You’re my Valentine.Ⅰ
アリスからバレンタインチョコを貰うのは、いつもバレンタイン翌日。それは本当たまたま、仕事が入っているのが原因だ。
別に、私自身は翌日でも構わない。当日に貰っても翌日に貰っても、アリスからのプレゼントに変わりはない。バレンタインが延期になった、それだけのことである。
バレンタインに関心がないような言い方だが、心底私は楽しみにしている。毎年アリスから貰うチョコは市販だが、私好みのものを買ってきてくれる。
それはそれで嬉しいのだが、一度くらいはアリスの手作りチョコを食べてみたいとは、忙しいアリスには決して言えない願いだ。
「よし、後は冷やせば完成。クッキーも、数分後って感じ。」
二月十四日の昼下がり。天気は晴天とお出掛け日和だが、私は毎年恒例のように、アリス用のバレンタインチョコを作っていた。アリスが当日渡せないため、少しでも傷めないようこうして日をずらして作ることにしている。
ブラックチョコを使用したザッハトルテを冷蔵庫に入れ、オーブンで焼いているクッキーに目を通す。まだ加熱してから約五分。焼けるているわけがない。
携帯のアラームを七分後に仕掛けると、私は「んっ」と両手を上げて伸びをする。オーブンで時間を計っても良いのだが、生憎、私が持つオーブンは少々ボロく、数字が表示されない。買い換えたいのも山々だが、そんなものを買っている余裕はない。
お昼を食べてからすぐに始めたものの、ケーキ作りは初めてなもので疲れが溜まる。もし琴美ちゃん伝授の簡単な作り方じゃなければ、もっと疲れが溜まっていただろう。
ーご飯作るのは何ともないのに、お菓子になると神経使うな。アリスのことを意識しているからかな?ー
「んっはぁ」と疲労の息を吐くと、エプロン姿のままマンションベランダへと出た。築五年の六階から見る景色は、ミニチュアの模型を見ているような感じだ。
物干しスタンドの位置を日当たりのよい所へずらすと、大きなため息をつき手すりにもたれ掛かった。
ー…ここに来て、もうすぐ一年か。去年の今頃は、確か大喧嘩していたっけ。ー
私の地元から今の高校までの距離は片道約五時間とかなり遠く、受験日まで私は祖父母と喧嘩していた。女の子が独り暮らしなんて危ない、遠い私立に行くぐらいなら近くの県立で良いじゃない。正論を突きつけられようとも、私の決意は揺るがなかった。
それは祖父母が嫌いだからという、感情的なことではない。むしろ好きだ。だからこそ、残りの人生を二人の自由にさせてあげたいという、私ができる精一杯の孝行だった。
けれど、そういった本音を口にすることが下手な私は、きつい言葉で二人に反抗してしまい、結局卒業式の翌日に昔両親が使っていたらしい通帳や洋服等をまとめ、逃げるように家から出て行った。今思えば、祖父母と共に此方へ引っ越すという方法があったが、あの人たちは「都会は馴染めない」とか言ってきっと嫌がるだろう。
ただ、ちゃんと謝らなければと、私は去年の年末にアリスと共に地元へ帰郷した。鈴は「琴美と過ごす」と言って来なかったため、二人っきりで旅行しているような気分だった。地元に帰省しただけだが。
家出した際に着用していたスカートに、偶然自宅の鍵が入っていたため、私はそれを使って約一年ぶりに戻ってきた。
ただ、「ただいま」と声を掛けても反応がなく、寝室に向かうと、そこには白髪で痩せ細った祖母が祭壇の前で悲しそうな顔で座っていた。
その表情を見た途端、私は全てを悟りその場で崩れ落ちてしまった。祖母が言うに、私が家に来る一週間前のことだった。
「もし私があのまま地元に残っていれば、祖父も長生き出来たかもしれない。結局私は、あの人たちを幸せにすることは出来なかったわけ…か。」
私は上空を見上げたまま大きく息を吐き、目頭に溜まった熱いものを指で拭き取った。あれから一ヶ月と少しが経ったにも関わらず、未だにあの時の祖母の顔を思い出すと自然に涙が出てくる。あれほど大喧嘩したにも関わらず、長年祖父母からの愛で育ってきた私だ。涙の一つや二つは出る。
崩れ落ちた後、アリスのおかげで何とか立ち直った私は、祖母の正面に立って謝罪した。祖母は「過ぎたことよ」と言って私を優しく抱きしめてくれた。懐かしい香りと包容感に、私は何かが切れた、祖母の胸の中で「ごめんなさい」と繰り返しながら泣きじゃくった。
その後、私たちは祖母の家に約四日ほど滞在した。その間、私とアリスは学校でのあれこれを昨日の出来事のように話して上げた。それを聞いていた祖母はとても嬉しそうで、その表情を見た私も喜ばしい限りであった。
そして九州でロケがあるというアリスのために、私は惜しみつつも地元を後にした。その際、祖母にこっちに来ないかと提案したが、祖母は地元で余生を楽しみたいと言って、私に一つの鍵を渡してくれた。
その意味が何となく分かってしまった私であったが、「また帰ってくるね」と祖母に告げ戻ってきた。
ー祖母はあの時、私がいるだけで幸せだって言ってくれた。そりゃそうだよ。何せ、ほとんど親子みたいなもんだし。ー
まだ幼稚園児ぐらいの子の手を握る親の姿に、私は昔の自分に置き換えてみる。あの頃は割りと感情を表に出すことが出来ていた。それが今でも続いていれば、こんな事にはなってなかったかもしれない。
はぁと大きなため息をついたと同時に、チャイムの音が部屋の中から聞こえてきた。日曜日の二時過ぎにチャイムなど、地元でも聞いたことがない。
エプロンを脱ぎ捨てパタパタと部屋の中を駆けた私は、インターホンで確認することなく「どちら様でしょうか」と扉を開いた。
「って、アリス。どうして…。」
「へへぇ。はろぉ。」
そこには、本日も仕事だと言っていたアリスが一回りサイズが大きい黒色のコート姿でヒラヒラと手を振って立っていた。
「いやぁ、外は寒いね。お邪魔させて貰うよ。」
「邪魔するなら帰って。そもそも、仕事はどうしたの?前々からあるとか言ってたのに。」
「え、仕事なら終わったよ。今日はCMの撮影だったから直ぐだったんだよねぇ。昼前には終わってたし。」
アリスは軽いノリのような勢いで話しているが、サラサラの銀髪には少々アイロンで巻いたような痕跡が残っていたり、化粧や口紅を塗っていたりと嘘は付いていない。ちゃんと仕事をしてから来たようだ。
「んてことで、おっじゃまぁ。うわっ、美味しそうな香りするんだけど、もしかしてお菓子作りの最中?」
いつの間にか私という壁を越えていたアリスは、マフラーを畳みながらリビングの方へと向かって行った。相変わらず、自由過ぎる。
「はいはい、そうですよ。貴女のためのお菓子をね。」
若干怒り気味でアリスに伝えると、廊下に脱ぎ捨てたエプロンを回収しようとする。が、何故か脱ぎ捨てたはずのエプロンがそこにはなかった。不思議に思うも、何故ないのかすぐに理解した。
リビングに戻ってくると、オーブン前でソワソワしながら私が着用していたエプロンを嗅ぐアリスの姿があった。絶賛人気者のはしたない姿を見れば、現アリスファンは減ること間違いない。
…と言うか、これで何回目だ。
「…あと数分待って。その間にコート脱いでハンガーにかける。」
「…香奈は私の母親…。」
「いいから早くする。」
エプロンには触れず、私は洗面所の場所を指差しアリスに行けと合図を送る。「はいはい」と少し拗ねたようにアリスは洗面所に向かうが、その間も私のエプロンを離さず嗅いでいた。
「香奈の香りがする」と私の所用物を嗅ぐ際にアリスはいつも言っているが、特に香りつきの柔軟剤を使っているわけでなく、匂いがハッキリとする香水は使用していない。近頃は「まさか、加齢臭?」と悩まされる時がある。
アリスが洗面所に向かったのを見送った私は、リビングに続く窓を閉じ、冷蔵庫の中で冷やしているザッハトルテを確認する。入れてからまだ数分、冷えているはずなどない。
ー今日の晩頃には出来る予定だけど、アリス、それまで待ってくれるかな…。…そんなわけないか。久々の休日だし、家に帰ってゆっくりしたいよね。ー
はぁと大きめのため息をつき、冷蔵庫の扉を丁寧に閉じた。
「香奈ぁ。今日、長居しても大丈夫?」
コートをかけ終えたアリスが、オーバーサイズの無地のVネックワンピースを着用した状態で戻ってきた。仕事が遅くなりアリスが寝泊まりすることは少なくなく、服や寝間着等も合わせ三日分は私の家に置いている。
「別に良いけど、まずズボン履いてくれる?」
オーバーサイズであるため膝下当たりまで隠れているものの、恋人としてはあまりそういった服装はしてほしくない。「香奈だけは特別だから」とアリスは口癖のように言うが、だからこそ止めて欲しいのだ。
ーそれにしても、長居するなんてクリスマス以来じゃないかな。最近やたらと仕事とか何とか言って、学校でも会えないし…。ー
口を三角に尖らしながら渋々ベランダで干している最中のデニムパンツを履くアリスは、一見何も考えていない典型的な馬鹿。けれど、祖父母に幸せになってほしい理由から地元を離れた私よりも、アリスは色々なモノを捨てると同時に、それ以上のモノを背負って地元を離れた。家族と縁まで切るなど、私には出来ない。
ーアリスの覚悟に比べれば、私の覚悟なんて足にも及ばないな。端から及ぶなんて考えてはないけど。ー
私の視線に気付いたアリスが、ベランダから手を振ってきたため、私も振り返す。投げキッスもアリスは送って来るが、さすがにそれは返せず、タイミング良く鳴ったアラームを口実に、私は見なかったことにした。死角で見えないが、きっとアリスは怒っているだろう。
こんなやり取りをしている間は、私とアリスが生活に余裕がある証。私は、犯罪がましいが両親の通帳と最近始めたバイトがあるため、大学入試までは何とかやっていけるかもしれない。
しかし、家族と縁を切ったアリスは、中学から貯めていたお小遣いと仕事のお給料が頼みの綱。もし、星城院アリスという女優が売れなくなってしまえば、仕事以外にも掛け持ちで何かを始めるかもしれない。お金には困らなくなるかもしれないが、そうなれば今まで以上にアリスと一緒には…。
そもそも、いつまでこの関係が続くの?
知りたくも聞きたくもない言葉が、幻となって現れたアリスの声で、そう私に問いかけてきた。
一生。死ぬまで私は、アリスのことを好きでいる。そう決めた。
幻を振り切ろうと断言した私は、オーブン側にあるグレーのオーブンミットを装着すると、素朴な香りがするオーブンの扉を開けた。
一生?無理に決まってるじゃん。私は才能があるけど、香奈は凡人。そんなので、釣り合うわけないじゃない。ここまで長続きするなんて、もはや奇跡みたいなもんでしょ?
「そんなことない。私が、アリスと別れるなんて…。」
言い切れるの?絶対、別れないって。長年育ってきて貰った祖父母にさえ、幸せに出来なかったのに?
「…幸せに出来なかっからこそ、私はアリスを幸せにするの。何がなんでも。」
オーブンから目を剃らし、幻のアリスの正面に立ち威圧的な眼光を送った。他者から見れば変人扱いされるが、私が見えているのであれば問題はない。
アリスの姿をした幻は不意を突かれたような驚いた表情を皮膚に浮かべたが、「あぁ、そうだったね」と何かを思い出したらしく、にんまりと笑みを作った。
そうだよね。香奈は誰かに依存して壊さないと生きることが出来ない…。今もあの時も、香奈は何一つ変わっていない。
「違うっ!そんなことないっ!私は、私はぁ!」
つい声を荒くした私は、幻を追い払おうと思いっきり殴りかかる。それを止めに入ったのは、正真正銘本物のアリスだった。
「香奈ぁ!」
アリスに呼ばれはっとなった私の前には、すでに幻はいなくなっており、代わりに、私の後ろにいたアリスに私は唇を奪われってしまった。
「へへぇ、いただきました。」と無垢な笑顔に似合わない少しセクシーな舌なめずりをするアリス。そして黙ったまま、アリスは私をぎゅっと包み込んでくれた。
「どうしたの、香奈。らしくないよ、暴れるなんて。」
「…ごめん。」
「別に謝ることはないよ。らしくないって言っただけだし。」
ポンポンと私の背中を叩くアリスの肩に、私の涙がじんわりと広がるのが確認できる。痕が残るといけないので離れたいが、先程までのやり取りの後だと、離れたくない気持ちが圧倒的に高い。
「…ねぇ、アリス。」
涙声をこらえ、何とかして私はいつも通りのトーンで話しかけることができた。「どうしたの?」とアリスは柔らかく受け止めてくれ、少しだけ気が楽になった私は再び声を発した。
「私たち、いつまで恋人でいられるのかな。」
私の発言に叩く手を止めたアリスは、わざとらしく「うーん。」と悩む素振りを見せる。多分、困ったような顔付きで。
「私が香奈のことを要らなくなったときかな?」
「え…。」
「冗談冗談。びっくりし…ごふぅ!」
本気だと思いショックになった私だが、冗談と知って安心する。が、一瞬でも私を絶望に落とした罪は一発殴ったぐらいでは済まされない。しかし、相手は超有名人。傷付けるわけにはいかない。
その場で跪いたアリスは「香奈に殴られたぁ。」と喜んでいるが、案外痛かったらしくお腹を擦っている。やり過ぎただろうか。いや、私の心を傷付けたのだ。むしろ、このぐらいの仕打ちをするのが当たり前。
「私が真剣に聞いてるのに、何でそんな冗談言うの。最悪っ。最低っ。バカっ。」
「ごめんごめん。そんなに怒るとは思ってなかったからさ。つい、ね?」
「ね?じゃないわよ!で、どうなの。私たちはいつまで恋人でいられるのよ。」
半分キレかけの私は体を前に曲げ、跪いているアリスの両頬を上下左右に引っ張ったり戻したりと繰り返す。「話せないよぉ」と情けない声で私の手を止めようとするも、私の怒りは早々治まりはしない。
大分落ち着いたのはそれから約三十秒ほど。私が雑に頬から手を離すと、アリスは「ありがと」と一言。赤くなった頬に手を当てつつ鼻で「ふっ」と笑うと、ぺたんと座りいつも耳にする呑気な口調で話し始めた。
「…確かに、私は有名人の身。そうなると、やっぱりプライベート写真とか撮られるから、香奈とは外でイチャイチャ出来ないし、万が一、私たちの関係がバレたら、私たちに対する世間の目は痛い。だから正直なところ、何度か別れようと思ったこともある。」
「アリス…。」
「けどね、香奈。私はもう決めたの。私は今後、何があろうとも、雅香奈の恋人でいる。一年後も、五年後も、十年後も。私はずっと側にいる。だから、いつまでなんて期限はないよ。」
自信気に鼻を上げ「ふんっ」と謎のドヤ顔を見せつけるアリス。いつもならムカつくその表情も、今はそれが、私の心に安らぎを与えてくれる。
「って言うか香奈。クリスマスにもこんな感じの話ししたよね。どれだけ私のこと好きなのよ。」
「な…。べ、別にいいじゃない。本当に別れたくないんだし。…大好きなんだから。」
顔を火照らせ後半ゴニョゴニョと独り言のように声に出す私に、「何か言った?」とアリスは首を少し傾げ、興味ありげな表情で見つめてきた。先程の発言を、アリスにわかるぐらいのボリュームで言えないことはない。と言うよりは聞いて欲しい。
しかし、琴美ちゃん同様に本音を言いづらい私は、いつものように仏頂面になると「何でも。」とアリスの口を右手で押さえつけた。アリスはもごもご口を動かすものの、私の手が防音となり何一つ聞こえない。きっと、「何なのよ!」とか言っているに違いない。
ーまぁでも、こうしている時間がある限りは、私はずっとアリスの側にいられるんだろな。期限なんてないってアリスは言ってたけれど、この時間が有限であることは確実。でも、それまではずっと一緒にいたいな。ー
アリスの抜きの人生を考えれば考えるほど、私の心は締め付けられているかのように苦しくなる。それは目眩、吐き気といった症状で出てくるほど。それぐらい、私にとってアリスのいない世界はありえないことなのだ。
一緒にいたいけど時間は有限。キスしたいけど傷付けたくない。好きでいたいけど…いつかは別れるときがくる。矛盾ばかりの恋愛だけれども、そんな恋愛をさせてくれるアリスに、今は感謝しかない。
だから…。
「って、うわぁ!?香奈、トレイ落としてるじゃん。あぁあ、クッキーなんて殆ど欠片じゃん。折角、香奈特製愛情たっぷりのラブクッキーが食べれると思ったのに…。」
「ねぇ、アリス。」
床に落ちているクッキーの断片を手にのせ落ち込んでいるアリスは、私の声を聞くなり「へぇ?」と女優としてらしからぬ声で顔を上げてくれた。そんなアリスに、私は目一杯の笑顔でアリスをお誘いしてみた。
「今からクッキ、一緒に作らない?」
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だからそれまで、私はアリスに嫌と言われるぐらい依存する。けれどその分、私は必ずアリスのことを幸せにしてみせる。この、限られた時間の中で…。




