殺意は手薬煉引いて
黄色いTシャツの少年『コージ』は、人間じゃない。
少なくとも、僕らと同じように、呼吸して血を巡らせる存在とは違う。
秀人が持ってきた、合宿最終日の定点カメラの映像が、証明した。
僕の部屋の前辺りに突如として現れ、階下へ降りる階段に向かって、廊下をパタパタ駆けて行った黄色いTシャツの後ろ姿。
僕の部屋は端部屋だし、狭い廊下には隠れられるようなスペースはない。
賢輔の叫び声にいくら慌てていたとは言え、暗がりでも目立つ色のTシャツを着た少年がいれば、僕らの誰か一人くらいは気付いたはずだ。
「因みに、階段に仕掛けたカメラには、何も映ってなかった」
秀斗はタブレットを専用ケースにしまうと、汗をかいたグラスを開けた。気付くと喉がカラカラに渇いていた。
「ね、わたしん家に行こうよ、シロちゃん」
「そうだな……コージは悪い奴とは思えないけど、ホラーはごめんだ」
あいを不安にさせたくないし、僕もなつかれた相手が「枯れ尾花」ではなかったことが、少なからずショックだった。
「じゃ、とりあえず身の回りのものだけ持って、暗くなる前に出ようよ」
「ああ。でも、ぷりおは、どうしよう」
「おい、雁やん」
空のグラスをタン、と置いて、僕らの会話に秀斗が割り込む。
「盛り上がってるとこ悪いけど、この画、達彦の企画に使うからな」
皮肉にも、当初の合宿目的が果たされてしまった。素材は【赤いブラウスの女】ではなく、【黄色いTシャツの少年】に変わったけれど。
「分かってると思うけど、くれぐれも、このハイツが特定されないようにしてくれよ?」
溜め息を吐きながら、渋々承諾する。達彦のしてやったりの得意顔が見えるようだ。
「任せとけ。勿論、上手く編集するさ」
上機嫌の彼は、僕らをあいのアパートまで送ると申し出てくれた。
ぷりおは、明日の午後、改めて車を手配して迎えに来ることにした。餌を与えながら「ごめんな」と呟くと、知ってか知らずか、ユラリと身体をくねらせた。
ー*ー*ー*ー
「お帰りなさい、シロちゃん」
部屋の鍵を回し、先に玄関に入ってから、あいは再びドアを開けて、はにかんだ。
「ただいま」
ちょっと照れたが、迎え入れてくれた彼女に挨拶して、靴を脱ぐ。
リビングに入ると、記憶のままの室内がそこにあり、思わず足が止まった。見慣れた空間で、あいはエアコンのスイッチを入れると、いつものようにキッチンへ向かった。
2人で買い揃えた物達が、当たり前の顔をして点在している。ソファーの上に転がる緑と黄色のクッションも、テレビ台の横に並んだそれぞれの専用DVDラックも――何1つ欠けていない。
あんなに僕を拒絶したのに、僕の物を処分していなかったんだ。
「何か飲む? それとも、ご飯にしようか?」
手を洗った彼女は、入り口で固まっていた僕に、何でもない笑顔を投げた。衝かれたように、僕は彼女に駆け寄って抱きしめた。
「シロちゃん?」
「ありがとう、あい。帰る場所を残してくれて」
「うん……捨てられなかったの。シロちゃんとの思い出がいっぱいあるから」
腕の中で俯く彼女は、自分の言葉を噛み締めるように、呟いた。
「嬉しいよ。ありがとう」
素直な気持ちを乗せて、唇を塞ぐ。こんなに密着しても暑苦しくないのは、偉大なるエアコン様が稼働してくれるお陰だ。素敵な彼女に、快適な部屋。僕は今まで、こんなに恵まれた環境に居たんだ。心からの感謝と愛情を込めて、腕の中の彼女にキスを降らす。
色んな問題がパタパタと片付いて、元の暮らしに落ち着く目処が見えてきた。
そんな安心感も昂る欲望に油を注ぎ――夕飯そっちのけで、僕達はベッドに雪崩れ込んだ。
ー*ー*ー*ー
――ピピッ……ピピッ
ベッドサイドのデジタル時計を見ると、まだ8時を回ったばかりだ。
――ピピッ……ピピッ
脱ぎ捨てたジーンズのポケットから、スマホが呼んでいる。
ベッドを抜け出して、トランクスを履きながら、ジーンズを探る。省エネモードの液晶画面に表示された着信を見て――固まった。
「シロちゃん?」
背後から、あいが気だるげに呼ぶ。
「……メール、マキからだ」
「やだ、何でシロちゃんのメアド知ってるの」
少し早口の固い声。振り返ると、ベッドに起き上がった、あいの不安気な眼差しにぶつかった。胸から下をシーツで隠した肌が、やけに白く見える。
「教えてない。てゆうか、秀斗のメアドから送られてきてる」
僕らを送ってくれた秀斗と別れて、まだ1時間も経っていない。この僅かな間に、マキは彼と接触したことになる。
「訳わかんない」
同感だ。けど、理解できない展開の中に、警告のブート音が聞こえてくるのは、きっと気のせいなんかじゃない。
「あい、ユキちゃんに連絡して。彼女の家に行った方がいい。達彦には、僕から連絡する」
脱いだ服を身につけながら、最善策を模索する。マキの狙いは、本当に僕だけなんだろうか? 別れさせる為に、あんな酷い言葉であいを傷付けたのに?
「ねぇ、メールに何て書いてあるの」
渡たされたスマホの画面を見て、あいの顔が強張ってゆく。
『せっかく来たのに、留守なんてヒドーイ。早く帰らないと、ぷりおが天ぷらになっちゃうかもよ?』
「や……何で……」
呟きが震える。
Tシャツを被って、スマホをジーンズに捩じ込む。
「多分、ぷりおのことは、僕を呼び出す口実だと思う。でも、秀斗のスマホから送信してるっていうのが、イヤな予感がする」
「あたしも一緒に行くよ、シロちゃん」
「ダメだ。マキは、僕に会いたがってる。はっきりとカタを付けてくる」
こんな呼び出し方、普通じゃない。マキが何を考えているのか分からない以上、余計な刺激を与えるようなことはしたくない。
「分かった。気をつけてね」
「あいも。気をつけて」
互いの不安を誤魔化すようにキスを交わして、僕は部屋を出た。
アパートの外は、既に暗くなっていたが風はなく、湿度の下がらないベタついた熱帯夜の気配がした。
ー*ー*ー*ー
最寄り駅に向かいながら、マキと達彦にメールした。達彦には事情を伝え、あいをユキの部屋に匿って欲しいと、念を押した。
暑気の消えないアスファルトを蹴って、流れる汗を拭いながら――黒田ハイツに着いたのは、9時を回っていた。
心持ち、建物全体が暗い気がするのは、コージの存在を知ってしまったからなのか。でも今は、怖じ気付いてなんかいられない。
足音を抑えつつ、階段を上り、廊下を進む。202の前の蛍光灯は、完全に切れていた。短い闇を越え、自室の前に立つ。
ドアノブに手を掛けると――鍵は開いている。合鍵なんて作っちゃいないのに、一体どうして。
そっと押し開けたドアの向こうは暗い。隙間から籠った暑い空気が溢れるが、油の香りはしない。ぷりおは、まだ無事か……?
「マキ――いるのか?」
「んっ……むーっ!」
躊躇いを振り切って、そっと声を掛けた途端、くぐもった低い呻きが、部屋の奥から聞こえてきた。警戒しながらも、玄関の電気を手探りで点ける。
「秀斗っ?!」
ガランとしたフローリングの上に、秀斗が転がっていた。粘着テープで両手・両足首をグルグル巻きにされ、口にもテープが貼られている。
「おい、大丈夫か?!」
駆け寄って、口の粘着テープをゆっくり剥がす。続けて、後ろ手に巻き付けられているテープを剥がそうとした時、秀斗が目を向いて叫んだ。
「雁やん、後ろっ!! 逃げ――!」
――ドン!
「いっ?!」
突然、背後から肉弾が飛んできて、よろめいたところに太い腕が伸びてきて、引き倒された。背骨にフローリングの固さが響き、息が詰まる。そのまま、首をギュウッと圧迫されて――目の前が暗くなった。
「ふん。チョロいわね」
脱力していく意識の向こうで、女の嘲る声を聞いた……気がした。