黄色いTシャツの少年
「それって、ネグレクトなんじゃない?」
遅い朝食――というか、早い昼食をつつきながら、僕は真夜中に見かけた「コージらしき黄色い影」のことをあいに話した。
彼女はサラダにドレッシングをかける手を止め、小首を傾げた。
「ネグレクト?」
少し温めただけでカリカリになったクロワッサンを頬張っていた僕は、ひんやりした枝豆のビシソワーズを流し込む。
「うん。日本語だと『養育放棄』っていうんだったかな。食事をあげなかったり、着替えやお風呂なんかの衛生面に気を配らなかったり……幼い子どもを独りで留守番させるとか、遅い時間まで家の外で遊ばせておくとか」
「どれもぴったりだ」
僕が呟くと、あいの眉が悲しげに寄った。
「ネグレクトってね、児童虐待の1つなの」
「――」
「気が付いたご近所の人が、児童相談所とかに通報してもいいんだけど……」
彼女が言葉を濁した意味が何と無く伝わった。『ご近所トラブル』がワイドショーなんかを騒がせている昨今だ。下手なことに首を突っ込みたくない、そう言う『ことなかれ主義』が働くのだろう。
「昔はね、ご近所にお節介なオバチャンとかいたでしょ。そういう人がご飯あげたり、お世話してくれたりして、行政とか警察とかが大袈裟に動かなくても命が守れたんだって」
「お節介なオバチャンか……最近は、ご近所付き合いだって煙たがられるもんな」
言いながら頭の中に『102号室の阿倍』の仏頂面が浮かんだ。
「そうだね、わたしのアパートだって学生が多いけど、誰が住んでるのか知らない部屋がほとんどだよ」
「あ!」
「シロちゃん?」
適任者がいた。阿倍からの連想で『自治会長』の存在を思い出した。
一昨日の騒ぎの後なので、若干の気まずさがないわけでもないが、こんな時頼らずして何の『自治会長』だろう?
あいに話すと、大きく頷いて、一緒に行くと言い張った。彼女は、昼食時は避けるべきだと主張し、従うことにした。
ブランチの後片付けに立ったあいに続く。手伝おうとすると、シンクの前の彼女から、ゴミの分別を頼まれた。今更ながら分類に迷うものがあり、尋ねると即答が返る。苦笑いしながら、こんな時間も悪くないなと、ほっこりした気持ちに包まれた。
僅かな洗い物を終え、彼女が身支度を始めたので、とりあえずスマホを手にする。アプリが点滅していて、秀斗からのメールが届いていた。
『直接見せたいものがある。夕方、お前んちに行ってもいいか?』
「あいー、後で秀がうちに来たいって」
髪をとかしている背中に声を掛ける。
「ふーん? 何の用?」
「何か見せたいものがあるって」
「わたしは構わないよ」
「了解」
短い確認の後、返信を送る。ピロリン、と任務遂行! の合図が鳴った。
LINEではなくメールが送られてきたことの意味を、この時の僕は大して気にも留めていなかった。
-*-*-*-
前嶋婆さんは遅い昼食だったらしく、僕らが訪ねた時、まだ食事中のようだった。
白いブラウスの上に藤色のサマーカーディガンを羽織り、ベージュのスカートを履いている。髪もいつものように、後頭部できちんと一つにまとめている。日曜日なのに身だしなみに手を抜かないのは、実にお年寄りらしい。
「出直しましょうか?」
僕らは恐縮したが、婆さんは訪問者がよほど嬉しいらしく、食器を片付けながら招き入れた。
ダイニングテーブルに通されて、麦茶のグラスが三つ置かれる。
クーラーの冷えた空気を、扇風機が優しく拡散して心地いい。
「お持たせですけど」
挨拶と一緒にあいが手渡したカップ入りの水ようかんが、ガラスの器に移されて僕らの前に戻ってきた。昨夜コンビニで大量買いしているのを見た記憶はあるが……まさかこんなところで役に立つとは。
「すみません。ありがとうございます」
「しっかりしたお嬢さんね。今時の若い人には珍しいわ」
初対面のあいに向けられる前嶋婆さんの瞳が細められる。
自分が誉められた訳でもないのに、内心やたらと嬉しくなった。全く単純だな、僕は。
「それで、今日は……?」
麦茶を一口いただいて、僕はこれまで遭遇したコージのことを話した。それから、昨夜の雨の中見掛けた黄色い影のことも。
「雨の中なので、夕べのことは僕の見間違いかもしれないんですけど……前嶋さん?」
『赤いブラウスの女』の話をした時とは明らかに異なる彼女の動じように、こちらも戸惑う。
前嶋婆さんは、酷く困惑しているように見える。目尻のシワが深くなる。
「あのね、雁屋さん。このハイツに、小さな子どもは住んでいないわ」
「えっ」
僕とあいは、一拍置いて、同時に発声した。
「103号室の神田さんちは、ご夫婦二人切りなのよ」
訳が分からない。
「えっ、でも、コージは103号室に住んでるって――」
言いながら、記憶を掻き回す。
『お前、何号室に住んでるんだ?』
『え、あそこ』
あの時、小さな指は1階の一番奥を差したはずだ。それは103号室で、その後の挨拶で“取り込み中”だったこともあり、僕は疑うこともなかった。
「ずっと……そうね、神田さんの前の前に入っていたご夫婦には、3歳くらいの男の子が居たわね。もう、7、8年前になるかしら」
記憶を辿るように小首を傾げ、前嶋婆さんは麦茶を含む。
「あの……ご近所に、小さな子どもが住んでいる家ってありますか?」
僕の表情を伺いつつ、あいが尋ねる。前嶋婆さんは頭を振った。
「――いいえ。私の知る限りですけど」
じゃあ、コージは、あの子は、どこの子どもなんだ?
「お役に立てず、ごめんなさいね」
「いいえ……」
ネグレクト云々の話は立ち消えた。肝心のコージが住人でないなら、話しても仕方あるまい。
「また、いつでもいらっしゃいね」
短い訪問で、前嶋婆さんはすっかりあいを気に入った様子だった。
「上品なお婆さんだね」
すっきりした表情の彼女と対照的に、僕はコージのことが府に落ちず、1人モヤモヤしていた。
狐に摘ままれた僕を救ってくれたのは、1時間後に訪ねて来た秀斗だった。
-*-*-*-
「何、この部屋。罰ゲームかよ?」
押し掛けて来たくせに、来客は失礼な感想を言い放った。しかし、それも無理なからぬ状態だ。
前嶋婆さんの部屋で一時の涼に預かった僕らは、帰るなり冷房の一切がない自室でグッタリしていた。
西日は壁が遮ってくれたが、網戸から風のない時間は室温も容赦なく右肩上がりだ。
「お前だって、一昨日までここで合宿してただろ」
手近の雑誌でバタバタ扇いでみるものの、運動による発汗の方が涼しさを凌駕する。
「だよな。つくづく、あんなボロ扇風機でも活躍してたんだなぁ」
吹き出した汗を拭いながら、秀斗はため息を付く。
「扇風機かー。今となっては、夢のアイテムだ」
「……大げさだぞ。リサイクル品でも買えよ。あいちゃん可哀想だろ」
立つと暑いので、フローリングに伸びた。僕を見下ろす秀斗は呆れ顔だ。
「ありがとー。でも、遠からず引っ越すから、勿体ないんだよねぇ」
苦笑いで、冷えたコーラを注いだグラスを渡す。しっかりものの彼女らしい経済的な理由を添えて。
「引っ越すのか、ここ」
「まぁね。あいん家に戻るんだ」
「へぇ……まぁ、それなら……うん」
途端、秀斗は歯切れが悪い。首だけ持ち上げて彼を見る。
「――何? てゆうか、何の用だっけ?」
「おう、これ見てくれ」
グラスを置いて、秀斗はバッグからタブレットを取り出した。手早く操作して、僕らにも見えるよう床に置いた。
「汗、落とすなよ」
タブレットには、薄暗い画像が映し出された。それが合宿中に撮った廊下の映像だとすぐに気付く。
『うわあああ、出たあ!』
『賢輔!』
『大丈夫か?!』
赤いブラウスの阿倍が、呆然と賢輔を見下ろす背中が映る。
そこへドタバタと僕と達彦が駆けつけて――それから、前嶋婆さんが強張った表情で201のドアから出てきた。
「あの時の映像だろ」
「まだだ」
前嶋婆さんに腕を捕まれた阿倍、僕ら3人、遅れて最後に秀斗が201号室に消えた。
定点カメラは、不定期に明暗を繰り返す無人の廊下を映し出している。
部屋の暑さがジワジワのし掛かり、汗が頬を伝う。刹那、タブレットから視線が離れた。
「――えっ」
短く息を飲んだのは、あいだ。秀斗は頷いて、映像を止める。
「何、今の?」
あいの反応を確認した後、秀斗は僕をジロリと眺める。
「雁やん、ちゃんと見てろって」
「……ごめん」
集中力を切らしたのは指摘の通りなので、素直に謝る。そして、きちんと座り直す。
何故か、あいが僕の腕に触れてきた。
「少し戻すぞ」
瞬時に、映像の中の時が逆行する。
動き出した画面には、201号室に消えていく人々の後ろ姿が流れた。
あいが、何かを予感したように一層寄り添った。
――え……?
誰もいない廊下を、黄色いTシャツを着た子どもが駆けて行った。タタタ、と小走りの後ろ姿が映り込んでいるのは、ほんの一瞬だ。顔は見えないが、コージに違いない。
「シロちゃんっ……!」
あいは青ざめている。秀斗も真顔だ。
「何だよ。コージだよ、この男の子」
「相変わらず鈍いな、雁やんは」
「そこじゃないよ、シロちゃん」
解らずに二人の顔を見る。この温度差は何なんだ?
僕は、前嶋婆さんに『住んでいない』と言われたコージの存在が示されたことに、むしろホッとしていた。
「雁やん、この子、どこから来たんだよ? 202号室の手前は、この部屋だろ」
真夏の冷房がない部屋は、優に30度を超えている。
僕らの周りだけ、一気に氷点下になった。