友情の成れの果て
暑い。
夕立なのか……水音が聞こえる。どこだろう? 辺りは暗く、よく分からない。風はない。どうやら屋内みたいだ。温室……いや、サウナだろうか。吸い込む空気中の湿度が高い。朦朧とする感覚の中で、全身から滝のように流れる汗の気持ち悪さだけが伝わってくる。首を動かすと、バタバタと大粒の滴が降った。
身体中に鉛を詰められたみたいに重く、言うことを聞かない。
「……雁、やん……起きた、か……」
水音に混じって、呟きに似た掠れ声が聞こえた。
「……秀?」
聞き返す自分の声も、変にくぐもっている。ボワンと反響するのは、耳もおかしいのだろうか。
「ここ……どこだ? とんでもなく、暑い」
「バス、ルーム、だ……」
合点がいった。シャワーの湯気が籠っているのだ。
「どうして」
「マキだ。アイツ、俺達を、殺す気だ……」
応える秀斗の呼吸は、ハァハァと苦し気だ。
「おい、大丈夫か?」
手足を動かそうとするが、ガッチリと固定されている。どうやら粘着テープを巻かれているらしい。
「脱水が……キツい」
汗が止まらないのは、僕も同じだ。湿度が高いせいで、毛穴が開きっぱなしだ。体力が確実に奪われている。
流す汗がなくなったら、身体から体温を下げるシステムが止まる。熱が抜けなくなれば――いわゆる熱中症になる。
「ごめん、秀」
「何が……」
「マキの、狙いは、僕だ。巻き込んじゃって、ごめん」
「よく、分からん、けど……悪い、のは、マキ、だ、ろ……」
バシャッ、という不自然な水音が、比較的近くから聞こえた。嫌な気配だ。まさか。
「秀? おい、秀っ?!」
返事がない。身体は熱いが、ザアッと血の気が引く。
「秀っ!! くそっ……! マキっ?! いないのかぁ?! マキーっ!!」
声を振り絞って、叫んだ。バスルームは、防音仕様になっていることを忘れた訳じゃない。でも、こんな形で友達を失って堪るか!
「恨みがあるなら、僕だろっ?! マキっ!!」
芋虫のように、身体をくねらせて暴れる。自分がバスルームのどこに置かれているのか、それすら分からない。せめてドアの位置が掴めれば。
「マキっ! くそおおおっ!!」
壁からズルッとずり下がった弾みで、肩が硬いものに触れた。これは――蛇口か?
必至で取っ手を探す。うちの蛇口は、温冷の切り替えがレバーになっていた筈だ。流れる汗に目を閉じたまま、肩と顎で探る。見えていたって、こんな体勢じゃ至難の技だ。ましてや、刻一刻と体力が奪われている、気力だけで動けるのもそう長くはない。
ゴロッと長めの棒状のものに、左の頬が触れた。
これか――?!
首を捻って、舌を伸ばして、レバーを確認する。それから、何とか歯でくわえ、力いっぱいグイと引く。
ガコン、と手応えがあった。
一瞬の間があり、やがて、籠った熱気に変化が現れた。サア……ッ、と空気から熱が引き、ゆっくりと冷めてくる。
「秀! 秀っ!!」
床に倒れているであろう友の名を呼んだ。
どこだ? どこに転がっているんだ!?
――ガチャッ
スウッと空気が流れ出す。バスルームのドアが開き、暗がりの中からスマホの四角いブルーライトが、探るように僕らを照らした。
ー*ー*ー*ー
青白い光が、バスルームの室内を照らす。眩しいが、お陰で秀斗が転がる位置が見えた。サーチライトのように僕らの様子を確認すると、やおら室内の照明が点いた。急激な眩しさに、クラクラする。
「なぁに余計なことしてくれちゃってんのよ、雁やん」
スマホを床に置いたマキが、入り口で仁王立ちしている。
いつもとまるで変わらない丸顔に、はち切れそうな笑顔が張り付いているが……目が笑っていない。
「マキ……どうして、こんなこと……」
「雁やんは、自業自得。ちゃあんと、あいにフラれるように、助けてあげたのにぃ」
ゴム手袋を嵌めたマキは、濡れた床で滑らないよう、慎重に浴室内に入ってきた。
芋虫の動きでも、全力で反動をつけて体当たりすれば、何かしらの道は開けるだろうか。多分、チャンスは一度切りだ。
「何でだよ。あいとは、友達、なんだろ?」
タイミングを図りながら、会話で気を逸らそうと試みる。
「……そうだね。雁やんがいなかったら、ずっと、友達だったかな」
ピチャッ、ピチャッ、と彼女の裸足が迫ってくる。まだだ――もっと、近づくまで、待たなくちゃ。
「……僕? 何で」
ピチャッ。
「あいもあたしも、高校までは仲間だったのよ。地味で、大人しくて、モテなくて」
ピチャッ。
「……それは、あいからも、聞いた」
「じゃ……分からない? あんたは、あたしから、仲間を奪ったのよ?」
一言一言、噛み締めるように、彼女は怒りを吐き出した。
「マキ……お前だって、魅力、あるよ……モテないなんて、諦めんなよ」
ピ……チャッ。
動揺した。今、だ!!
――ドン……ッ!
折り曲げた身体を精一杯伸ばして、彼女の膝下を狙って頭突きをかます!
「……つっ。あれ……」
「何、なついてんのよ、雁やん」
真上から余裕の声が降る。体重をかけた体当たりは、完璧なタイミングだった――のに。
彼女の太い脛はビクともしない。
「命惜しさに、あいからあたしに乗り換える? でも、もう遅いよ、雁やん!」
「う……わあっ?!」
60kg超の身体が、軽々と宙に浮いた。襟首と足首をむんずと掴むと、彼女は僕を持ち上げた。
「頭から突っ込まないだけ、優しさだと思いなよ?」
――ドカッ
「うっ」
何が何だか分からないまま、浴槽に入れられた。栓は外してあるから、水は溜まらない。でも、もう脱出も出来ない。絶望的だ。
「ま、待てよ! あいと付き合ったから、僕を殺すのか?!」
「ふふ。そうだよ、雁やん。あいが悲しむねぇ……」
蛇口のレバーを冷から温に切り替えて、彼女はまた満面の笑みを広げた。
「あいは、裏切り者だから。一番大切なものを奪ってやるの。悲しんで、苦しんで、どん底まで堕ちたら……そうだね、許してあげてもいいかなぁ」
シャワーから勢い良く飛び出す水が、お湯に変わった。
「熱っ!」
「あ、ごめんごめん。あはははは」
軽やかに笑いながら、マキはバスルームから出て行こうとする。
ヤバい。彼女が、こんなにもサイコパスだったなんて――どうしよう、もう策はない。
「待てっ……秀は、秀斗は関係ないだろ! 殺るなら、僕だけ殺れよ!」
床で大きく息をしている秀斗に視線を投げてから、彼女は僕を振り返った。肩越しに見下ろす――彼女は真顔で。
「あたし、やるなら、完全犯罪だよ?」
「まっ――待てよ!!」
「ばぁいばぁーい」
ゴム手袋を嵌めたままの手をパタパタ振って、マキは湯煙の向こう、ドアの外に消えた。
バスルームの中は再び暗闇に支配され、水音だけが続く――。
ー*ー*ー*ー
ダメだ、暑い。
かかるシャワーのお湯は、火傷するほど熱くはないが、気密性の高い室内に溜まっていく蒸気が苦しい。加えて、身動き取れない同じ姿勢が続くのも辛い。
だんだん、思考力が失われ、ぼんやりしてきた……。
あい……ごめん、帰れないかもしれない。ごめん。もう泣かさない、って誓ったばかりなのに。
暗闇の中に、彼女の姿を思い描く。あー、何かそんな歌詞のヒット曲があったなぁ……。
「シロちゃんっ!!」
あいの泣き顔が目の前に迫る。マズイ。幻覚にしては、やけにリアルだ。
「おい! 雁やん、秀、生きてるか?!」
男の声が、彼女の影に重なる。誰だよ、人の幻覚に、勝手に割り込んで来んなよ……。
「早く、換気して! それと、救急車!」
別の女の声が鋭く飛ぶ。聞いたことがある気がするけど、誰だっけ?
「やだ、シロちゃん! わたしが分かる、シロちゃん?!」
ポロポロと号泣しながら、あいは僕の頬をペチペチと叩く。当たり前だ、分かるよ、だから。
「な、く、なよ……」
恐ろしく鈍い舌を何とか動かす。まだ薄暗い視界で、あいが濡れた瞳を見開いた。
「シロちゃんっ!」
「あいちゃん、避けて! テープ切る!」
再び男の声。ややあって、グイと身体を動かされ、手首・足首が弛んだ。
「雁やん、しっかりしろよ!」
見覚えのあるキツネ目の男が、眼鏡を半分曇らせながら、抱き起こした僕を支えている。
「……た、っひ、こ?」
「ああ。もう大丈夫だ」
強張った眼差しが少しだけ和らぐ。彼の後ろから、別の細い影が近付いた。
「達彦、秀斗君の方がマズイわ。早く身体、冷やさなきゃ」
ロングヘアーのスレンダーなシルエットは……ああ、ユキか。
「分かった。おーい、賢! 手伝ってくれ!」
彼らはバタバタとせわしなく出て行く。周りで何が起こっているのか、掴めない。見えているけど、頭が理解できないのだ。
「雁やん、動かすからな」
不意に、ふわりと身体が持ち上げられて、リビングのフローリングに寝かされた。待ち構えていたように、首の後ろにビニール袋が差し込まれ、キンと冷たくなった。続いて濡れタオルが額に乗せられる。更に別のタオルが、顔や脇の下、胸を順番に拭いていく。少しずつ、視界がはっきりしてきた。
「あい……ごめん」
傍に置いた洗面器でタオルを濡らし、絞り、一生懸命に僕の身体を冷やしてくれる。彼女は、涙の後が乾かない頬をぎこちなく弛めた。
「ううん。ね、お水、飲める?」
心地良さに、まだこうしていたい。でも、喉も身体もカラカラだ。
「ああ」
「良かった。待ってて」
あいは微笑んで立ち上がったが、次の瞬間、ギクリと固まった。
「皆、大変っ! マキがいない!」
彼女がバスルームに叫ぶと、再びバタバタと飛び出してきた。
「何だって? おい、賢!」
「嘘だろ?! ちゃんと手足に粘着テープ巻いたぞ!」
「玄関のドアが開いてる! まだ近くにいるかもしれん!」
「俺、探してくる!」
賢輔がドアの外に出かかった、その時――。
「何なのよ、あんたっ……離しなさいよ、このクソガキっ!」
一歩踏み出したまま動けずにいる彼の背中越しに、マキの声が室内まで届いた。
「えっ? やっ?! いやああああぁっ!!」
ガタガタガタガターン!!
罵声が叫びに変わり、何か重いものが階段を転げ落ちる派手な音がした。
「……おい、賢?」
達彦に名前を呼ばれると、彼は片手でドアノブを握ったまま、その場にヘタリと座り込んでしまった。
そして、絶妙なタイミングで、救急車のサイレンが近付いてきた。




