが視線を追ってうしろを振り返る。
「なッ……」
その声を上ずらせた。
女が全身をあらわす。襟の高いドレスを着ているが、胸の驚くほどの豊かさはむしろ強調されている。
「ご、ごきげんよう……?」
ジェイナは麦わらの帽子を胸に抱えた。今日は気軽な訪問のつもりだった。
女は脚を交差させながら階段をおりてくると、セシルの肩に蛇のように両腕を絡めた。
「ごきげんよう、お姉さま」
「……こ、こ、これは、その」
婚約者に女がしなだれかかっている。婚約者は青い顔だがそれを振り払わない。
何を意味するのか、わかりたくなかった。
乾いた口がかろうじで言葉を紡ぐ。
「どう、して……?」
しかし、セシルは無意味に手を上げ下げするだけで、もう言い訳すらしてくれなかった。
ジェイナはその場に背を向けて走った。玄関ドアを押しのけ、眩しいほど明るい初夏の丘に飛び出す。陽気が不快だ。
「待って! ジェイナ!」
かかとの低い靴といえど足は早くない。だが声は追いついてくれない。
――そういうこと、なんだ。
頭が氷水のように冴えわたり、ジェイナは森を目指した。
そこならしばらく顔を合わせずに済むだろうから。
『この森には恐ろしい獣がいるんだ』
セシルはそう言って森に近づきたがらなかった。どんな獣なのかと尋ねても、口をつぐんで教えてすらくれなかった。
それほど恐れているのなら、簡単に探しにはこないだろう。
獣が実在すれば、だが。
森の緑は色濃く、小鳥の声は軽やかだ。とてもじゃないが猛獣が住んでいる雰囲気ではない。
ジェイナは意地で奥へ進んだ。
しだいに、麻痺が治まるように冷静さが失われていった。
あの女のこちらをみくびった目。いやらしい手つき。餌をねだる猫のような甘えた声……。
怒り以上におぞましさを覚えた。あの女の何もかもがジェイナには受け入れがたい。それに、その女を振り払わなかったセシルのことも、もうわからなかった。
身震いする自分を強く抱きしめる。足がすくんでしまい動かなくなる。
そんな弱々しい自分が衝撃的で、涙がこぼれた。
「……どうしてなの、セシル……」
唇を噛んだが震えが止まらない。リボンの前後も確認せず麦わら帽子に金髪の頭を押し込む。
涙を止めなければ。ジェイナは七分袖で目元をぬぐい、また歩き出した。視界がまだぼやけている。そのせいで足元の突き出ている木の根に気づかず、つまづいて前のめりに転んだ。
「あっ」
とっさに地面に突いた手のひらに石が食い込む。怪我はないが、鈍い痛みに耐えかねてへたり込んでしまった。
ワンピースは土まみれになり、片方の靴のストラップは千切れていた。さんざん走って負荷をかけた上に転んだせいで縫い目が切れたのだ。おろしたての靴だったのに。
ジェイナはそばの木の足元に這い寄って腰を下ろした。もともと一人になるために森に来たのだから、ちょうどいい機会だ。
重だるいまぶたを閉じると思い出が去来した。
ジェイナとセシルは長い付き合いだ。小さい頃から互いを知っていたから、恋人同士になっても自然な関係のままでいられていた。一方、幼少期を知っているからこそ気恥ずかしくて大人びた関係に発展できずにいた。結婚生活が始まったら自然とそういう流れにもなるだろうから焦らなくてもいいだろうと思っていた。少なくとも、ジェイナの方は。
……気がつくとあたりは少し暗くなっていた。きっと森の日暮れは早いだろう。失踪したと騒がれる前に帰ろうと立ち上がる。
だが、来た道を振り返って愕然とした。
まるで道の区別がつかないのだ。歩いていた時は色んな特徴があるように思えたのに、今は前後左右すべてがほとんど同じ景色に見える。
印をつけずに知らない森を歩くなんて、なんてばかなことをしたのだろう。体の向きから来た方向を推測したが、少し歩いてみると自信がなくなってしまった。
知らん顔の木々の間で立ちすくむ。
そのとき、不意に背後から音がした。
人間ではない、もっと俊敏な生き物の足音だ。振り返ると、木の陰から野犬が鋭い目でこちらを見ていた。
「……!」
体格のいい野犬だ。唸り声を上げてきたので後ずさってみたが、野犬はさらに歯を剥いて追ってくる。
どうすればいいか分からなくなり、ジェイナは恐怖に負けて早歩きになり、やがて走り出してしまった。
野犬は素早く追いかけてきた。ジェイナは足に引っかかっていた片方の靴が脱げても必死に走った。しかし限界が近かった。
「助けて……! 誰かっ、助けて!」
あえぐように叫んだそのとき、むせかえるような臭いが鼻を刺した。酸っぱさと煙たさが入り混じった、自然のものではない臭いだ。
同じようにそれを嗅いだ野犬がとつぜん急停止する。威嚇の声を上げるが、悔しそうに足踏みをするだけだ。その何かを恐れる様子にジェイナは目を瞠った。
『恐ろしい獣がいるんだ』
臭いが漂ってくる前方に目を凝らす。
足音がする。次は大きい。
長身の影が木々の間から現れた。獣ではない。
男だ。しかし化け物でもない。ただの人間の、男性だ。
その男性は修道士風の灰色のローブ姿で、袖まくりをしており、手袋をはめた手に陶器の水筒を提げていた。細いがしっかりした背格好から若者だと分かる。
彼はジェイナに目をとめると皮肉っぽい苦笑を浮かべた。
「いかにも『助けを呼びました』って感じだね。いいよ、こっち側へおいで」
そう言うと、枝を拾ってジェイナとの間に仕切りを作って手招きした。よく見ると彼が示した境界線のあたりは濡れている。臭いの元はそこだ。
ジェイナは枝を大きくまたいで男性の側へ入った。野犬はすっかり尻尾を丸めている。やがて悔しそうに唸ると、すごすごと引き返していった。
安心して思わず息をついてしまったので、吸う前に手で鼻を覆った。男性が小さく笑ってその場からジェイナを連れ出す。
「これね、木酢液なんだ。野犬が出て困るから作ってみたんだよ」
その手に持っている水筒を見せる。臭いから十分離れたところでジェイナはやっと口を開いた。
「お陰で助かりました。本当にありがとうございます」
「まだ礼を言うには早いんじゃない? 服を貸してあげるからついておいで」
男性は前を歩いた。ジェイナがついてくることが当たり前かのようだ。実際、堂々とした振る舞いには不思議と安心感があった。それに彼の言うとおり、靴は片方しかなく、タイツも所々破けているので、素直に助けてもらったほうが賢明だった。
案内された先には小さな円塔が建っていた。
蔦の這っている壁は古びているが、ドアの前には草が生えていない。毎日のように人が出入りしている証拠だ。
男性は細いアーチ型のドアをくぐり、中から声をかける。
「どうぞ、お嬢さん」
「おじゃまします……」
ジェイナは初めてドレスから土を払い落とした。もう片方の靴からも土を落とそうとしたが、手のつけようがない有り様だったので諦め、そちらは脱いで塔へ入った。




