甘く砕けた
ヘイガール。
ヘイボーイ。
レディスアンドジェントルマン。
「何ぶつぶつ言ってんの」
「呪文」
これで一回目。
嘘を八百回吐いたら、願いが叶えばいいのに。
かといって八百回も吐けないけれど。
ソファーで寝転ぶと肩がこるし、首が痛い。だけど、如何せん体がだるくて寝転んでしまう。
ベッドに行けば?と言われるけれど、ここはアンタの家なんだから気安く寝転ぶわけにもいかないでしょ。
昼下がりの蒸し暑いこの時間、皮のソファーは少々蒸れるけれどそこは我慢だ。
パソコンに向き合って、カタカタと音を軽快に鳴らしながら彼女はレポートってやつを書いてる。
提出期限は近い、なのにどうしてあんなにも冷静に進められるのだろうか。
彼女の図太すぎる神経を思って、私は少々怖くなりつつも頼もしく思った。
提出の期限はちなみに明日だ。彼女はそれを今日からやり始めた。
私は昨日終わらせた、結構な時間をかけて、死にかけながら。
昔っから彼女は優秀だ。
「あっそ。コーヒー入れてきてよコーヒー。」二度も続けて言われなくとも分かる。はいはい。と返事をしつつキッチンへ向かう。
ブラックコーヒーを飲める彼女、ミルクや砂糖が入ると飲めない彼女。
ブラックコーヒーを飲めない私、ミルクや砂糖が入ると飲める私。
ふむ。と何かに納得しつつ、私は彼女のマグカップにアイスコーヒーを注いだ。市販のではないそれは何だか彼女らしい。
コーヒーを淹れている時の彼女はいつも鼻歌なんかを歌っていて上機嫌だ。
白のマグカップに黒のコーヒーはとても落ち着く色合いで、そこにミルクコーヒーを注ぐには少し柔らかすぎる気がした。なんだか、ふにゃっとしていて歪んでいる。
私のマグカップには、ミルクコーヒーが注がれた。砂糖も入っている、彼女にとっては甘いそれが。
スティックシュガーの袋を二つ、ゴミ箱に捨てて彼女の元へ運ぶ。一本半ではきっと少し苦い。
「へい、お待ちー」
「ありがとー」パソコンの方を向いたまま、彼女は礼を言った。
集中力が切れないってのは凄いな、と改めて思う。私なんかは二十分持てばいい方かもしれない。
落ち着きの無い子だったわ。なんてお母さんの楽しそうな顔が浮かんできて笑ってしまう。
「どしたの」
「ん、何でもないよ」笑いながらそう言った。頭に手をぽんと乗せれば何よ。って言いながら彼女も笑う。
「ブラックでよかったよね」・・・・・・ちょっとした悪戯心ってやつだ。
「うん、ありがと」
もう一度頭を軽く叩いて、私はソファーへ歩く。
閉め切ったカーテンは酷く閉鎖的で私は開けようとして、やめた。彼女を外へ晒すのが嫌で。
代わりに机の上にあったテレビのリモコンを手に取って、ソファーに座る。まだ私の体温が残っていたみたいで生温い。
もうすぐ真夏、今は梅雨。クーラーつけないの?と訊けば、暑いか?と返された。
私は暑がり、彼女は寒がり。
何もかもが真逆で少し寂しくも思うし、嬉しくも思う。彼女は私にとってとても新鮮だ。
コーヒーを少し飲むと、いつもよりほんの僅かに苦くて眉を顰める。彼女は気付くだろうか。
テレビをつけると何かのドラマの再放送だろうか、よく分からない。
音だけ流れていればいいと思ってチャンネルは変えない。彼女は音にまったく気付いてないようで、相変わらず頑張っている。
テレビの箱の中では、人が忙しなく動いていた。
病院に救急患者が運ばれたらしい。白の病院が鮮烈に見えてしまった。
「ねえ」
「んー?」
声をかけると彼女は手を休めずに返事をする。
「美味しい?」
「フツー」
心此処に在らずなんて誰が考えた言葉だろうか。
フツー、か。心の中で反復させてみる。そりゃあ、いつも飲んでるもんね。ブラックコーヒーなら。でも――。
箱の中を切り替える、ニュース番組は淡々としすぎていて感情を消すには十分だった。
違いに気付かないのは集中しているせいなのか、それとも彼女が変わったからなのか。
少なくとも、二ヶ月前の彼女ならこんなことにはならなかった。
「私が入れたんだから美味しいでしょー」
「はいはい、そうだね」
――美味しいよ。嘘でも言ってくれる優しさが私を余計に惨めな気持ちにさせた。
余計な事を言うもんじゃないな。と溜め息を吐く。コーヒーを飲む気にはなれない、甘くないコーヒーなんて。
半分違うだけでこんなにも苦いとは思わなかった。人間の味覚がこんなにも優れているとは思わなかった。
苦さのせいで泣けてきた。
パソコンと睨めっこし続ける彼女は後ろの世界を知らない。
前を向いて突っ走る彼女は振り返らない。置いて行かれている感は否めない。
「婚約おめでとう」
呟いた先の世界は私にはどうも遠すぎて見えないらしい。
箱の中の音は鳴り続けているのに、キーボードを叩く音は消えた。振り返らないで。
体温で蒸れるソファーがより一層湿気を帯びないように、私は顔をカーテンへ向けた。夕日が差し込まない部屋ではどうにも涙は乾いてくれそうにない。
私の名前を呼ぶ声と、駆け寄ってくる足音が近付いてくる。
もっと早く言うつもりだったんだ、おめでとうって。どうしてこのタイミングで言ったのか、分からないけれど。
きっと私は祝福出来るはずだから。
「ありがとう」やっと言ってくれた。そう言うあなたの声と腕の温もりのせいで、ソファーはもっと湿るんだ。
カーテンを開けないのは、私の嘘が神様にばれないように。
『甘く砕けた』
fin.