嘘に決意を添えてⅦ
真っ赤な紅葉の模様を手で抑えながら、彼は一つ一つ話をしてくれた。元々成績は良かったのだが、何しろコミュニケーション能力が著しく悪く日本語での説明が下手な彼の話は、私の心の傷を深く抉ると共にかなりの疲労を感じさせた。
それでも私は、彼の言葉一つ一つに耳を傾け、何故彼が私の前に現れたのか、彼が話したかったことが本題に入る前にある程度理解していた。
別に私から本題を口にすることは簡単だ。けれど、彼が話そうとしている本題の答えを今の私は持っていなかった。いや、正確には持つ権利が無いとでも言おう。
鈍い彼は、本題を話す前に私が理解したことに気付いていないだろう。きっと、私の脳の片隅から「あれ」を蘇らせないようにと。彼なりの気遣いなのだろうなのだが、正直に言うと無駄な話はしないでほしい。
私に注ぐ彼の視線は真剣で、私は長々と話す彼の話に耳をする。中学生の頃ならば、今頃私自身が本題を口にして、適当に答えてはいおしまい、というように自問自答のような形で話を勝手に終わらせていただろう。
あの時に比べると、今の私は随分とお人好しになっている。きっと、元同級生がおらず、私のことをほとんど知らない人たちが周りにいたからだろう。舞ちゃんや愛ちゃん、香奈ちゃんにアリスちゃん。そして、鈴ちゃん。
私を信じきって近づいてくる人たちは、ごく一部を除いて本気で私を信じている。柊の姓を持つ私を、「あの柊の娘」と言う人は次第にいなくなっていた。
だからこそ…私は……。
裏切られるのが、何よりも…怖い。
思い出したくない過去、後戻りできない過去が彼の発する言葉と共に、私の心臓を蜂の巣のように撃ち続けた。それはあの時と同じ苦しみや痛み、吐き気、そして、罪悪感すらも感じさせた。彼の発する言葉が実弾ならば、今すぐにでも撃ち抜いてほしい。
思い出せば必ず起きる頭痛を我慢し、私は彼から本題を口にするのを待ち続けた。せめて、あの時と描写がフラッシュバックする前に、彼の口から告げてくれれば有り難いが、彼は鈍い。気付くはずもないだろう。
「…で本題に入るけど。」
無駄話を途中で切り上げた彼の口から「本題」という言葉を耳にした私は、フラッシュバック寸前で意識を戻す。
十月下旬もとなると大分涼しく風が冷たい。額から流れていた汗が風に運ばれると、私の体は急激に冷え小さなくしゃみを一つ。
彼は心配そうにコートを私にかけてくれる。煙草の臭いがこびりついているコートはとても暖かい。けれどやはり、臭いが無理だと言って私は突き返した。その時の彼は少しショックだったのだろう、寂しそうな顔をしていた。そんなに着てほしいのか。
「周りの人間は元…いやお前を心配している。クラスメートの奴等や中学の時の先生もだ。」
寂しそうな顔を引っ込めた彼は、また凛とした顔つきになる。
私は周りに知り合いや先生方がいないことを確認し、彼に伝わる程度の声で発した。
「心配って…。私はあの時、もう皆に心配させるようなことはしてきていない。心配されないように、皆がいない高校に…。」
「そんなことして、奴等が安心するとでも思ったのか。全員じゃなくても、俺とあいつは心配する。」
小さな声を掻き消す彼の声は、周りの人を驚かせ「何あれ?痴話喧嘩?」「別れ話?」などと周りの人はこそこそと話を進めている。まぁ、男の子が女の子に怒鳴るような態度で接している状況を見れば、誰でもそう思うだろう。
彼は周りの人に鋭い視線を突きつけると、周りの人は見なかった「ふり」をしながらその場から立ち去っていく。誰でもわかるような下手なふりをする彼等に、私は怒りを我慢する。
彼は頭を冷やすかのようにペットボトルの水を飲み干すと、押し潰すようにペットボトルをぐちゃぐちゃに丸めた。彼も彼で怒っているみたいだが、彼が何故怒るのか、動機が理解できない。
怒りがまだ収まっていない彼は、怒りを露にしたまま再び声を発し始めた。
「俺とあいつは、お前とは小学生(餓鬼)からの付き合いだ。他人が見てわからないことがあっても、俺とあいつはわかる。」
彼はベンチの下に隠すようにして置かれてあるショルダーバッグを取り出すと、中から大量の紙が入ってある無地のファイルを二つほど私に押し付ける。
大量の紙を見て確認する気が失せたのだが、彼が引こうとする様子はなく、私はファイルを雑に受け取った。
ファイルの中にある大量の紙は、どれも私に関するものだった。中学の頃のテスト用紙や提出プリント、学校アンケートまでもが入ったある。さすがに三年分もはないはずだが、それでも一学期分はあるだろう。
「入手ルートは秘密だけど、お前の三年分の資料は俺の家に保管してある。」
「…ストーカーなの?それとも、ただの変態さん?」
「ストーカーでも変態でもねぇけど…。まぁ、そう感じるのも無理もねぇか。」
今すぐにでも警察に通報してやろうかと思いつつ、私は大量の紙に目を通す。二つあるファイルの中身は、一つはあの日以前の提出物、そして、もう一つはあの日以降のもの。それだけでも、私は本当に彼が理解していることがわかってしまった。
「書いた本人だしすぐにわかるだろ。」
彼にはもうバレている。黙ったところで、結局彼の口から告げられるのを知りながら、私は口を閉ざす。
「成績優秀の癖に、お前は忘れっぽい性質だ。テスト用紙の名前の書き忘れや大事な提出物の必須欄の書き忘れなんて、小学生(餓鬼)の頃から変わってねぇ。けど…。」
彼は私が手にするファイルから数枚紙を手にすると、どこかの水戸黄門のように印籠、ではなく紙を見せつける。
「あの日以降の書き忘れは尋常じゃない。三年の頃の名前記入欄、意図的に書いてなかっただろう。」
彼の発言を聞いた私は、彼が手にしている紙を強引に奪うと、それを粉微塵にまで破る。紙を破ることだけに気がいっていたので、今、どんな顔をしているのかわからない。
けれど、どんな顔で私は紙を破っているのか、知りたくない。
私の太股の上に置いてあるファイルに、粉々となった紙がヒラヒラと舞い降りる。見える範囲内の名前の記入欄に、私の名前は一つも書かれていなかった。
「…お前がよく職員室に呼ばれる理由が、これを見たときハッキリとわかったんだ。」
彼はポケットからハンカチを取り出すと、私の目の辺りを拭き取ってくれる。どうやら泣いていたみたいなのだが、泣いているという実感がなく、私はしばらく理解できなかった。タバコの香りで包まれている彼だが、ハンカチだけは石鹸の香りで包まれている。その香りが、さらに罪悪感を感じさせる。
「だからな、高校受験のときも意図的に書かなかったんじゃないかってな。…そこのところはどうなんだ。」
彼のハンカチを手にすると、私はそれで両目を隠す。そして、肩を小さく震わせながら、私は小さく頷いた。
私が目指していた高校は、中学校に入る前から私の目標で、私は日々努力していた。成績優秀なのはそのためでもあるだろう。あの日のことがなければ、私は今頃目標の高校に行っていたはずだ。
けれど、完全に壊れた私は空っぽになっていた。もうこれ以上誰にも迷惑をかけたくない、もう誰にも頼らない。そう決めた私は、自らが持つ性質を利用して目標であった高校をわざと落ちた。
勿論、目標であった高校に通いたくなかったわけではない。出来ることなら、今すぐにでも編入試験を受けて入学したい。そのために、私は努力してきた。
けれど今さら私が入ったところで、満面の笑みを浮かべただ嘘をついてきた私は、元同級生(彼等)にどんな顔で接すれば良いかわからない。
それは元同級生(彼等)も同じはずだ。昔のことはといえ、未だ私を拒む人は少なからずいる。どれだけ私が謝ったとしても、私を拒む人の気持ちは変わることはないだろう。
元同級生がいる以上、そこに私の居場所はない。だから、私から進んで一人になろうとした。けれど結局、予想の斜め上の事態に私は一人になることを諦め、せめてもと思い私は心を閉ざしていた。
あぁ、また吸ってるんだ。
ハンカチから放たれている石鹸の香りに、タバコの嫌な臭いが混ざり、私はしばらく息を止める。
ふぅーっと彼が息をすると、彼は私が手にしてあるハンカチを取り上げる。それに瞬時に反応した私は、彼がハンカチを手にすると、すぐに両手で顔を隠した。恥ずかしくて見せたくない。
「別に俺は怒ってないし、怒る権利もない。むしろ共犯者だ。あの場にいながらも、俺はお前に何もしてやれなかった…。」
そう言うと、彼はベンチから立ち上がり私の目の前に立つ。そしてよく分からない音を発てていたので、私は指と指の間からちらりと彼を覗く。
すると、私の目線の先には額を地面につけて土下座する彼の姿があった。言うまでもないが、周りからの視線はかなり痛い。
「な、何もそこまでしなくても…。」
「いや、こうでもしねぇと俺の気が晴れねぇ。」
「…でも…。」
彼は多分知らないだろうが、あの日から数日後、私の家の前には多くの元同級生やその保護者がいたことがあった。あの日起きたことは私に行われていたいじめだと学校側が判断し、謝罪に来たらしい。
彼等が悪いのは事実である。けれど、罪を犯したのは私であり、謝るべきなのは彼等ではなく私であった。
にも関わらず、私は謝られた。それこそ、ある家族は土下座までしていた。罪悪感はあったものの、それはすぐに波に連れ去られていった。
だからこそ、今感じる罪悪感もすぐに流されてしまうのかと思っていた。流されてほしかった。
でも、その罪悪感は流されることなく、逆に砂浜に潜り込んでしまっている。砂浜に手を突っ込んで引きずり出そうとしても、手の届かないところまで潜り込む。
そうやって、段々段々と潜り込んでしまい、いつしか事後と同じぐらいにまで私の心は堕ちようとしていた。何とかして耐えているものの、目と鼻の先である。
「あの時のこと、そりゃあいつは恨んでいる。夢に出てきたときは、狂ったように荒れている。」
彼はまだ頭を下げている。私が何を言おうと、今の彼に私の言葉は聞こえないだろう。
「けど、あいつはお前を恨んでいる以上に、お前のことを心配している。俺より長い付き合いなんだろ?そのぐらい、お前自身が分かってることだろ。」
彼はやっと頭をあげると、私の目の前に立つ。数ヵ月見ない内に、確実に彼の身長は伸びている。彼の視線に合わせようとする私の顔の位置が、数ヵ月前より高い。
「だからよ、話ぐらいはしてもいいんじゃねぇか?」
彼は私の膝の上に紙切れを置くと、服装を正し始める。彼が服装を正している間に、私は膝の上に置かれた紙切れを手にし目を通す。そこには、メールアドレスと現在の住所らしきものが汚い字で書かれてあった。きっと、あの人のものだろう。
住所…。昔と違う場所にあるんだ。
私はそれを小さく畳むと、ポケットにしまう。メールアドレスと住所なのは、面と向かって話す勇気がない私に対する彼なりの考慮であろう。
「…ありがと。」
私は彼に聞こえるか聞こえないかの声で呟くと、私は彼にバレぬよう頬の力を弱めた。
目にかかる髪の毛を払おうとすると、遠くから私を呼ぶような声が微かに聞こえていることに気づいた。声からしてほぼ百パーセント鈴ちゃんだ。
「そろそろ潮時って感じか。」
残念そうに言う彼だが、その表情は残念、寂しいというより嬉しいとしか感じ取れなかった。
彼はポケットから小銭を取り出すと、無理矢理私の手で握らせる。その強引さに、私は引き気味になる。
「そんな嫌そうな顔すんなよ。」
「別に、君には関係ないことよ。」
彼の言葉を叩くように返すと、触れている彼の手は私から離れる。
「…あのさ、別れる前にもう一度聞いときたいんだ。」
彼らしくない弱々しい声を出す彼に、私は少しばかり心配になる。けれど、どうせ彼のことだ。またろくでもないことだろう。
私は「何ぃ?」と首を小さく傾け彼に問う。そんな私をチラリと見るなり、彼の耳は赤く染まる。
「やっぱりさ、俺は駄目なのか?」
頭を掻きよそ見をしながら、彼はタバコを地面に捨て火を踏み消す。そして、彼はそのタバコの吸い殻を拾う。彼は雑なところがあるが、ポイ捨ては絶対にしない。彼の目の前でポイ捨てをした日には、今日が命日だと思った方がよい。
「…残念だけど、私にはあの子がいるの。」
私は彼にそう告げると、遠くから走ってやってくる鈴ちゃんに視線をやる。小さいのでまだよく顔は見えないが、大きく手を振っている姿はよく見える。
「…彼女にはあの日のこと、話したのか?」
彼の問いに、鈴ちゃんの方を見ながら首を横に振る。
「でも、あの子にもいつか話すよ。だって、私の恋人なんですし。」
彼にそう笑顔で伝えると、彼は驚く表情を見せる。けれど、すぐに一緒になって笑ってくれた。きっと、彼は知っているのだろうと思う。あの人と今でも仲が良さそうなので、あの人から色々聞いたのだろう。
彼はラスト一個の冷えた唐揚げを口にいれると、「ご馳走さま」と私に向け、背中を向け立ち去っていく。
「…ねぇ君。」
彼を呼ぶ私の声に反応し、彼はピタリと足を止める。けれど、こちらを見る素振りは一切しない。
「色々とありがと。…今度お礼させてよ。」
彼は私の言葉に返答することなく、また足を動かし始めた。




