嘘に決意を添えてⅨ
五分だけと言っていた私だったのだが、鈴ちゃんの肌の温もりに眠気が増し、気がつけば二人仲良く眠っていた。私が浅い眠りだったのが幸いだった。無論、鈴ちゃんはお腹に手を当てたまま赤子のように眠っていた。
とっくにタクシーが到着する時間を過ぎていたため、私が鈴ちゃんを担ごうとしたが、ちょうど小坂先生が教室の前を通っており、非力な私は小坂先生に貸しが出来てしまった。
それでもまだ眠る鈴ちゃんに、私は当然のように呆れた。
本当、鈴ちゃんって自由だな…。
半乾きの制服を洗濯機に畳んでいれると、私は携帯とタオルを持ったまま風呂場に入る。携帯に防水機能が付いてあるのは知っているのだが、万が一のことを考え透明のナイロンで包んである。
所持品を濡れない所にソッと置くと、冷えきった身体をシャワーで温める。シャワーの温度はいつもと変わらないのだが、身体が冷えきっていたためいつもより熱く感じる。
髪の毛、顔、身体の順でしっかりと洗い、浴槽に髪が入らないよう黒のバンスクリップでまとめあげる。ほぼ毎日髪を下ろしているので、こうしてまとめ上げるときはいつも落ち着かず、ムズムズする。
それでもお湯に浸かれば、伸びきった髪の毛は水面ギリギリである。私は一度立ち上がり、もう少し上にまとめて再びお湯に浸かる。今度はかなり余裕がある。
まとめ上げることが出来た達成感と今日の疲れを混ぜたため息が、水面にいびつな模様を描く。そして大きく息を吸い込むと、先に入った琴葉が入れたであろう入浴剤のラベンダーの香りが、鼻にこびりついていた唐揚げの香りを掻き消してくれる。
しばらくは、薄味で仕上げた魚がご飯のメインかな。和食を好んで食さない鈴ちゃんには、きっと不評だと思うけど…。
焼き魚を見て眉間にシワが寄る鈴ちゃんの姿が脳をよぎり、私は少し表情を緩めた。
浴槽から手を出すと、タオルでお湯を拭き取り携帯を手にする。メールボックスを開くと、文化祭実行委員である先輩方や同級生から多くのお疲れさまメールが送られていた。連絡ようにと先輩方に言われ追加したのだが、正直なところ、連絡以外の内容を送らないでほしい。あと、毎日メールするのも止めてほしい。
女子高生にもなると、これが普通なのかな?
とりあえず、親しい順にメールを読んでいき、一つずつそれなりに返信していく作業を開始させた。それぞれ言葉は違うが、約すると大体同じ内容だ。
作業開始から二分が経過したごろ、次のメールと思い開いたのは一番関わりのある先輩からのメールだった。実行委員早速直後、先輩が小坂先生とお菓子を食べていたのを見たときからの縁である。
う…。打ち上げするんだ。
一番関わりがあった先輩からのメールの内容は、実行委員全員で打ち上げ会をしようという内容だった。こういうお誘いは中学の頃もあったのだが、行ったことが一度もなかった。勿論、その理由はあれである。
先程までスムーズに動いていた指もいつの間にかピタリと止まっており、考えた末、日時と場所を尋ねるメッセージを送信した。高校は私のことを知っている人が少ない(はず)なので、ちょっとばかり良いのではと弱い私自身をつい甘やかしてしまう。この判断が吉となるか凶となるかは定かでない。
全てのメールに返信し携帯をタオルの上に置くと、髪を気にしつつ肩まで浸かる。今日の疲れが吹っ飛んでいくような感覚になるものの、実際、疲れは未だ溜まっている。明朝に登校さえしなければ、これほどまで疲れないであろう。
それにしても、今日が今年一番疲れたかも。
目を閉じて今年を少し振り返るが、これほどまで疲れたことがなく、同時にこれほどまで他人のために働いたことはなかった。生徒会の任期が十二月までであることも理由になるが、生徒会に所属していた頃よりも確実に疲れが溜まりこんでいる。
今こうして目を閉じているだけでも意識が飛んでいきそうになる。鈴ちゃんではないが、赤子のように眠りたい気分だ。幸い、明日は振り替え休業という名で急遽休みとなっている。その理由を知っているのは、明朝に登校してきた文化祭実行委員のみぞ知る。
明日はゆっくりと起きたいな。それで、お菓子作るか読書でもしようかな。
叶うはずもなかろう明日の予定を楽しそうにたてる私は、気がつけば鼻歌を歌っていた。
無意識のうちに奏でていたのは、所謂クラッシックである。この曲には、私自身の良い思い出や悪い思い出がまるで宝箱の中身のように沢山詰まっている。
元々音楽が好きな私なのだが、スピード感のある曲はあまり好むようなタイプではなかった。勢い任せの曲など聞きたくもなかった。そんな私にこんな曲を教えてきたあの人は、やはり学習しないのだろう。
…。
「…あの人、今ごろ何しているんだろ。」
しばらくして、タイトルの知らず歌っていた鼻歌をピタリと止めた私の口からは、昔だと言うはずもない言葉を吐いていた。けれど、そんな私自身に私は驚くことはなかった。あれほど腐っていた過去の私の面影は日を重ねることに薄まっている。それは良いことなのだが、過去を忘れる私自身に近頃恐怖を感じている。
右手をお湯から出すと、その手を大きく広げて視線の先にやる。夏休み前までは、こうするだけであの日の光景や感覚が走馬灯のように蘇っていたが、今は少し違う。
あの時握っていた木の触り心地はツルツルとしていたが、そんな感覚は残っておらず、その先から液体が滴る感覚ぐらいしか覚えていない。また、あの日の天候が曖昧になってきている。日が出ていたことまでは覚えているのだが、それが朝なのか、または昼間なのか、それとも夕方なのか定かでは無くなってきていた。元々人間は優れた忘却能力がある、と聞いたことはあるがそれだけで片付けて良いようなことではない。
その手を再びお湯につける前に、首もとにしているペンダントに手をやる。所々錆び付いている金色のチェーンに可愛らしいネコのキーホルダーらしきものが付いており、見る限り安物である。前に「もっとオシャレなのにすれば?」と愛ちゃんに言われたことがあり、私自身、確かにとは思っている。
それでも私は「これで良いの」と毎日のように付けている。さすがに、体育大会当日はポケットにしまっておいたのだが。
これを付けている私を見たクラスメートは、「彼氏から?」「俳優の◯◯さん?」「母親のファン?」などと責めるように問い詰めてくる。彼氏などいたこともなく、赤の他人からのプレゼントは一切受け取らないと彼女たちに説明するのだが、彼女たちはにやにやとこちらを見てくるばかりである。女の勘が鋭いと思ったのはあの時だろうか。
勿論、彼氏やファンから貰ったものではない。万が一頂いても、私は直ぐ様それをナイロン袋に封じ込むだろう。万が一のことがあればだけども…。
このペンダントも、タイトルの知らないあの曲と同じくらい、いやそれ以上に良い思い出も悪い思い出も詰まっている。そして、何かしらの形が残っているからこそ、私はまだあの日のことを覚えている。忘れたい過去だというのに、私の中ではいつしか忘れたくない過去にもなっていた。
ーそりゃ忘れられないよ。大切な人を貴女の私情で、貴女自身が傷付けたのだから。ー
私の頭の中で考えていたことを、あの人らしき声となって脳に響く。三年となった今、あの人の声はもうほとんど残っていない。覚えているとすれば、「優しかった性格に合う透き通るような声」ぐらいである。あと、喋り方は覚えており、脳に響いている喋り方はあの人ではないことに、私は違和感を感じている。
けれどその情報のみしか覚えておらず、いくら「透き通るような声 中学生」と検索して聞いても思い出せなかった。
いつしか私の脳内には、私とあの人が面と向かって立っている様子が浮かび上がっていた。
ーうるさい…。ー
ー私だから傷付けたんでしょ?身近で親しくて貴女のことを理解してくれていて。きっと、私なら貴女のことをわかってくれる、そう思ったんでしょ?ー
ー…違う。ー
ーだけどね、私は貴女じゃないんだよ。貴女のことなんてこれっぽっちも理解したことないから。ー
ー黙ってよ。偽りのあの人の声なんか聞きたくない。あの人はそんな事絶対に…。ー
ー言わない、なんて断言できるの?他人の気持ちを理解しようとせず、その気持ちを踏みにじるような言葉を今でも吐きそうになる貴女に、そんなこと言えるの?ー
ーそれは…。ー
ー絶対的な関係なんてない。どんな関係でも、どこかに必ず傷はある。たとえ、目に見えないような小さな傷だとしても、触れてしまえば波紋のように拡がって、やがては関係が崩壊する、そう言ったのは貴女でしょ?ー
ー…。ー
ーそれを知っていて、貴女は私の傷に触れた。そんなことされた私の気持ちを、貴女は理解しようとした?ー
ーけどあの人は、あの日以降も私に優しく接してくれた。だから、変なこと言わな…。ー
ー貴女だって、我慢していた頃は偽ってたじゃない?それと同じよ。知っているでしょ?私が貴女以上に我慢強いってことは。ー
ーでも…!ー
ー覚えといて。いつかまた、貴女は同じことを繰り返す。私と同じ、いやそれ以上のことを。貴女はそれを望んでいないように見せているけど、それがバレたとき、貴女はもう貴女には戻れ…。ー
「うるさいっ!!いい加減黙ってよ!!」
私は大声を叫び頭を抱える。あの人の姿は頭から遠退いたと同時に、黒い世界の中にいる私の回りからはあの日の声が聞こえてきている。悲痛な叫び、狂気に満ちた笑い、怒鳴り声。その声は次第に大きくなっていき、頭痛もピークになってくる。
「止めて…。そんな声、私はもう聞きたくない。」
ぎゅっと瞑った目からは、一つ、また一つ涙が落ちていく。水面に涙が落ちる音が、今の私には悲鳴に聞こえる。
「おねぇちゃん!大丈夫!?」
キッチンから琴葉らしくない声が悲鳴と共に聞こえてくると思えば、ドタドタと走って勢いよく扉を開ける。琴葉は私の身体がびしょ濡れであることを知りながら、私を強く抱きしめる。
「おねぇちゃん大丈夫?また思い出した…。」
「琴葉っ!」
琴葉の声を無視した私は、琴葉をしっかりと抱きしめる。何事もなかった可愛らしいエプロンは、すぐにお湯で濡れてしまう。
私の大きな声に少し驚く琴葉だったが、すぐに私の頭を優しく撫でてくれる。
「何があったの?最近は落ち着いていたけれど、またあの時のこと思い出したの?」
いつもと立場が一転しているものの、気にすることなく私はあったことを震えた声で話した。
「今日徹君に会ってから、いつもより遥かに声が聞こえてくる、私が考えていることがあの人の声で響いてくるの。それに、暗くて何も見えない世界から、叫び声が止まらなくて…。」
うんうんと、私の言葉に琴葉は一つ一つ頷いてくれる。思い出したとき、琴葉はいつもこうして私の話を聞いてくれる。
そして私がひとしきり話終えると、琴葉は私の顔をグイッと上げる。今、どんな酷い顔で琴葉を見ているのか考えたくもない私は、ただされるがままに琴葉の目を見る。その瞬間、何も見えない世界が真っ白に染まる。それと同時に、止まなかった悲鳴がピタリと止む。
「おねぇちゃん。私の顔見える?私の名前もわかる?」
いつもと変わらない質問に、私は首を縦に振る。前に、今以上に荒れたことがあり、一日ほど屍のようになっていたことがある。その際、私の頭の中は何もなく、琴葉の顔は見えず名前も思い出せなかった。
そのため、もし同じことが起きたとしても早めに対処するようにと、認知症対策のような質問をさせるようにしている。
大丈夫なことを確認した琴葉は安堵の息をつくと、タオルの上に携帯を置いてあることに気づく。一度お風呂の中で雑誌を落としたことがあり、お風呂には何も持ち込むなと琴葉にキツく言われている。
そのため、目を鋭くするものの、それに触れることなく私と一緒に立ち上がる。
「とりあえず湯冷めするから出よ?ご飯食べれそ?」
琴葉と鈴ちゃんには悪いのだが、食欲を一切感じない。まぁもし食欲があったとしても、今の状態では喉を通らないだろう。
横に顔を振る私を確認した琴葉は、「ラップしとくね。」と私に伝え、私から離れるとまだ震えている手を握ってくれる。鈴ちゃんよりも小さな手の温かさを感じると、私は小さくごめんと呟く。
その後、私は琴葉に連れられお風呂場から出た。タオルでお湯を拭き取り、最近購入した黒の下着を着用した後無地の白ティーシャツを着る。
ドライヤーで髪を乾かそうとすると、私がやると琴葉がドライヤーを半ば強引に手にする。その方が事は早く済むと思ったのだろう。
琴葉に言われるがまま、私は椅子に腰かける。琴葉が私の髪を乾かしている間に、出来るだけ早く済まそうと洗面台に置いてある保湿クリームを手にし肌に馴染ませる。乾燥肌の私はこの時期になると欠かさず塗っている。
クリームを塗り終えると、私は琴葉とは違う気配を感じ、正面にある鏡で確認する。足音が一つではなかっときから薄々気付いていたが、廊下から心配そうに鈴ちゃんが見ていた。
…そうだよね。あんな大きな声出したら、鈴ちゃんに丸聞こえだよね。
普通の私ならば恥ずかしく頬を照らすのだが、今はそんな気にはなれない。恥ずかしさよりもずっと、胸のズキズキに意識が向く。
ドライヤーの電源を落とした琴葉を確認すると、私はゆっくりと立ち上がり洗面所から出る。その足取りは鉄の塊を足に付けた鉄鎖で引きずっているかのように重い。
「あ、こと…。」
鈴ちゃんは私の手に触れようとしたが、私から出ている負のオーラを感じ、すぐに手を止めてしまう。鈴ちゃんはさらに心配そうにこちらを眺めるが、その目が今の私には毒である。今はそんなタイミングではない、そう私の脳が告げていることもあるが。
私は鈴ちゃんを見向きもせず、そのまま素通りし階段を上がる。下から鈴ちゃんが琴葉に問い詰めているが、琴葉は決して口を割らないだろう。私がそう厳しく伝えている。
その声は私が部屋に入るまで耳に入り、部屋の扉を閉じた途端、その声は全て遮断された。
そして、私はそのまま崩れ、声を殺しながら泣いた。今日の楽しかった思い出が崩れていくかのように、しばらくの間泣きに泣いた。




