例えこれが恋だとしてもⅠ
雲ひとつない晴天。鳴り止むことがない蝉の声。開いた窓から入ってくる適度に涼しい風。外からは愛ちゃんたちの楽しそうな声が聞こえてくる。一体、何を話しているのかと私は気になる。
今日から私たちの高校は、夏休みに入った。けれど、私たちのクラス科は、夏休みに補習がある。そのため、実質夏休みとは言えない。まぁ、お昼までには終わるのだが…
「鈴ちゃん。授業終わったよ。いつまで寝ているつもり?」
私は鈴ちゃんをゆさゆさと揺らす。けれど、眉ひとつ動かさずに鈴ちゃんは寝ている。昨日の晩は遅くまで起きていたからだろう。
「早くしないと電車に間に合わないよ。」
いくら私が言おうとも、鈴ちゃんはいっこうに起きてくれません。これには私もお手上げだ。
とりあえず私は、鈴ちゃんの鞄に授業道具を入れとこうと思い、ロッカーから鞄を出したときに、鈴ちゃんはむくりと起きました。まだ眠そうで、目をごしごしと擦っている。
「鈴ちゃん、今ならまだ間に合うから、さっさと駅に行くよ。」
私は鈴ちゃんに鞄を渡す。まだ完全に目覚めていない鈴ちゃんは、頷いているのか寝かけているのかよくわからない。
私は頭を抱えた。もはや打つ手はほとんど出し切っており、一つ手があるとすれば、それは最終兵器だ。それでも起きなければ、私は鈴ちゃんをほって帰るだろう。
私は教室を見渡す。私と鈴ちゃん以外は帰っているのは知っているが、保険のためだ。もしバレてしまうと、この状況では私が襲っているようにしか見えないからだ。
誰もいないよね。
私は確認を終え、鈴ちゃんを見る。私がちょっと目を離した間に、鈴ちゃんはもう寝ている。やはり、最終兵器を使わなければと、私は覚悟を決めた。
私は鈴ちゃんの前髪をあげ、鈴ちゃんの顔がハッキリと見えるようにする。口からよだれが少し垂れている。相変わらず無防備だ。
私が男の子だったら、今頃鈴ちゃんをどうしてたんだろうな…。
そんな変な考えが頭の中に浮かび上がり、私は急いでかきけす。
私は正気に戻ったあと、ハンカチを取り出し、鈴ちゃんの口から出ているよだれを拭き取った。ハンカチを鈴ちゃんの口から離したとき、一瞬、よだれが糸のようにハンカチと繋がっていた。
それを見た途端、今から鈴ちゃんにする行為に改めて恥ずかしいと感じた私は、耳たぶまで赤く染まります。
私はハンカチを机に置き、鈴ちゃんの横の席に座った。拭き取ったよだれは後で処理をしようと考えた。
「…んーー…。あれぇ、琴美ぃ?」
私が考えていたときに鈴ちゃんが目覚めた。完全に目覚めてはないが、先程よりはましな状態だ。
私は心を落ち着かせ、鈴ちゃんに話しかけた。
「り、鈴ちゃん。今からなら、まだ電車に間に合うよ。」
私は落ち着いたものの、まだ動揺している。それは、まだ少しだけ、鈴ちゃんの口元によだれが残っているからだ。
私は鈴ちゃんの口元から目線を離したが、気になって仕方がない。当の本人が気にしていないのだが…。
鈴ちゃんはボーッとした顔で私を見る。
「何、鈴ちゃん?そんなにじろじろ見て。」
私は鈴ちゃんに尋ねる。けれど、鈴ちゃんは私の言葉に反応しなかった。
私は鈴ちゃんをちらりと見る。夏服のワイシャツが第二ボタンまで開いており、そこからチラリと小さな胸が見えている。無防備にもほどがある。
すると鈴ちゃんは、急に私に抱きついてきた。
「え!?ちょ、ちょっと鈴ちゃん!?」
急なことに私は驚く。しかし…
「んーー…。大きなフワフワのパンだぁ…。」
抱き枕に抱きついているかのように鈴ちゃんが私を抱き締めてくる。けれど、鈴ちゃんの夢の中では、私はきっと大きくて柔らかいパンなのだろう。
私は呆れてため息をつき、席に座る。この時点で、私たちが一番早い電車に乗れないことは確定した。次の電車までは三十分ほどある。このまま、私自身も鈴ちゃんと一緒に寝ようかと考える。
私が黙々と考えていると、私に抱きついている鈴ちゃんが私の顔に近寄る。いくら鈴ちゃんが寝ていたとしても、これはかつてないほどにヤバい状況だ。抱きつかれているため、一切の抵抗ができない。
どうにかして鈴ちゃんを止めなくては…。
私は鈴ちゃんを止める方法を考えようとしたが、その必要はなかったらしい。
「いただきまぁすぅ。」
鈴ちゃんはそう寝言を言い、私の耳にかぶりついた。どうやら、夢の中でパンにかぶりついたらしい。
鈴ちゃんは私の耳をハムハムと甘噛みしているので、至って痛いとは思わない。けれど、甘噛みをすればするほど耳によだれがつく。そしてそのまま、鈴ちゃんのよだれが私の耳の中に入っていった。かなり気持ちが良いものではないが、悪いというわけでもない…。
私は耳の中の奥に入らないように動かそうとしたが、徐々に入っていく。奥に入ろうとしたその時だった。
ガブッ!
鈴ちゃんが私の耳を勢いよく歯をたてて噛みつく。きっと夢の中のパンが固かったのだろう。
「っっっっ!!」
私は驚き、席から勢いよく立ち上がった。鈴ちゃんが抱きついているのだが、私より軽い鈴ちゃんは私に抱きついたまま立ち上がった。
その時に、鈴ちゃんのよだれが耳の奥に入ってきた。
鈴ちゃんは私に抱きついたままだったが、ほぼすぐに離れ、床に落ちた。けれど、私は痛さのあまり鈴ちゃんを構うことが出来なかった。
「痛っっっったぁぁぁぁぁぁ!!!」
私はその場で大きな声で叫んだ。その声は校内中に響いたらしく、先生方がやって来たのはすぐだった。
「ごめんね、琴美。」
鈴ちゃんが手を合わせて私に謝る。
「別に、怒ってないから。」
そう言いながらも、私はムスっとする。未だに耳はズキズキしている。あのあと、保健室に行き見てもらった。その時に、耳に付いた歯形から血が出ていたことに私は気づいた。けれど、絆創膏を貼ろうにも貼れないため、とりあえず氷水が入った袋で冷やしている。
私たちはこの間、舞ちゃんと買い出しした商店街にあるカフェ「はんでぃ。」で休んでいた。電車には結局間に合わず、次の電車がくるまでの時間を潰そうと思ったからだ。
私は先ほどやって来たチョコドーナツを頂く。ビターチョコを使っているのが、この店の特徴だ。チョコが苦手な鈴ちゃんですら、ここのチョコドーナツは食べれるのだ。
「まだ…怒っているよね、琴美。」
鈴ちゃんは未だに私を気にしている様子だ。私はチョコドーナツから口を離し、それを皿の上に置く。
「だから、怒ってないから。」
私は鈴ちゃんから視線を離したとき、耳に痛みが走ったため、直ぐ様氷水を入れた袋で耳に当てる。応急処置らしいので、家に帰ったあと病院に行く予定だ。
鈴ちゃんは私の痛さの様子を見て、私の横にやってくる。私は鈴ちゃんの存在に気付き、氷水を入れた袋を置いた。けれど、鈴ちゃんの顔は見ない。
「…どうしたの?怒ってないから…。」
私はそう言って、ホット珈琲を啜る。この時季にホットを飲むひとは少ないだろう。何せ今日の最高気温は、今のところ今年最高である。外にいるだけで汗が吹き出るぐらいだ。
私が珈琲を置いたとき、その手を鈴ちゃんの手が上から重ねた。そして、直ぐ様鈴ちゃんが私に近寄る。
鈴ちゃんは私の耳にキスをし、また席に戻っていく。
席に座った鈴ちゃんは、照れくさそうに頬を人指し指でかく。
「その…。は、早く治るおまじない…。」
小学生かっ。と私は言いたかったが、それをグッとこらえた。唇の感触が耳に残っている。
私は小さく口を開いたが、すぐに閉じて、クスッと笑った。
「な、何笑っているのさ、琴美は。」
鈴ちゃんが少々怒り気味で私に尋ねる。
「いや、鈴ちゃんがかなり本気で私を心配してくれてたから、つい…。」
私がそう言うと、鈴ちゃんは固まった。そして顔を赤く染め、頼んだアイスカフェオレを勢いよく飲んだ。お腹が壊れないかが心配である。
あと、「はんでぃ。」で一番甘いドーナツが残っているのを忘れているのではないのかと心配する。甘党の母親ですらダウンしたほどだ。
「ごめんね、鈴ちゃん。少し意地悪したかっただけだよ。耳はもう大丈夫だよ。」
私は鈴ちゃんを見てそう言う。耳も先程より痛みを感じない。鈴ちゃんのおまじないが本当に効いたとは信じたくはないのだが…。
私が謝ったのを聞いた鈴ちゃんは、私と目が合った。そして、鈴ちゃんはニコリと笑った。鈴ちゃんは笑った方が断然いいと、私はこのとき知った。
「それで、鈴ちゃん。夏休み、どうしよっか?」
私はそう言う、珈琲を啜る。補習があるとは言え、夏休みだ。祭りや花火や海や…。鈴ちゃんにとっては楽しみなのだろう。夏休みに入る前から、夏休みの話をしていた。
けど、結局何がしたいか話してないよね。
私は珈琲を置き、鈴ちゃんを見た。
「私はねぇ、海に行ってたくさん泳ぎたいし、祭りにも行ってたくさん食べ物を食べたい!あとね、キャンプで勉強会をねぇ…」
鈴ちゃんは目を輝かせながら私に何がしたいかを一つずつ詳しく話してくれている。けれど、あまりにも長いので、私の頭の中にはどこに行きたいかぐらいしか入ってこなかった。
「それで、琴美はどこに行きたいの?」
私は鈴ちゃんにそう言われ、少し焦った。
「私ぃ?」
「うん、琴美。」
私はもう一度聞いたが、同じ答えを返してきた。やはり、本当に私に尋ねたらしい。
「そう…私かぁ…。」
正直、私は何も考えていなかった。鈴ちゃんが行きたいところに、私はただただ付いて行くだけだと考えてたからだ。鈴ちゃんの行きたいところなら別に構わないからだ。
私は人指し指を下唇に付け考える。可愛子ぶっているわけではない。
「私は…鈴ちゃんの行きたいところならどこでもいいかな。」
私がそう言うと、鈴ちゃんはムスッとした顔になり、向かい側にいる私の鼻を指で摘まんだ。
「んがぁ!?」
私は変な声を出した。声が大きかったらしく、周りの人たちが私たちを見ていた。鈴ちゃんは何も気にしてはいないが、私はかなり恥ずかしい。
「何でもいいが一番困る、いつも琴美が言ってることだよ。」
そう考えているのなら、ご飯の際に「何でも作って」と言わないでほしいと私は心底思った。
私は「わかった。」と言うと、鈴ちゃんは鼻から指を離してくれる。力を入れて摘まんでいたため、まだ息がしづらく、私は少しばかり口呼吸をするはめになった。
やっと鼻で呼吸が出来るようになり、私は鼻からたっぷりと酸素を摂取する。室内のため、あまり空気がおいしくはない。
「それで、琴美は何がいいの?」
再び鈴ちゃんに尋ねられる。鈴ちゃんはこの店で一番甘いドーナツを手に取り口に入れた。口に入れて数秒後には、鈴ちゃんは嫌そうな顔をした。まぁ、そうなるとは想定の範囲内なのだが…。
私はソッと鈴ちゃんに、飲みかけの珈琲を差し出す。すると、鈴ちゃんは直ぐ様珈琲を飲んだ。鈴ちゃんはチョコレートと同様かそれ以上の甘さのものは食べられない。このドーナツはチョコレートを使っていないが、チョコレート以上の甘さがある。
どう作るかは企業秘密らしい…。
私は鈴ちゃんが珈琲を飲む様子を見ながら、夏休みのことについて考えていた。去年は受験勉強のため、夏休みはほとんど勉強に使っていた。一、二年生のときは、部活で忙しく、遊んでいる暇があれば練習をするような毎日だった。
ちなみに、部活動は吹奏楽部。パートはサックスでした。
そのため、友達と夏休みに遊ぶなんてことは中学のときは考えもしなかった。むしろ、そんなことを考えてしまうと、支障が出てしまう。
夏休みか…。
私は心の中でそう呟く。私にとっては夏休みも学校だったので(午前中は学校だが…。)、こうしてゆっくり出来るだけでも、かなり幸せである。世の中の学生はほとんどがゆっくりしているため、私の考えはおかしく聞こえるかもしれない。
だが、私からするとそれで充分だ。
鈴ちゃんがコップを雑に置く音によって、私は現実に気づいた。私はコップを覗き込む。想定の範囲内だ。珈琲が一滴も入っていなかった。先にドーナツを食べておいてよかったと、私は思った。
「それで…決まったの?」
鈴ちゃんは今には倒れそうな状態で尋ねる。それでも尚、そのドーナツを食べようとする意志。私は尊敬の二文字しか鈴ちゃんに送れなかった。
「鈴ちゃん…。私決めた。私ね…」
そこまで言った時、鈴ちゃんに限界がやって来たらしく、テーブルに伏せた状態になった。どうやら、ダウンしたらしい。顔は少し青くなっている。
これで、このドーナツの被害者は何人目だろ…。
私は冷静にそんなことを考えていた。
以後「はんでぃ。」では、この激甘ドーナツは常連客のみぞがしる裏メニューとして店に並ぶこととなり、一時的に被害が少なくなった。
しかし、あるテレビ番組でこのドーナツが特集された以降、被害者の数は裏メニューとして並ばせた時よりも多くなってしまった。




