滴る雨と白衣の光 Ⅳ
「私がこうして二人に顔を出せているのは、あのとき唯ちゃんに会って変えられたから。でなければ私は、今頃とっくに死んじまってるよ。」
入り乱れる音の中、千夏ちゃんの声のみが私たちの耳に入ってきて、まるで周囲の時間だけが止まっているように感じる。そして千夏ちゃんが話し終えると、次第に周囲の音はゆっくりとボリュームを大きくし始めた。
「…ってことは、その唯って人のおかげで千夏は元生徒会長と縁を戻そうと決心した。あっているよな。」
「元々琴ちゃんとの仲を取り戻したかったんだけど、それまでの私はいわゆる有言不実行ってやつだ。それを唯ちゃんが実行に移す機会を与えてくれたってこと。けど、その解釈で間違ってはいないかな。」
徹君は「分かった」と小さく返事をし、話している最中にやって来たお肉や野菜を焼き始めた。話のきりが付いた、そう徹君は思っているのだろう。
けれど私は、まだ千夏ちゃんが話したそうな雰囲気であることを何となく理解している。きっと今の空気を更に重苦しいモノにする話であるのはその雰囲気から理解できるのだが、それでも私は、千夏ちゃんに話してもらいたい。
そう訴えかけるように千夏ちゃんの顔を眺める私に、千夏ちゃんは気付くなり徹君にも聞こえるような大きなため息を漏らすと「琴ちゃんには分かるか」と言ってウーロン茶を二口ほど喉に通した。
「…結局さ、私は独りでは何も出来なかったんだよ。誰かに頼ってばかりで背中を追い続け、独りになるのが…。」
「そんなの、誰だって同じだよ。」
徹君の一言に私と千夏ちゃんは彼に視線を向ける。そのことに気付いているのか気付いていないのか、彼は黙々と食材を焼いていた。
「同じって…。じゃぁ徹君は独りになったことあるのかよ。どうせ私に同情している…。」
「あるよ。それに、今だって俺は独りだ。」
徹君は一度トングを置くと、問いかけていた千夏ちゃんに視線を合わせた。
「俺は二人を守るために、妹だけを守っていた拳で自らを悪役のレッテルを貼った。そうすれば二人は絶対に被害を受けないからな。」
確かに、徹君の素行が悪くなってからは、私をいじめてくるような人は極端に減った。そして同時に、徹君が独りで過ごしている姿を見る機会が増えるようにも感じていた。つまり徹君も、私や千夏ちゃん同様、自己犠牲を代償として私たちを守ってくれたということ。しかしそんなこと、彼は一言も話してはくれなかった。
「…けれどよ、誰かに頼ってみるのも悪くなかったのかもって、俺は今でも後悔しているよ。」
「「えっ…。」」
「独りで解決するってことは、抱え込むって事。それってよ、簡単なようで苦しいんだよ。もし誰かに頼っていればさ、この苦しみも少しは軽減できたのかもって。」
…知らなかった。いつもチャラけていても厳しいときは厳しい徹君が、こんなにも思い詰めたような表情を浮かべることに。だというのに私たちの前ではいつもすかした表情の彼は、一体どんな気持ちで私たちを見ていたのだろうか。想像するだけで胸の奥がズキズキと痛む。
「千夏や元生徒会長と会った晩はさ、独りでいる時間がとても苦しかったんだ。独りになるのが恐いって。だから俺は、二人に頼ることにしたんだ。」
「頼るって、私はそんなこと…。」
「してる。こうして話を聞いてくれるだけで、俺の孤独は埋められるよ。だからな、千夏。」
徹君は立ち上がると前のめりになり、千夏ちゃんの腕を引きできあがっていた拳を両手で包み込んだ。
「独りで出来るなんて考えるな。千夏には、俺と元生徒会長の二人がいるんだからよ。」
「…そうだよ。それに、千夏ちゃん言ってくれたじゃん。人は誰しも孤独で弱い生き物で、だからこそ他のどんな生き物よりも強いって。」
孤独は優れた精神の持ち主のあらがえない運命であり、それは同時に強者の証でもある。そう千夏ちゃんは私に教えてくれた。そして私に誰よりも弱くて誰よりも強い人間だと千夏ちゃんは言ってくれた。けれどそれは、千夏ちゃんにも徹君にも言えることなのかもしれない。
「…それに千夏ちゃん。どんな人間にも孤独は一生隣り合わせだから、そうなることは確実なんだよ。その時間を減らすために時間を共有し合う。そうすることで私たちは孤独も埋められるし、空白の期間も埋められる。だから、私は…。」
「…そっか。私は独りじゃなかったんだ。」
千夏ちゃんの口から出た言葉はまるで今まで千夏ちゃんがずっと孤独だったような言いぐさで、いや、その言葉は昔の千夏ちゃんがあったからこそ言えた言葉であった。それを、私と徹君は同時に理解し、いつの間にか顔を見合わせていた。
「当たり前だろ。俺たちは三人で俺たちなんだからよ。」
「だね。私や徹君、それに千夏ちゃん。誰かが抜けた時点で、私たちは私たちじゃなくなる。三人で、私たちなんだから。」
「何それ。けど、ありがと。」
そうだ、私たちは決して孤独ではなかった。三人が同じ思いだったから、私たちが私たちの関係でいたかったから、私たちはこうして再会することができている。
ーなんだ、やっぱり私は、遠回りしすぎたってわけか。馬鹿らしいな、本当。-
けれどそんなマイナスの思考とは裏腹に、私の表情はにこやかなものだった。
「…っと言ったところで、飯にしねぇか。いい感じに肉も焼けてきたし、匂いで腹が鳴りっぱなしだっての。」
「何それ。けど、私もお腹空いたし食べたいな。徹君、お皿に盛ってくれ。」
「命令なのかお願いなのか分かんねぇだけど。そろそろ統一してくれよ。」
困ったように話す徹君だが、その笑顔からは決して困り果てた様子などなく、対する千夏ちゃんも申し訳なさそうに謝っているが、こちらも表情からはそんな様子は感じられなかった。
「ほら、元生と…。琴美も早く皿出さねぇと、俺と千夏の胃の中に吸収されるぞ。」
「…うんっ、私も食べるっ。」
徹君が私の名前を何年かぶりに呼んでくれたことにこの時は気付かなかったが、この日以降私を名前で呼んでくれるときはちょっぴり恥ずかしく、それでもどこか嬉しく思えていた。
けれど今は、目の前に焼かれてあるお肉に食欲旺盛な女子高生は割り箸を割ると、その箸でお肉を口の中へ運んだ。
「…にしても、ちょっと食べ過ぎたかも…。」
「それは俺も同意見。」
夜空にチラホラと星が出だした頃、お店から出てすぐ近くの公園のベンチで休憩する私と徹君は、お腹をさすりながらほんの少しだけ後悔していた。
そんな大食い大会後の選手のような私たち二人とは反対に、千夏ちゃんは一人ブランコを大きく揺らしており、まだ余裕そうな表情を浮かべている。徹君に比べれば食べていない様子ではあったが、きっと徹君と同じ量は食べられていただろう。
「一体千夏ちゃんの胃の中はどうなっているのぉ。別空間にでも繋がっているのぉ。」
「そんな都合の良いお腹してないよぉ私はぁ。」
「…うへぇ、聞こえてた。」
聞こえていないと思っており、千夏ちゃんの大きな返事に変な声が出てしまう。そんな自身に驚きつい口を抑えたときには、横にいた徹君はクスクスと笑っていた。
「ちょっと笑わないで。私だって、可笑しな声の一つや二つは出るんだし。」
「ごめんな。その、つい面白く…、ふっ。」
「あぁっ、またっ。」
ポカポカと徹君を殴る私だが力が弱く、むしろ「何だそれ」と更に徹君に馬鹿にされた。
「けどさ、再会できたからこそ、こうして笑い合えているって考えれば良いことだろ?」
「…まぁ、その、人を馬鹿にするような笑い方でなければね。」
視線を落とし足下の石ころを蹴飛ばす私に、「そりゃないだろ」と徹君は顔をしかめて口にした。それに乾いた笑いを返す私。
「けどさ、これから私たちどうなるんだろね。」
「どうなるって、何がだ。」
視線を上げた私は、ブランコから飛び降り華麗に着地した千夏ちゃんに手を振ってあげると、徹君に話の続きをしてあげた。
「私たちがこうして私たちに戻れたのは良いことだよ。けどこの先、三人でいられる時間は限られている。ましてや大学に入ったら県外に行くかもしれない。そうなればさ、また私たちは離ればなれになるじゃん。そう考えると、少し恐いというか…。」
行儀悪くベンチに足を乗せた私は膝を抱えると、隣にいる徹君はこちらに視線を向けた。そして大きなため息を吐くと、私の頭をぽんぽんと撫でてくれた。
「…そんなの、俺も同じだしきっと千夏も同じだろ。だからこの関係が崩れていた以前、俺たちは三人とも腐っちまってたんだろ。」
「それは…、そうだけど…。」
「なら大丈夫だろ。あれだけのことがあっても、俺たちはこうして元の俺たちに戻った。なら例え今後別々の道を進んでも、さほど苦労せず会えるだろ。」
「まぁ後の事なんて誰にも分からねぇんだし、今うだうだ言っててもしょうがないだろ。そんな後なんかよりも、今を後悔しないように努力するのが俺は良いと思うぜ。」
ハッとした表情で膝から顔を離した私に言葉をかけることなく、徹君は千夏ちゃんに向かって走って行った。
「今を、後悔しないように、か。」
彼が走り去る前に口にした言葉は、私を励ますだけの言葉なのか本心なのかは定かでない。けれど私は、彼の言葉は後者だと確信していた。これといった根拠はなく、私が何となくそう感じているだけなのかもしれないが、それでも彼が口にした言葉は彼自身の本心だろう。
「おらっ、くらえ千夏っ!!」
「っうわぁ!?おい徹君。これわりと値段張る服なんだから水かけてくんなよっ。」
と怒りを露わにし徹君に水をかける千夏ちゃんと水をかけられている徹君の様子を遠くで眺めながら、私は先ほど発した言葉を繰り返しながらトートバックから携帯を取り出した。私は今まで、後先ばかり考えるばかりで「今」を優先的に考えることはなかった。千夏ちゃんたちのことに関しても、鈴ちゃんのことに関しても。
だから「後で」後悔しないよりも、「今」後悔しないことを選んだ。もし結果が私が望むような結果でなかったとしても、「後で」聞いて後悔するよりは「今」聞いて後悔する方がよっぽどダメージは低い。それにどちらにせよ後悔するのなら、先に聞いてしまった方が良いというもの。
携帯を開けるとすぐさまメッセージアプリを起動させると、一番上にある「鈴ちゃん」の通知に気付くことなく、とある人のメッセージボックスを開いた。それなりの頻度でやり取りしていたが、近頃は近況報告すらしていない。それもそうだ、あんなことがあればお互いやりづらいはずだ。その状況を打破するためにも、私は「今」後悔しない選択肢に駒を進めることにした。
一分近く悩んだメール内容は時間の割にはとても端的で、けれどそれだけで充分相手には伝わる内容であった。私が送信するとまるで待機していたかのように「既読」の二文字が表記され、そこから「分かった」と返信が来るまであまり時間はかからなかった。それはきっと彼女が、私とどこか似ているところがあるからであろう。いや、どこかというよりはある意味私のような存在だからだろう。
「っおい琴美。お前も早くこっち来いよ。腹ごしらえに遊ぼぉぜ。」
「…っもう、水はかけてこないでよね。…私はかけるけど。」
「俺にも手加減しろよ…。」
徹君の反応についクスッと笑ってしまった私は彼と千夏ちゃんの元へ駆け寄ると、思わず二人をギュッと抱き締めていた。そんな私に驚きを隠し切れていなかった二人であったが、顔を見合わせると口角を上げ私を抱き締め返してくれた。
このまま時が止まってしまえばいいのに、そんなシンデレラになったような幸せな時間はあっという間に経ってしまい、空は本格的に暗く家へと帰っていく人の姿も少なくなってきた頃、私たち三人にとうと別れの時がやってきてしまった。「早すぎる」と瞼に涙を溢れさせながら千夏ちゃんは口にしていたが、別に金輪際会わないというわけではないし、そもそも私と千夏ちゃんであれば今後嫌になるほど顔を合わせる。故に私と徹君は千夏ちゃんに聞こえるような大きなため息を漏らした。
徹君から荷物を受け取った私と千夏ちゃんは徹君と別れると、発車一分前の電車に急ぎ足で乗り込んだ。その際千夏ちゃんが荷物の一つが徹君から受け取っていないことに気付いたのだが、その時には電車は次の駅に向かって発車していた。仕方なく後日千夏ちゃんは徹君の元に行って取りに行ったらしいが、何の荷物を忘れたかまでは話してくれなかった。
「にしても琴ちゃん、今日楽しそうだったな。」
空いている席に座った千夏ちゃんは座ろうとする私に問いかけてくる。問い方は少々違うが、その千夏ちゃんの姿は去年の海での鈴ちゃんに雰囲気が似ているように見えた。
「…だって、素直に楽しかったんだし。それに、その言い方だと私が毎日楽しくないって感じているみたいじゃん。」
「ごめんごめん、訂正するよ。…いつも私といるときより、今日の琴ちゃん楽しそうだったな。」
これはこれで誤解を招いているような発言だが、間違っているか間違っていないかと言われると七割方は後者になるだろう。
「だってそれは、三人であの頃のように接し合えていたからだよ。それに千夏ちゃんといるときだって、私は楽しいよ。そんな、千夏ちゃんがつまらない人間みたいに言わないでよ。」
席に着いた私はふぅっと小さく息を吐くと、隣の千夏ちゃんに顔を向けた。
「顔に出ていないのは、まだ少し緊張しているんだと思うんだ。千夏ちゃんに。」
「私に?」と自身に指をさす千夏ちゃんに、私はコクリと頷いた。
「あの日のことを気にしているわけじゃないけど、変わってしまった千夏ちゃんがどこか遠い存在のようでね、何か他人と話しているみたいなの。それこそ、新島千夏ではなく小坂千夏と会話しているようで。」
変わらない弱い私と向き合うことで己を理解すること、改善することを決めた私にとって、変化してしまった人たちは遠い存在に感じてしまっている。それは千夏ちゃんに限らず、徹君に鈴ちゃん、それにあの子も含まれている。
「…確かに、私は変わった。それも琴ちゃんが一目で見分けが付かないぐらい劇的にな。」
「それは…ごめん。」
「別に構わねぇよ。…確かに変わることっていうのは謂わば未知との遭遇みたいなもので、それを知ってしまえば私たちには進化という変化が訪れること。それは恐いことだけど、人はそうしなければ変わっていけない。琴ちゃんだってそうでしょ。」
千夏ちゃんは私の両手首を掴むとそのまま胸の高さまで持ち上げた。少々強引な千夏ちゃんではあるが、その手からは優しい温もりが感じられる。
「変わらない弱い自身に向き合うことで、琴ちゃんは自分を改め直そうとしているんでしょ。自覚がないかもしれないけど、それは変わろうとしている何よりの証拠だ。」
「私が…変わる?」
「そう。別におかしいことではねぇよ。人は日々進化していく生き物だし、変化のない日常なんて退屈だろ。」
千夏ちゃんさぞ当たり前かのように私に話してくれるが、それが私には分からなかった。千夏ちゃんの言う通り、人は確かに日々進化していき変化のない日常を退屈だと感じてしまうものだろう。
けれど、人には絶対に変化するべきではないことだってあると私は思うのだ。それこそ、私と千夏ちゃん、徹君の三人の関係や鈴ちゃんとの関係や…。
「…それでも、変わってはいけないことだってあると思う。私たちの関係とか…。けど、千夏ちゃんの言っていることも分かるというか…。」
「…そうだな。変わってはいけないことも、そりゃあるよな。」
独り言のように呟いていた千夏ちゃんだが、私が「千夏ちゃん?」と尋ねる前に席から立つと、くるりと私の方へ身体を向けてくれた。
「ありがとな、琴ちゃん。私やっぱり、琴ちゃんのこと好きみたい。」
「…私も、千夏ちゃんのこと好きだよ。」
急な愛の告白に戸惑いを見せていた私ではあったが、返答までの時間はたったの一秒程度であった。周囲を気にすることなく千夏ちゃんに好きだと伝えられるようになったのは、私の本当の気持ちを千夏ちゃんに知ってもらいたいからだ。
電車がゆっくりとスピードを緩めていくのを感じ取った千夏ちゃんは、私たちが座っていた側にある扉の目の前に立つと「また三人で遊ぼうね」と笑顔で約束してくれた。そんな千夏ちゃんに「約束だよ」と小指を突き出せば、「あぁ」と返事をしてくれその突き出した小指に千夏ちゃんの小指を絡めてくれた。その細長い千夏ちゃんの小指から伝わる熱に、引っ込んでいたはずの涙が瞼に溜まり始めていることに気付いたが、私は我慢することなく千夏ちゃんの目の前で流してやった。
停車駅に着くと千夏ちゃんは物寂しそうにこちらに手を振っていた。それもそうだ。元々の予定としては、あと何駅かは千夏ちゃんと一緒に帰れる予定だった。
しかし唯ちゃ…唯先生が近くにいるから連れて帰ってあげると連絡があったため、千夏ちゃんは渋々従ったというわけだ。何しろ断った日には、唯先生からの対応は冷たくなるとか。私は家での唯先生がどんな人物なのかは知らないが、学校と同じであるならば対応が冷たくなった先生は恐怖でしかない。
千夏ちゃんと別れてまだ五分も経っていないにも関わらず、千夏ちゃんが座っていた席を見る度にまた会いたいとばかり考えてしまっており、その空白を埋めるかのように買い物袋を置いてみるも依然として寂しさは変わらなかった。それどころか、先ほどよりも寂しさが増しているように感じる。以前は一人になることを望んでいた私であるが、そんな考えを持つ私はもういない。
「私が変わる、か…。」
広げた右手に視線を落とした私は、その右手を閉じたり広げたりと繰り返し動かし始めた。けれどその行動に意味は無く、その間考えていた内容のほとんどは記憶に残っていなかった。
けれど一つだけ、明確に覚えていたことがあった。それは「変わった私を、ちゃんと見てもらう」ということ。
だから私は覚悟を決め、帰宅後、鈴ちゃんの顔を見ることなく妹、琴葉の部屋に無理矢理突入した。そして私の全てを、琴葉にぶつけたのであった。




