Past and Now Ⅴ
始業式が終わってからはや一週間。花びらが散った桜と花粉に別れを告げるとともに、テストの全日程が終了した。達成感で心を満たしている者もいれば、イマイチ自身の力を出し切れず落胆する者もいる。また一部例外で、どちらにも当てはまらない者もいる。現にそれが私である。
そして同時に、一年生の授業が本格的に始まり、放課後は部活動勧誘の声が止むことが無かった。特に声を張っていたのは二葉姉妹の姉の愛ちゃんで、翌日以降、彼女の名前は一躍有名となった。それもそのはず。「女がほしい」と女性に飢えた男性が吐くような台詞を恥ずかしげも無く叫んでいたのだ。これで有名にならない方がおかしいというもの。勿論、本人には一切その気は無いだろう。
そんな部活動生にとっての決戦の中、私はアリスちゃんから伝えられたように第一校舎の屋上に向かっていた。あれから唯先生に何度か尋ねたが、先生は何一つ話してはくれず、「待ってなさい」と突き返されるばかりであった。呼んでおいてのこの対応は、さすがに一言言ってやろうかと思っていたが、教師に刃向かうなど私の辞書にはなく、今日まで首を長くして待っていた。一体、先生は何を考えているのやら。
「っと…。ここであってる、かな。」
最初に先生に訊きに行った際に貰ったメモ通り、第一校舎の屋上の扉にたどり着いた私は、壁にもたれ掛かると息を整えた。一度、一階の職員室に用があったため、私としてはかなり運動した方になる。おかげで額からは、タラリと汗が流れてきている。鈴ちゃんとは違い、あまり運動が好きではない私にとって汗は害悪そのもの。よくスポーツをしている人が「汗をかくのは気持ち良い」とかなんとか言っているが、彼等の気持ちを理解したいとは思ったことがない。
いつもは静かな第一校舎も、今日だけは合唱部や吹奏楽部に負けじと騒がしく、それが私の高まる鼓動を消し去ってくれる。何故唯先生に呼び出されたかは分からないが、説教か大事な話だとは何となく分かっており、それが心臓が高鳴っている理由であろう。
謎の緊迫感と畏怖の念に押しつぶされそうになった私は覚悟を決め、屋上へと繋がる扉のドアノブに手をかけた。すぐに空いていることに気付き扉を開くと、外から吹く冷たい風がスカートから漏出する肌に当たった。その冷たさのあまりつい扉を閉めそうになってしまったが、微かに開いた扉の先に人影を見てしまった私は思いっきり扉を開けた。
空は綺麗にグラデーションがかかっており、相対する二つの色、幻想的な光のコントラストはかの有名なクロード・モネの「黄昏、ヴェネツィア」を連想させる。
そして私の視線の先には、そんな美しい夕焼けを眺める一人の少女がいた。少しぼさついた長い髪の毛は金色に輝いており、人を容易に近づけない切れ長の目はどこぞのモデルのようで、人差し指を少し曲げ口元に当てている姿はまさにモデル。
おまけに口に咥えているタバコは…ってタバコ?
「すみません。タバコは停学処分の範囲内なんで止めておいておいた方が…。」
風によって消された私の声が当然彼女に届くことはなく、今度は声をお腹から出そうと大きく息を吸い込み声をあげようとしたまさにその時であった。
風の影響で屋上の扉が大きな音を立てて閉じ、その音に反応した私と彼女はほぼ同じタイミングで扉の方へ振り返った。何だ扉かと安心したのもつかの間、再び振り返ると先ほどの少女がこちらをじっと見つめていた。
彼女を正面から見て分かったのだが、彼女の髪は夕焼けで金色に見えたわけではなく元から金髪で、左耳にはピアスかイヤリングを二つほど付けている。制服には所々傷があり、瞬間始業式前の愛ちゃんの言葉が脳裏に蘇る。
ー「これも咲が生徒会長に決定した後に見たんだけどな。その編入生、見た目がいわゆる不良だよ。髪は金髪で服はボロボロ。なんだけど、これが凄い顔が良いんだよ。私が男で見た目さえ見なければ付き合うんだけどなぁ。」ー
愛ちゃんの言っていた全ての事柄に当てはまっており、瞬時にこの子が噂の編入生であることが分かった。と同じくして、何故だか私の心臓がチクチクと痛み始めた。そしてこの痛みを、私は何度も経験している。
「…あの、編入生の人ですよね。私は進学科の文系系列クラスの柊琴美です。一応、タバコは校則違反なので止めておいた方が…。」
このとき私の本能は、彼女と関わることを酷く根絶していた。ただそんな本能を押し切った私は昔に比べると成長した方だが、今だけは成長しなくとも良かったかもしれない。
怯える私を見下すかのような目でずっと見ていた不良少女は深いため息を一つすると、口に咥えていたタバコの火を、ポケットから取り出した灰皿で消してくれた。灰皿を持っていることから察するに、彼女は長年喫煙をしているのだろう。高校生でヘビースモーカーなど、もはや異常者の域である。
タバコの火消しを確認し終えた私は早々にこの場から立ち去ろうと、扉の方へと身体を向けた。唯先生には申し訳ないが、これ以上この場に彼女といれば厄介事に巻き込まれるのはほぼ確実。ここは退散するのが策だろう。
そう考え扉に向かおうとした私であったが、「待って」と似合わない可愛いらしい声をかけられ思わず足を止めてしまう。どこかで聞いたことのあるその声の主に振り返ると、彼女は夕日をバックに少し蒼ざめており、身体は小刻みに震えていた。
「…大丈夫、ですか。」
さすがに心配になり彼女に近づいた私は、覗き込むように彼女の顔を確認する。影のせいではっきりとは見えないが、口元が動いているのだけは分かったが、何を呟いているのかは聞き取れなかった。
鳴り響く金管楽器のファンファーレ、運動部のかけ声が私たちの静寂をよりいっそう引き立てる。そしてその音に負けぬ愛ちゃんの雄叫びとも言える声が、屋上にまで聞こえてくる。こちらも私たちの沈黙を更に際立たせているのだが、金管との相違点はただただうるさい。とはいえ、この空気に潰されそうな私を救っているわけでもある。
「…そうだよ。忘れていてもおかしくないって…。」
フェンスの方に自然と視線が向いていた私は、不良少女の声を耳にし視線を戻した。途端彼女は私を突き飛ばすと、ぼさついた髪を掻きむしった。突き飛ばされた私はというと、二三歩ほど後退した後尻もちをついてしまう。屋上とはいえ野外のため、スカートに若干の汚れが付いただろう。
「ちょっと、何する…。」
「神様はさ、存在すると思うか?」
唐突に投げ出された質問に戸惑う私であったが、首を小さく縦に振った。その私の様子に「変わらないな」と訳の分からないことを呟くと、再び髪を掻きむしる。
「…私はさ、神様なんて存在しないと思ってる。もし存在しているのなら私は今頃ここにはいないし、こうもやさぐれてなんかはないはず。所詮信じられるのは己自身だと、昔の琴ちゃんと同じ考えだった。」
瞬間、私の世界は止まった。正確にはわずかに動いているが、ほとんど静止しているほど動きが遅い。だというのに、私の脳内は一瞬にして黒く染まった。悪寒のする身体からは運動後にかく汗とは違い、油混じりの汗が吹き出し、それが私の全身を包んだ。喉は異常なほど水を欲しているが、溜まる唾を飲み込むも喉を通らない。
「だからこそ私は変われた。孤独な人間は寂しがり屋で、現実から逃げているだけの弱者だと身をもって経験した。そしてそんな弱者を助けられる方法が、誰かが弱者に手を差し伸べることだとも知らされた。だから…。」
彼女は尻もちをついた私に近づくと、右手を私の顔の前に差し伸ばした。
「今度こそ私は、琴ちゃんを救ってみせる。」
生ぬるい風が彼女の長い前髪を払うと、右の額からは何らかの角でぶつけたような傷跡が露わになった。その傷は間違えなく、私が原因で付けてしまった消せることのない傷。
「…〇〇、ちゃん…。」
風に消された私の声は彼女には届かなかったが、彼女は私ににこりと微笑んでくれた。やさぐれてしまった彼女であったが、その微笑みは私が初めて憧れを覚えた当時と変わらぬ笑みであった。
「久しぶりだな、琴ちゃん。」
しばしの別離は再会をいっそう快いものにすると、詩人ジョン・ミルトンの著書「失楽園」に書かれてある。けれどそんなものはただの虚言にしか過ぎず、ゆっくりと刻んでいた時間は再び元の早さへと戻っていた。
******
お手洗いから戻ってきたときには、すでに琴美の姿は教室にはなかった。ただ荷物が残っていたことから、まだ学校にいることが分かり捜索しているが、琴美の姿を見ることはなかった。更には彼女の姿を見たという者もおらず、かれこれ三十分近く経過している。香奈にも手伝ってもらっているが、連絡がはいっておらず、それだけであちらの現状は理解できる。
一度教室に戻るも、いるのは真面目に勉強している数人と、私と香奈、そして琴美の鞄のみ。戻ってきていないか尋ねてみるも、結果はやはりノー。一向にスタートラインに立ったままである。
ただそれでも諦めないのが私の長所。彼女たちにお礼を言うと、私は豪快に扉を開けて廊下に飛び出した。そもそも琴美が見つからなければ、晩ご飯にありつけないわけで、私にとっては死活問題だ。…いや決して、食欲のために琴美を探しているわけでなく、恋人として当然の勤めでそのついで、みたいな。…琴美に聞かれれば終わりだろうな、私。
「ぅお!?って例の不良ちゃんじゃないか。放課後まで残って何してるんだ?喝上げ?」
「そんなことはしない…って…。」
派手に教室を飛び出すと、目の前には朝仕方なくお世話になった生徒会長の…。
「さ、さらす…。」
「何をだ、恥か?」
「名前っ!!」
この人を相手にするとわりと疲れを感じてしまう。…琴美もいつも、私のせいで疲れが溜まったりしていないかな。
「名前って、水瀬咲だよ。朝も言ったけど、咲とでも生徒会長とでも呼んでくれるのはいいけどさ、名前ぐらいは覚えてほしいっていうか。」
「ごめんなさい、興味ありませんから。」
「容赦ないな。」
咲ちゃん(覚えた)は苦笑いを浮かべながら、教室からこちらを眺めているクラスメートに踵を贈っている。何故、彼女がこれほどまで人気なのか分からない。彼女よりも、琴美の方が数千倍可愛いし。
「そういえば、琴美さんと一緒にいないけどどうしたんだ?痴話喧嘩か?」
「何でそうなる…って、琴美を見たの?どこで、いつ?」
「どうどう。落ち着けよ、な。」
つい熱くなってしまい必要以上に咲ちゃんに近づいてしまった私は、咄嗟に後退した。教室からの私の視線は痛いが、それよりも今は琴美の居場所を知るのが最優先事項である。
「そんな寂しそうな目をするなよ。何せ私は善人だからな。訊きたいことは何でも教えて上げるよ。」
「…いいから早く教えて。」
咲ちゃんに構っている余裕など、今の私には存在しない。
「そんな冷たいこと言うなよ。…ま、何か訳ありって顔してるし、あまり焦らさないでおくよ。」
そう言うと、咲ちゃんは廊下の端に人差し指を向けると、「あの先の階段ですれ違った」と手短に話してくれた。
たったそれだけの情報を頼りに走り出した私だったが、咲ちゃんに腕を掴まれずっこけてしまった。鼻を直撃しなかったのは良かったものの、額は赤くなっているだろう。見なくとも、肌の温度差で何となく分かる。
「ったぁ。ちょっと何するの?乙女の顔に傷が出来たらどう責任取るの?」
「乙女って。というか、最後まで聞かなかった不良ちゃんが悪いぞ。」
「だって」と言いそうになるも、確かに私が悪いのだ。怪我をしても仕方が無い。
「それに、今行っても多分、不良ちゃんがすることは無いと思うよ。」
「それってどういう…。」
私が咲ちゃんに問いただそうとした瞬間、上から女の人の叫び声が聞こえてきた。そしてその声の主は間違いなく琴美だ。毎日聞いている声だ、間違えれば恋人失格でも構わない。そのぐらい自信がある、ということだ。いや、呑気にそんなこと言っている場合ではない。
咲ちゃんが口にした言葉が気になるも、それどころではない私は咲ちゃんの手を振りほどくと階段へと走って行く。咲ちゃんもついてきているが、止めようとは思えなかった。
階段を一段飛ばしで駆け上がり廊下を端から端まで確認するも、教室にも廊下にも、琴美の姿は見つからなかった。しかし、ある変化をすぐに察知した私は「もしや」と再び階段に戻ってくると、さらに階段を駆け上がった。そして踊り場に差し掛かったところで、私が予測は的中した。
屋上へと通じる扉が半分ほど開いていたのだ。異様に空気が美味しいと感じたのはそのせいであろう。扉の先に琴美がいることも間違いない。
ただ予測外な事態も起きている。半開きになった扉の前には、私たちの担任である唯先生が外の様子を覗っていた。それが原因で、屋上の様子がよく見えない。強いて見えるのは、黒と金の長い髪が風に靡いている程度だ。
「…先生。そこ、どいてください。」
私の真面目な声に反応した唯先生は、その長い髪を耳にかけながらこちらに振り返ったきた。相変わらず、一々動作がエロい…というより、先生の存在自体がエロいというか。いや、今はそんなことに時間をかけている暇はない。
「あら、多田さんと水瀬さん。何か用かしら?屋上は今使用しているとこr…。」
「いいからそこどいてください。その先に琴美がいるのは知っているんです。」
容赦のない鋭い目つきに言葉を詰まらせた先生はいつもの白衣のポケットから飴を取り出すと、慣れた手つきで包装紙を取り外す。そして中身の飴を口に放り込み、ご丁寧に包装紙を折りたたんだ。
「…確かに、柊さんは屋上にいるわ。けれどこれより先に入るのであれば、私は教師としてではなく一人間として、多田さん、貴女を全力で止めるわ。」
コロコロと口の中で飴を転がす先生だが、私同様真剣な眼差しを送ってきている。先生が何を隠しているのかあらかた見当が付いているため、引き下がる考えは一切無い。それは先生も同じだろう。
両者睨み合ったまま時間だけが過ぎていき、現状打破するためにも一か八か特攻を試みようと、私は大きく息を吸い込んだ。これ以上時間が経ったところで、先生は絶対に引き下がらないだろうし、何より琴美が心配である。先生がこの場にいることから最悪の事態が起こりえ得ることはないが、だとしても何か起きていることは事実だ。
私が息を吸い込んだことにより勘づいた咲ちゃんは、「すみません」と先生に伝え、先生を取り押さえるような構えを取った。生徒会長と言えど、教師に手を出せばタダで済むはずがないにも関わらず、咲ちゃんは私に味方してくれるらしい。そんな自分の身など二の次の姿勢は、琴美と全く似ており心配になってしまう。
「無理しないで」と咲さんの耳元で伝え、答えを聞く前に私は走り…。
ドンっと派手に扉が開くと、琴美が屋上から出てきた。何故だか髪はボサボサになっており、顔も汗か涙でぐしゃぐしゃになっている。
そんな中、一番気になったのは頬の痣である。まだ少し赤いことから、怪我をしてからさほど時間が経っていないだろう。ただあんな痣、殴られたりしなければ付かないような…。
「…何してるの。」
張りのない声で問いただしてくる琴美は、真横にいる先生に一切目を合わせようとせず、私を鋭い視線で見つめてきた。こちらを覗う咲ちゃんに「大丈夫」と一言口にし、先ほどの位置から一歩前に出た。
「何って…。琴美の声がして、それで心配になって…。」
「私、鈴ちゃんなんて呼んでないよ。勝手に来ないでよ。」
冷たい言葉を琴美に吐かれ、私はショックで声が喉の奥へ引き返してしまう。以前にも冷たい言葉をかけられることはあったが、今回は比にならない。棘々しく、まるで私が悪いような…。
「…どうして鈴ちゃんは、私が会いたくないときに出てくるの。もう、いや…。」
独り言を呟いた琴美は、踊り場にいた私を突き飛ばし、そのまま階段を駆け下りていった。ショックで呆然としていた私はされるがまま突き飛ばされ、後ろにいた咲ちゃんにキャッチしてもらった。そこでやっと現実に戻ってきたのだが、その時にはもう琴美は一つ下の階にまで降りていた。追いかけなければと自分自身に言いかけるも、身体がそれを拒んでいる。
「大丈夫か不良ちゃん。私琴美さん追いかけるから、不良ちゃんは後で…。」
「琴ちゃんのことだ。そこまで遠いところに行けはしないだろ。」
屋上から出てきた少女は、咲ちゃんの言葉に重ねるように話しかけると、手に持っていたタバコを口に咥えた。目の前に唯先生がいるというのに、この子はなかなかの度胸を備え付けているのだろう。
それもそのはず。金色の髪は荒れた後のように乱れきっており、左耳には二つほど何かを付けている。見るからに不良なのだが、彼女の声はその外見に似合わない可愛らしいものであった。
「聞こえなかったか?琴ちゃんなら足遅いし、そこまで遠いところには行けやしないよ。」
彼女は息を吐くと一度タバコを手にし、私たちの方へと降りてくる。その間、唯先生は何一つ口出しするような動きはなく、一体何を考えているのか謎である。
「…編入早々校則違反とは、勇敢だな小坂さん。」
「やれるものならやってみろ。私を止められるのはトマトかキノコ辺りだよ。」
「なんだよそのセレクト。」
咲ちゃんがいう編入生は何故か自信ありげにどや顔を見せつけると、再びタバコを口に咥えた。…って、小坂って…。
「ん?何そんなに驚いてるんだ?あ、私の名前か。まぁ見たところクラスメートじゃないし、無理ないかもな。」
そういうと、小坂さんはさきほどタバコを持っていた手とは反対の手を差し伸ばすと、ニコリと微笑んでくれる。
「編入した小坂千夏だ。よろしく。」
彼女との出会いは私にとって最悪でもあり最高でもあった。ただ今は、琴美を傷つけた本人であるために、このときは敵とでしか見ることが出来なかった。




