屋上にいた先客。
どこで聞いたのかは覚えていない、廃れたビル━━━所謂【自殺スポット】に、僕は足を運んでいた。
今日、僕はここから飛び下りる。
何度も何度も下見に行った。
遺書も書いた。
壊した屋上への扉の鍵。
穴を開けたフェンス。
準備万端だ。
大丈夫、きっとここからなら痛みもなく死ねる。
深呼吸をして、屋上に踏み込む。
腹立たしいほどに澄み渡った空。
錆び付いたフェンス。
そして、その外側にいる一人の女の人。
こんなところで人を見たことがなかった僕は、「な、にしてるんですか?」と思わず声をかけた。
その女の人は長い黒髪を揺らして振り返り、一瞬だけ驚いた素振りを見せた後、大きなガーゼで覆われた顔でおっとりと笑った。
「死にに来たんだよ」と。
よく見ると彼女が着ている灰色のパーカーには所々血が滲んでいて、細い腕には包帯が巻かれていた。
素人目にも解る。
飛び下りるまでもなく、このままだと死んでしまう。
僕がよっぽどの顔をしていたのか、その女の人は眉毛をハの字にして苦笑する。
「大丈夫。こんなの慣れっこだから」なんて言って。
「ねぇ、こんな日にこんなところにいるってことは、君も死にに来たんでしょ?君はどうして死のうと思ったの?」
「どうして、って………」
改めてそう聞かれると困る。
そもそものきっかけは何だったんだろう。
思い出せないということは、よつぽど些細なことだったんだろうか。
それとも、思い出すのも辛いことなのだろうか。
それをありのまま女の人に伝えようとして「貴方はどうしてですか?」と問いかけた。
「お母さんとお父さんにね、虐待されてるの。毎日毎日殴られて、怒鳴られて、まともな料理なんて作ってもらえなくて。そんな毎日が嫌になったから、もう死んじゃおうと思って」
女の人の言葉を聞いて、思わず僕は絶句する。
僕は家族には恵まれていた方だし、【虐待】何て言葉は別世界のものような気がしていた。
でも目の前にいる僕と同い年くらいのこの人は、確かにそれを受けているんだ。
きっと毎日苦しんでいるんだ。
そう思うと、途端に自分のことが恥ずかしくなってきた。
家族にも友達にも恵まれたのに、思い出せもしない些細なことがきっかけで死のうとしている。
辛いことが重なっただけで、逃げ出そうとしている。
この人は血だらけになるまで我慢していたのに。
僕は何て弱いんだろう。
何も言えなくなって、足元を見て黙ってしまう。
すると、女の人は明るい声で「でも、やっぱり止めることにしたよ」と笑った。
顔を上げて見えたのは、これから死のうと思っていた人のものとは思えないほどに輝かしい笑顔だった。
「やっぱり怖いもん。高いところから飛び下りるなんて。やっぱり私って弱虫なんだね」
「弱虫?」
「そう、弱虫。最初は線路に飛び出そうと思った。でも、電車が止まったら迷惑かかるかなー、と思って止めた。それに、あんな速度で鉄の塊が迫ってくるのって怖いもん。次に考えたのは首吊り。でもそれも止めた。苦しみながら死にたくないからね。そうやって何度も何度も考えてここに来たけど━━━また私は怖くなった。何だったら君も来てみる?」
公園にでも誘うようなその声色に、僕は現実味を感じられないままフェンスを潜る。
そうして、狭い狭い足場になんとか立って、ふと足元を見る。
その瞬間、僕は自分の体が震えるのが解った。
横を通るとあれだけ大きいと感じるトラックも、いつも見上げる
コンビニの看板も、僕の横を通りすぎる知らない人たちも、全部がミニチュアみたいに見えた。
それだけ、僕は高い場所にいる。
何度も下見をした。
でも僕は一度だって、フェンスを潜ろうとはしなかった。
それは案外、心のどこかでこうなることが解っていたからなのかもしれない。
一度下を見てしまえば、金縛りに遭ったかのように体が動かなくなってしまうことが。
「私ね、君が来るまで考えてたんだ。もしもここから飛び下りたらどうなるだろう、って。景色がずっと早く流れていって、走馬灯?ってものも頭の中を駆け巡って。でも、そういう時に限って楽しい思い出ばっかりを思い出すの。そして全部が終わりそうになって「死にたくないなぁ」って思う。「あぁ、何でこんなことしちゃったんだろう」「もうちょっと頑張ればよかった」「もうちょっとこの苦しみの中で足掻けばよかった」。「そうすれば、もしかしたら良いことがあったかも知れなかったのに」って」
女の人の話には、その佇まいとは相反して妙に現実味があって、自然と後退りをしていた。
そんな僕の様子を見て女の人は嬉しそうに笑う。
正面だけを見据えていた瞳を僕に向けて、冷たい両手で僕の手を握りしめる。
「もしも君が今の話を聞いて怖いって思ったなら、もう帰った方がいいよ。今ならきっとやり直せるから。死ぬのはいつだって出来るけど、今を生きることは今しかできないことだから。君が後悔をしないように、よく考えて」
数分間━━━あるいは数時間くらい、僕はその人の瞳を見つめていた気がした。
脳内に今までの人生が過る。
四歳の誕生日、家族とケーキを作ったこと。
小学生の運動会の競技で一位をとったこと。
中学生になって、憧れていた高校に合格したこと。
僕の人生には辛いこともあった。
でも、同じくらい嬉しかったことや、楽しかったことがあった。
すっかり忘れていたけど、あの時は確かに生きていれることに感謝をしていた。
そんなことを思い出した今死んでしまったら、僕はきっと後悔をする。
外の景色に背を向けて、フェンスの穴を潜り直す。
僕を引き留めてくれた女の人にお礼を言いたくて振り返っても、そこには何もなかった。
最初から何も存在しなかったかのように、空の青が広がっているだけだ。
僕には不思議と恐怖も、驚きもなかった。
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あの日から何年か経った。
僕が死のうとしたことが夢だったみたいに、当たり前の日常が続いている。
でも、今までと違ったことが一つだけある。
僕は今でも例の廃れたビルに通っている。
毎日ではなく、一ヶ月に一度ほど。
訪ねる度、僕はフェンスの穴の横に花を添えている。
もう十年以上も前に虐待に耐えかねてここで死んでしまった一人の女子高校生に向けて。
あの日見た人がその女性なのか、あるいは僕が造り出した現像なのかは解らない。
それでも、それで良いと思った。
僕は確かにその人に救われたんだ。
これから先も、僕は何度も辛い目に遭うだろう。
何度も死にたいと思うだろう。
そしてその度にあの日のことを思い出すのだ。
あの日出会った、屋上にいた先客のことを。