綿密な計画
次の日、バイトがあるという賢輔は、合宿を休むと言った。
たまには自分の部屋に帰る必要もあるだろう。
「あたしも、一度片付けて来ようかな」
「いいよ。強制缶詰めって訳じゃないんだから」
「秀は? どうする?」
昼休み。大学の食堂で集まった僕らは、各々のスケジュールを確認しながら、今後の合宿について話し合った。
リーダーを欠き、成果のでない合宿に、少し飽きてきたのかも知れない。
それならそれで構わない――僕は密かに空中分解を願っていた。
「嫌、まだ予定の半分も経ってないだろ。鍵貸してくれよ、雁やん」
秀斗の情熱は、まだ消えていなかった。
「いいよ。僕、ちょっと用事あるからさ、帰り遅くなるかも知れないし」
ポケットから出した鍵を受け取り、彼は眉をひそめた。
「……達彦、今日来てないよな?」
「夕べ、LINEに返事来てたんだろ?」
賢輔も戸惑い顔を向けてくる。
「ユキも来てないよね。ホントに夏風邪なのかなぁ」
「午前中、休み時間に送ったメッセージは既読になってたよ」
僕に訊かれても、これ以上の情報はない。所在不明のリーダーについて、心配と不信の混じった会話を交わすものの、進展のないまま昼休みが終わった。
-*-*-*-
【シャガール】は、大学からあいのアパートに行く途中にある喫茶店で、僕らは良くデートで落ち合った。
カフェというアーバンな雰囲気ではなく、少しレトロな昭和の香りが残っている。
――カランカラン
カウベルのような柔らかい音を響かせて、店内に滑り込む。静かなジャズピアノが流れている。
窓際の2人でよく座った席で、あいが小さく手を挙げた。
「久しぶり、っていうのもヘンだね」
彼女は、少しはにかんだ。
僕に別れを告げたのが、ちょうど10日前だ。
あれから部屋を探して、引っ越して、奇妙な合宿が始まって……随分前のことみたいだ。
店員にアイスコーヒーを2つ注文して、改めて目の前の彼女を見る。
ライトブラウンの髪を頭頂の少し後ろで団子に纏め、薄く化粧をしている。
記憶の中のままの姿に、ちょっとドキドキしていた。
「で……」
『何の用?』と言い掛けて、言葉が途切れた。結論を急ぎたくない。居心地は良くないけれど、久しぶりに会った彼女を、もう少し見ていたい。
「シロちゃん、ちゃんとご飯食べてる?」
手元の水の入ったグラスを見つめながら、あいはポツンと訊いた。
「ああ……まぁ、ね」
最近はマキの手料理で充実している――とは言えない。別に悪いことをしている訳でもないのに、僕は言い淀んだ。
「ぷりおは、元気?」
「うん。あいが居なくて寂しがってるよ」
「ウソ。ぷりお、シロちゃんになついてたじゃん」
「それは、僕が餌係だからだよ」
あいは、顔を上げた。眉を寄せ、苦し気な微笑みを浮かべた。
「金魚はいいね。食欲と愛情が結びついてるんだ」
ドキリとした。
僕があいを愛していたのは――胃袋だけが理由じゃないのに。
アイスコーヒーが運ばれて来た。
不器用な会話が、不自然に沈黙した。
「あい、まだ怒ってるんだろ。僕の顔――見たくなかったんじゃないのか?」
「そうだね……昨日の昼までは」
「え――」
「ごめんね、シロちゃん。わたし、バカだった」
「あい?」
「わたしの料理、あんまり美味しくないでしょ? でもシロちゃん、一度も不味いって言わなかったよね」
堰を切ったように、あいは言葉を吐き出した。
それは彼女自身を責めるものばかりで、僕に向けられる攻撃ではない。
「おい、どうしたんだよ?」
「シロちゃんがわたしと暮らしてたのは、わたしが都合のいい『家政婦さん』だからだ、って」
「はあ?」
「わたしじゃなくても、ご飯作って、お掃除や洗濯してくれる子なら、誰でも良かったんだ――って」
あいは、ついに泣き出した。
斜め隣のサラリーマン風の男性が、チラリ、僕を非難する視線を投げてきた。
「それ――何なんだよ。僕は」
「ごめんね……! わたし、シロちゃんのこと、信じ切れなかった」
「あい……」
「わたし、自分でも自信なかったの。わたし、家事なんて当たり前だと思ってたし、シロちゃん喜んでくれたから」
「――」
「だから、わたしのこと、『家政婦さん』だってシロちゃんが話してたって聞かされて」
「誰が! 誰がそんなこと」
確かに僕は、家事の一切合切を彼女任せにしていた。その負い目はあるが、彼女を『家政婦さん』だなんて言ったことはない。
立ち上がり掛けて、思い止まったが、テーブルのアイスコーヒーは波立った。
「――マキだよ」
背後から静かな声が会話を継いだ。その声の主に、今度こそ僕は立ち上がった。
「ええっ? 達彦?!」
「すまない、雁屋」
達彦は頭を下げた。隣にユキも寄り添い……既に一度泣いた目をして、彼氏に倣った。
「どういうことだよ、これ。説明してくれよ」
僕の隣に達彦、あいの隣にユキが座る。ユキは、ウサギみたいな真っ赤な瞳で涙を堪え、あいの肩を抱えた。
「今年の春の新歓旅行で、温泉に行ったよな」
映画サークルでは、GWに新入生歓迎旅行と称して、映画のロケ地に一泊二日の旅行に出掛ける。
安宿に泊まり、宴会場を借りて鑑賞会を行い、そのまま宴会に雪崩れ込むのが習わしだ。
僕は無言で促した。
「宴会のあと、女の子の部屋で……マキが言ったの。『あいちゃん、可哀想だね』って」
クシャクシャにした顔をハンカチで押さえ、あいの肩が震える。
「わ、わたしのこと『料理は下手だけど、タダ飯食わせてくれる、楽な女だ』、って……」
感情を抑えるように、あいの声が啜り泣きに飲み込まれた。
「マキがね、女の子達の前で、『雁屋くんが、あいのことを”都合のいい家政婦さんだ“って、周りの男子に話してた』って言ったらしいの」
ユキが説明を引き取った。達彦と同じ理系――「リケジョ」らしい、淡々とした語り口だが、時折掠れ気味になる。
いい加減にして欲しい。そんな酷いこと、思ったこともない。
どんどん深くなっていく眉間の不機嫌を感じたが、隠す気は起きなかった。
「マキが言うには、雁屋くんは『引っ越すのが面倒だから、後2年、あいと暮らしてやるんだ』って言いながら、マキに言い寄ってくる――だから困ってる、って」
目眩がしそうだ。ブタマキの芝居がかった困り顔が、容易に想像出来て。
「お前ら……信じたのかよ」
信じたんだろう。だから、あいは別れる時に、僕を汚い物を見るように睨んで、泣いたんだ。
「わたしとマキ、同じ高校だったの、シロちゃん知ってるでしょ」
「ああ」
付き合い始めた頃、そんな話を聞いた気がする。
「わたし達、地味で目立たない子だったの。マキとは、親友ってほどじゃなかったんだけど、割りと一緒のグループで」
「……だから、あい、信じちゃったのよね」
あいの言い訳を、ユキが擁護する。
胸の中にイガイガとした憤りが溜まっていく。
「ふざけんなよ」
「雁屋」
「何で、ちゃんと僕に聞かなかったんだよ?」
「『聞いたって否定する』って、マキが」
責める言葉に、すかさずユキが割って入る。あいは俯いたまま、小さな声で続けた。
「『わたしが病気で入院したら、シロちゃん、ご飯どうするの?』って聞いてごらん――マキに、言われたの」
そう言えば――新歓旅行から少しして、あいがそんなことを聞いてきたことがあったっけ。
「『何とかする』って答えるはずだって。わたしのこと、ご飯じゃなく愛していたら『僕が作る』って言うはずだけど――きっとそう言わないよ、って」
「そんな。バカげてる」
否定したものの、あの時、僕はこう答えたんだ。
『心配しなくても大丈夫だ、何とかなるって』
背中を冷や汗が伝った。あいは確信して、僕に絶望したんだろう。僕が追い出されたのは、それから1ヶ月も経っていない。
「マキは、巧妙なんだ。あいちゃんのコンプレックスを巧みに唆して、お前の性格もしっかり掴んでいる」
達彦の言葉にゾクリとした。僕とあいの仲を引き裂くために、ジッと観察し分析してきたというのか。
「しかも、そんな話を聞かされたら、サークルの女は誰も、お前に手を出そうと思わない。ライバルも消えて、一石二鳥って訳だ」
達彦は苦い顔をした。
「マキね、半年以上前から、私に時々メールしてきてたの」
次に告白を始めたのは、ユキだった。
「『親友の彼氏を好きになっちゃった、我慢してるけどツラい』って」
赤い瞳で、ユキは僕を見る。
「真に受けるなよ、雁屋。ユキに『秘めた想い』をしおらしく吹き込むことで、お前に接近するチャンスを伺っていたんだと思う」
すぐに達彦が釘を刺す。もちろん、今更惑うことは無いけれど、気持ちの落とし所が分からない。どっぷり途方に暮れている。
「お前ん家の【赤いブラウスの女】の話、サークル仲間にLINEで流しただろ? 俺、早くにユキから『マキの想い』を聞いていたし、お前とあいちゃんが別れたと思ってたんで、マキがご飯係を買って出た時、合宿仲間に入れちまったんだ。すまない、雁屋」
「ごめんなさい、雁屋くん」
「シロちゃん、ごめんね。ちゃんと信じられなくて」
三方からの謝罪の霰。
彼らはそれぞれ頭を下げる。何だか、堪らない。
半年以上も前から用意周到に計画されていたのなら、僕らがマキの企みに気付くことなんて無理だ。
「顔、上げてくれよ。僕ら――全員、マキの被害者ってことだろ」
友情を、愛情を、人の心を手玉に取った、マキ。
口に出したことで、僕は怒りをはっきりと自覚した。
「とにかく、合宿は解散してくれよな」
「あー……そうだな」
あからさまに残念がる達彦だが、『合宿継続=マキ残留』という構図がある以上、諦めざるを得ない。
彼は、悔しさを満面に広げつつ、無理矢理自分を納得させたようだった。
女子2人は、崩れた化粧を直しに立った。
せめてアイスコーヒー代は支払わせてくれ――達彦は伝票を手に、レジへ向かった。
「シロちゃん」
先に化粧室から出てきたあいが、僕のシャツの裾を引いた。
「うん?」
「シロちゃん、わたしん家に戻って……くれる?」
【シャガール】の店内の大きな観葉植物の陰に彼女を隠して、僕は壁際でキスをした。