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【アクション学園ミステリー】鬼御するもの、その透徹なる瞳を  作者: 来栖らいか
第三章  覚悟の行方
7/17

〔1〕

 相馬祐介は、咥えていたタバコを車の窓から投げ捨てようとして思いとどまった。公安職員である身で、法と秩序と道徳を犯してはならない。

 心中に建て前を呟きながら、本音は違うところにあった。

 車外に捨てたタバコ一本が、自分の全てを明らかにする。刑事という職業柄、愚行を犯すわけにはいかないのだ。つまり、この場所にいたことが上司に露見したら、言い訳に困るからだった。

 土曜日だが午前中に県警本部で書類仕事を済まし、事件があった所轄署に向かう途中、急に思い立った。

 県道から別れて、なだらかな一本道の上り坂を時速五〇キロで約5分。切り立つ崖を背面に有した頂にある、鬼龍の屋敷を見てみたいと思ったのだ。

 仰々しい門構えの前に外来者用駐車スペース、道の両脇はケヤキの林。時代劇に出てきそうな、高い石垣と土塀。黒服の警備員。敷地面積は七千坪以上というから、「港の見える丘公園」半分くらいの広さか。

 警備員の死角になるように車を止めたが、県道からの入り口にあるコンビニ店員によると、一時間に一度は黒いメルセデスのVクラスが巡回しているらしい。道を間違えたという言い訳は、一度くらいなら信用してもらえるだろうか? 身分証の提示を求められたら面倒だ。

 しかし何故、自分はここにいるのだろう。

 鬼龍家は、謎の多い組織だ。その謎に、少しでも近付きたかったが……。

「金持ちの名家と言うより、暴力団幹部の屋敷だな」

 屋敷の外観を見ただけで、きな臭い組織だと感じた。刑事の感で、暴力の匂いを嗅ぎ取った。

 当主の鬼龍将隆とは、いったい、どのような人物なのだろう。

 古い任侠映画に登場する、ゴツイ体格で頬傷をもつ昔気質のヤクザタイプか? いや、昨今のヤクザは大学出のインテリだから、海外ブランドスーツの似合う銀縁眼鏡かもしれない。

 いずれにせよ、相手の容貌を詮索しても仕方なかった。鎧塚と名乗った、組織内部の人間から情報を引き出す方が有効だ。

 今日のところは、屋敷を見ただけで良しとしよう。

 相馬は署に戻るため車のエンジンを掛けようとして、ふと、その手を止めた。

 甲高い、エグゾーストノイズが近付いてくる。2ストローク・エンジンのバイクだ。

 傷を覚悟で車体をケヤキ林に突っ込んであるが、気付かずに通り過ぎてはくれないだろう。

 案の定、メタルブラックに深紅のラインがデザインされたフルカウル・バイクが、車の鼻先に停止した。かつて相馬が憧れた、ヨーロッパ・ブランドの中型バイクだ。

 ライダーは、革のジャケットを腰で結び、Tシャツにジーンズ、ショートブーツの軽装だった。体格から見て、まだ少年だ。バイクとはいえ、高級外車を乗り回すとは生意気である。

 少年はバイクを降りてメットを外し、車に向かって歩いてきた。

 初夏の昼下がり、まだ優しさのある日差しをうけて金色に見える真っ直ぐな髪、冷たい印象の琥珀色の瞳、細面だが男性らしい骨格の整った顔立ち。どこか、人間離れした雰囲気を持つ少年だ。

 相馬は覚悟を決め、運転席の窓を下げて顔を出した。

「や、こんにちは!」

 警戒を解くため親しみを込めて笑顔を作り、先に挨拶をした。しかし少年は、醒めた目を相馬に向ける。

「ここで、何をしている? 道に迷ったとでも、言うつもり?」

 少年の視線は、運転席にある最新モデルのカーナビを捉えていた。

「先制攻撃くらったら、降参するしかないなぁ。正直に言うよ、実は最近知り合った友人に会いに来たんだ。そこの屋敷で仕事してると聞いたんだけど、正面から訪ねるには敷居が高くてね……帰ろうと思っていた所さ」

「友人?」

「そう、迷惑になると悪いから名前を出さないけど、君ぐらいの年頃の、生真面目で融通の利かなそうな高校生」

 個人名は、あえて出さずに反応を窺う。この少年の素性は解らないが、鬼龍家で働く鎧塚を知っていれば話しやすい。

 すると少年の端正な顔に、僅かな変化があった。戸惑うような、不思議な微笑。

「そいつ、心当たりがあるよ」

 どうやら、近い関係にいるらしい。用心深く相馬は、もう少し探りを入れてみることにした。

「良いバイクだね、日本限定モデルのドカティでしょ? 発売当初、俺も欲しかったんだけど手が届かなかったんだ」

「国内メーカーの中型2ストで、気に入ったのがなかった。こいつ、加速は良いけど力不足なんだよ。限定解除に年齢制限があるから、仕方ないけどね」

 限定解除免許が取れないなら、十六、十七歳ということか。

「もしかして君は、鬼龍家当主である鬼龍将隆氏のご子息かい?」

 質問した途端、少年は呆気にとられた顔で相馬を見つめた。そして笑いをかみ殺しながら首を振る。

「違うよ」

 何か、おかしなことを言っただろうか? 「当主」や「ご子息」といった言葉が、古くさくて笑われた?

 とにかく、少しでも情報が欲しい。

 話を繋げるため、相馬は話題を探した。いっそ単刀直入に、名前と素性を聞いてみるか? 鎧塚の名を、出してみようか?

「勝手な思い込みして、悪かったね。俺は……」

 名を尋ねるため、相馬が自ら名乗ろうとした時。制するように、少年の人差し指が眉間に突きつけられた。

 不覚にも、震撼した。息が、詰まった。

「……正門の前だ、五分で出られる。……応援はいらない、二人で十分……ああ、余計だな、隔離だけでいい。……了解だ」

 少年は、ヘルメットに取り付けられたインカム相手に話していた。会話が終わり、突きつけられた指先が目の前から消える。呼吸を取り戻した相馬は車のドアを開け、少年の前に立った。

 余裕を失い、怒りが込み上げていた。重要な話だとしても、あの態度は傲岸不遜だ。

「君、今の態度は不愉快だな」

 声を抑えて詰め寄ると、少年はヘルメットを被ろうとした手を止め、愉快そうに笑った。

「私有地に無断駐車して、屋敷を覗き見してた不審者に言われるのは心外ですが?」

「うっ……」

「あなた面白い人だね、相馬刑事。次に、ご友人を訪ねるときはコソコソせず、正門からどうぞ」

「え? あれ? なんで君、俺の名前……!」

 キックスタートで、エンジンが唸りを上げた。

 答えの無いまま正門に消える少年のバイクを、相馬は呆然と見送るしかなかった。

 車に戻り、ぐったりと運転席のシートに身体を沈める。ほんの短い時間なのに、容疑者取り調べ丸一日分の疲労感だ。

「なんなんだ、いったい……」

 シャツの胸ポケットを探り、タバコを取り出した。名前も素性も、知られている。いまさら身元を隠しても無駄だろうと、ぼんやり考えた。

 ライターを探し、助手席に置いた上着を掴み上げる。すると、上着の下になっていた携帯電話が震えていた。億劫な手つきで、取り上げた。

「はい、相馬でーす。あ、班長! 今、いるところですか? いや、仕事と言うよりは……個人的に調べたいことがありまして。はい、はい……えっ!」

 電話の相手が変わり、相馬の全身に緊張が走った。

 堀川刑事部長本人が、重大な事件を伝えてきたからだ。しかも、それは、相馬の疑問に答えを出してくれるかもしれない内容だった。

「了解しました……すぐに現場に向かいます」

 鬼が出た。携帯電話の向こう、堀川は確かに、そう言った。

 横浜山下公園で、若い女性が突然現れた大男に頸を噛みちぎられた。

 大男は山下埠頭方面に逃走したため、非常線を張って捜索中。目撃者によると女性は、恋人か友人らしい男性と連れ立っていたが、一緒にいたはずの男性は逃げたらしく行方が解らない。

「女の頸を噛みちぎるなんて、人間の仕業とは思えないが……鬼とはね」

 現場には、機動隊と捜査一課第三班が赴いているという。

 相馬は、二件の女子高校生不審死を捜査している第一班所属だ。報告は受けても、出動要請は掛からないはずだった。

 しかし堀川は「一班が捜査中の事件と関係がある。班長と一緒に現場へ行け。他の捜査員には知らせるな。いいか、口外無用だ」と、硬い口調で命令したのだ。

 死体発見当初から、謎が多い事件だった。

 堀川は、山下埠頭に逃げ込んだ犯人が解決の糸口だと示唆している。

 現場に、何かがある。

 車のエンジンを掛け、アクセルを踏んだ。路肩の奥から砂利を跳ね飛ばしながら車道に出た時、ドアミラーに映る屋敷の正門が開くのが見えた。

 現れたのは、黒のメルセデスVクラスが一台。先ほどの少年の知らせで、相馬を調べに来たのだろうか?

 ところが黒のメルセデスは、警戒する相馬の目の前を、凄まじい早さで走り抜けていった。スモークガラスで、中は見えない。

「どういうことだ? まったく、訳がわからん!」

 訳はわからないが、何かが起きていることは解った。その渦中に、相馬自身も巻き込まれようとしている。

 未知の領域に足を踏み入れる恐れと、求知心からくる高揚感。

 県道に出るなり赤色灯を掲げ、相馬は車のスピードを上げた。



 ◇


 夕暮れ近い土曜日の山下公園は、港の夜景目当てに多くの人々が訪れる。

 相馬は赤色灯を取り囲んだ野次馬を押し退け、事件発生現場保存のため配備された警官に状況を聞いた。

 被害者の女性は既に救急車で搬送されていたが、助かる見込みは無いらしい。

「被害者の近くに観光旅行中の夫婦がいたんですけど、目撃情報が信憑性に欠けるんですよ。なにしろ連れの若い男が突然怪物に変身して、女の頚に噛み付いたって言うんですからね」

 教えてくれたのは、色白で肥満体型の新米警官だった。血の気を失った顔は、白いを通り越して真っ青だ。おそらく初めての、殺人現場だろう。

 鬼でも怪物でもいい。一刻も早く、犯人を確認したかった。

 埠頭の入り口は、数台の警察車両と機動隊員で完全に封鎖されていた。赤色灯を付けた黒いセダンの横に堀川刑事部長を見つけ、急ぎ駆け寄る。

「どうやら間に合ったな」

 現場に不似合いなフルオーダースーツ姿の堀川は、息を切らせる相馬に「ついてこい」と目線で促し埠頭の先へと歩き出した。他の警官は待機のままだ。

 巨大な倉庫、積み上げられたコンテナの山を横目に、幅広い舗装路の真ん中を進む。何も言わない堀川に焦れた相馬は、歩を早めて隣に並んだ。

「何故、俺だけなんですか? 他の連中は?」

 一瞬だけ相馬に視線を走らせ、堀川は小さく息を吐いた。

「今回の女子高校生連続不審死事件だが、これは本来、鬼龍家の管轄なんだよ」

「なに言ってるんですか、これは殺人事件ですよ! 鎧塚くんから聞きました、鬼龍家は単なる調査期間で、事件の分析解明が仕事だと。犯人を逮捕出来るのは我々、警察の仕事でしょう?」

「鬼龍家は、調査期間などではない」

「じゃあ、いったい、何の組織です? まさか、暴力団関係じゃないでしょうね?」

 暴力団絡みの殺人事件に警察が手出しできないとしたら、冗談では済まされない。相馬の苛立ちは、限界に達していた。

 しかし、自らの言葉に違和感を覚える。

 そうだ、鎧塚という少年が纏う空気は、危険だが悪ではなかった。

「教えて下さい。鬼龍家の仕事とは、何ですか?」

 無言のまま堀川は立ち止まり、前方を指さした。

 埠頭の終端、岸壁沿いに並んだ係船柱の一つに、男が背を向けて座っていた。上半身は裸で、随分と体格がいい。三十メートルほど離れた場所で見ても、平均的成人男性の二倍はあると思えた。

 あの男が、犯人なのか? 武装の様子はない。

「確保、しないんですか?」

 相馬の問いに堀川は、男の右側を顎で示す。冷凍食品メーカーの倉庫前に、二台の警察車両。何かを覆うように路上に敷かれたブルーシートを囲んで、数人の制服警官が立っている。

 皆、沈痛な面持ちだ。

 相馬は近くに行き膝を折ると、そっとブルーシートを持ち上げた。

 枯れ木のように、醜く干からびた三体の肉塊。落ち窪んだ眼下から滴る、赤黒い体液。二体は制服だが、一体が身に付けているスーツに見覚えがあった。

 確か三班の、若い刑事が着ていたはずだ。

「そんな、馬鹿な事が……」

「残念だが、この件は我々の手には負えない。彼等の仕事だ」

 相馬は背後に立った堀川を見上げ、その視線を追った。岸壁の大男から少し離れて、黒のメルセデスVクラスが駐まっている。

 傍らに、錆浅黄色の学生服が二人。一人は腕を組んでフロントフェンダーにもたれかかり、目を閉じている茶髪の少年。もう一人は、直立不動の姿勢で大男を見ている背の高い少年。

「あの学生服は……鎧塚くん?」

 背の高い学生服の横顔には、額に掛かる少し癖のある漆黒の髪、黒縁の眼鏡。間違いない、鎧塚康則だ。

 相馬の声が聞こえたのか康則は顔を向け、理知的な眼差しをすっと細めた。かろうじて、挨拶してくれたのだと解る。

 そして右手を挙げた堀川に軽く会釈を返し、茶髪の少年と二言三言、言葉を交わしてから車のリアゲートを開けた。中から取り出されたのは、二本の細長い布袋だ。

 中身は何だろう? 

 身長ほどもある長さの布袋を脇に挟み、康則は手甲のついた丈夫そうな革手袋をはめた。手首のベルトを留め、布袋を締める房飾りのついた組紐を口で解く。茶髪の少年は康則から渡された革手袋を煩わしそうに車の屋根に放り、素手で紐を解いた。

 布袋が、するりと滑り落ち、一振りの刀の鞘が現れる。

 まさか、本物? 

「鬼龍家の仕事……それは、鬼狩りだ」

 訝りながら顔を向けた相馬に、堀川が口元を歪め低く呟いた。

「岸壁で座っている男だが、奴は人間を四人喰い殺し、いまは呑気に昼寝中だ。鎧塚くんから聞いたところでは、鬼化してすぐに餌を求め、変化が落ち着くとまた人間と同じ姿を保つそうだ。今回は日中の街中で起きた為に警察の対応が早く、鬼龍家は出遅れた形でね。歴史上、初めての共同戦線かもしれない」

「確かにデカイし筋骨隆々ですけど、俺には人間に見えますよ?」

「すぐに、解る」

 堀川は、初めての共同戦線だと言った。しかし以前に、経験したことがある口振りだ。

「俺が言うのも差し出がましいんですけどね、鬼龍家の正体が何であれ、この機会に仲良くなれませんか? 犯人を目の前にして、警察不介入は納得いきません」

 職務上の進言というより半ば不貞腐れた態度の相馬に、堀川は苦笑した。

「我々も同意見だよ、相馬くん。そこで暫定的に、今回の事件で双方のパイプ役を務める人間を選ぶことになった。鬼龍家に申し出るのは無駄との意見もあったが、昨夜、関係者に打診したところ、事件発生直後に将隆氏本人から返事が来てね。指名した人物であれば、了解するそうだ」

「鬼龍家の御当主が、自ら御指命ですか? いったい、何を基準に選ぶんですかね? まさか、ミス神奈川県警みたいな美人婦警を要求してきたんじゃないでしょうね?」

「ミス県警なら、相手の意図が解りやすい。だが将隆氏には、あり得ないな」

 冗談を言ったつもりの相馬に、堀川は真顔で返す。

「私も不思議でね……なぜ彼は、相馬くんを指名してきたのだろう?」

 突然、自分の名が出されて相馬は我が耳を疑った。

「は? 指名されたのって、俺……なんですか?」

「そうだ。だから君を、ここへ呼んだ」

 驚いた相馬が、事の経緯を詳しく聞こうとした時。 

 背後から、血生臭い風が流れてきた。腹の底に不快な塊が湧き、胃を突き抜けて喉を駆け上る。風の正体を確かめようと、気配を探った。

 同じ感覚を過去に一度だけ、経験したことがあった。血と暴力に愉悦を覚える、残虐な猟奇殺人犯と対峙したときだ。嫌な予感を伴いながら、大男に目を向けた。

 大男の様相は、一変していた。

 仁王立ちの、怪物。下半身と不釣り合いなほど膨れあがった、上腕筋と胸筋。逆立つ髪と剥き出された双眼、大きく裂けた口。めくれ上がった唇を牙が突き破り、血の混じった唾液を滴らせている。

 そして眉間に、黒光りする鉤爪のような、一本の角。

「俺の見ているものは、いったい何だ?」

 驚愕に目を見開いた相馬が呟いた、その時。

 澄んだ、鈴の音を聞いた。

 一瞬で浄化された風が、血の臭いではなく清々しい潮の香りを運ぶ。

 無意識に目を向けた先、西日を受け美しく輝く日本刀が二振り。

「……部長、あれは?」

 相馬の言いたいことを察して、堀川が笑った。

「君は、どんな場面でも職務に忠実だな。銃刀法なら特別許可を得ている。国家機関の、お墨付きだ」

 漠然とした疑問を抱きながら、相馬は学生服の二人に目を凝らす。背の高い少年、康則が数歩前に出て半身を大男に向け、刀を振りかぶると右肩を落とし肘を引いた。八相の変形構えだ。

 空気が、動いた。

 相馬は咄嗟に、左脇のホルスターから拳銃を引き抜く。堀川が、その手を押さえ制した。

 獣の咆哮をあげ、大男が両腕を振り回しながら襲いかかる。間合いが詰まるまで微動だにし無かった康則が、跳ぶように踏み込み胴を払った。ほとばしる血飛沫が、岸壁の白く乾いたコンクリートを染め上げる。

 汚らしい唾液と赤黒い内蔵を撒き散らしながら大男は、身を翻して康則に腕を伸ばす。頭が丸呑み出来るほどに裂けた口で、喉笛を噛み切るつもりだ。

 刀を脇に引き、康則は大男の顎を蹴り上げた。骨が砕ける音。半分に縮まった顔を両手で覆い。大男は甲高い悲鳴を上げる。

 軽くステップを踏み、その側頭部に回し蹴りを叩き付けた。大男が、よろめき無防備になったところで康則は、再び刀を構え治す。そして平青眼から水平に切っ先を引き、目に留まらない速さで払い上げた。

 肘から切断された二本の腕が、弧を描き宙に舞う。

 右腕は大きく水音を立てて海に沈み、左腕はコンクリートの上をバウンドしながら相馬の目の前に転がってきた。黒々とした毛が密生する、丸太のような腕だ。標準的成人男性の、三倍はある。節の太い指には、人間の物とは思えない黄ばんだ長い爪。

「鬼……」

 相馬の頭は、ようやく現実を受け入れつつあった。

 顎を砕かれた大男……鬼は、叫ぶことが出来ずに、くぐもった呻きを漏らしながら激しく頭を振り回している。だがその動きが、いきなり止まった。

 上体が、ゆっくりと前後し、前のめりに滑り落ちる。

 綺麗に切断された、足の付け根。その場に膝をつき、残心の構えを崩さない康則。

 再び、鈴の音が響いた。

 澄んだ鈴の音は、風を斬る刃の音だと気が付いた。

 茶髪の少年が、片手で携えた刀を頭上で翻し、跳躍した。中空で両手に構え直し、着地ざま振り下ろした切っ先が鬼の眉間にある角を頭蓋ごと断つ。

 二つに開かれた胴体が、左右、別々に崩れ落ちた。一瞬遅れて噴き出す、おびただしい血飛沫。だが少年は既に、血に染まる距離を脱していた。

 若く、しなやかで、強いバネのある筋肉が成せる技だ。

 相馬の全身は、冷や水を浴びたように総毛立つ。

 跪く康則の傍らに立った、茶髪の少年を改めて見た。康則ばかり見ていた相馬は、今になって気が付く。

 鬼龍家の入り口で出会った、あの少年ではないか。

 沈みゆく太陽の残照が叢雲を彩り、埠頭に明かりが灯る。この町で一番美しい場所の、一番美しい時間。

 幻想的な彩りを背景に、王者が立っていた。

 そして跪く、守護者。

 非現実的な妄想に、支配されそうになった。

「いや、俺は確かにこの目で見た。これは夢じゃない、現実だ……」

 二人の少年によって行われた「鬼狩り」という行為に、正常な思考は麻痺していた。

 現実を求めて、足下に転がる鬼の腕に目を向けた。すると剛毛に覆われた太い腕が、黄ばんだ爪が、目の前で縮み始める。

 残されていたのは、どちらかと言えば貧弱な男の腕だった。

 疑問を口にするより先に、堀川が説明した。

「鬼化する原因の〈業苦〉を断つことが出来るのは、鬼龍一族の扱う〈鬼斬りの刀〉のみだ。〈鬼斬りの刀〉は、日本全国に三振りあるとも五振りあるとも言われているが、私にも解らない。〈業苦〉によって鬼化した人間は、〈業苦〉を断てば元の姿を取り戻す。しかし、心は戻らない。廃人となって、歳を取るだけだ」

「それでも、元は人間じゃないですか? 基本的人権は、どうなるんです? 四人を殺害した犯人でも、法の裁きを受ける権利が……」

「いまさら君から、人権や司法の講義を受ける気はない。廃人相手の取り調べや法の手続き、裁判に意味があるかね? 鬼龍家は司法の外にある組織だ。然るべき対処は彼等が全て、遂行してくれる」

「そんな事、あっていいわけ無いでしょう!」

 怒りを抑えたつもりでも、声が荒くなった。激高する相馬を、堀川は氷のような目で見つめる。

 ぞっとする、目だった。

 鬼になった男のギラついた欲望とは対照的な、得体の知れない欲望を深淵に垣間見た。

 堀川の過去に、いったい何があったのか?

 言葉を失った相馬を、堀川は顎で促す。

「鎧塚くんとは面識があるが、鬼龍将隆氏とは初対面だったな。来たまえ」

「えっ……?」

 鬼龍将隆氏は、おそらく車中で陣頭指揮を執っているのだろう。そう思った矢先、堀川は黒のメルセデスではなく、二人の少年が立つ場所へと歩き出した。

 康則は気が付いてこちらに顔を向けたが、茶髪の少年は意にも介さぬ様子で自ら扱う刀を検分している。

「君達は、いったい……いったい何者なんだ?」

 司法の外にある、絶対的な力。眉一つ動かさず、鮮やかに鬼を斬り捨てる二人の少年。

 理解の範疇を超えている。

「正式に紹介しよう。彼が鬼龍家当主、鬼龍将隆氏だ」

 闇に落ちた埠頭を照らすサーチライトが、赤みがかった少年の髪を金色に輝かせた。冷たい輝きを持つ、琥珀の瞳。

 鬼龍将隆は、笑みを浮かべ右手を差し出した。

「鬼龍将隆だ。よろしく、相馬刑事」

「……」

 握手を交わす相馬の頭は真っ白になり、全ての思考が停止した。


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