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黒田ハイツの面々

 翌日。

 昼過ぎにベッドから這い出した僕は、ぷりおに餌を与えると、自分も冷蔵庫から取り出した夕べの残りの惣菜をつついた。


 タブレットでテレビのアプリを起動する。ニュースを聞き流しながら、ラインをチェックする。


 ダメ元で映画サークルの仲間達に、夏休み中のバイトを紹介して欲しいと送っていたのだが、まだ既読になっていない。これは本格的に自分で探さなくては。


 午後2時。

 休日に家でゴロゴロしているようなインドア派なら、昼食を済ませてまったりしている時間帯だ。


 とりあえずシャワーを浴びると、軽く身支度をした。

 箱ティッシュをビニール袋から取り出して、1箱ずつコンビニ袋に入れる。

 袋を5つぶら下げて、僕は203号室を出た。


-*-*-*-


 101号室のチャイムを押す。


 ――ピンポーン。


 返事はない。迷って、もう一度鳴らすと、「おぅい」と低い声が返った。


 50代くらいのオッサン――白のランニングにステテコ――が薄くなった頭髪を掻きながら出てきた。

 中年体型の脇腹からチラリと覗いた玄関先は、小綺麗に整頓されていた。


「突然、すみません。昨日203に越して来た雁屋といいます」


 怪訝な目で僕を上から下まで眺め回したオッサンは、慌てて会釈を返した。


「あ、これはこれはご丁寧にどうも。私、高梁(たかはし)と言います」


「よろしくお願いします。つまらないものですが、これ……」


「いやぁ、すみません。こちらこそ、よろしくお願いします」


 ビニール袋を差し出すと、高梁はさっきより深く頭を下げて、受け取る。

 卵形の顔に、人好きのする笑顔が広がった。


「ところで雁屋さん」


「はい?」


 高梁のオッサンは、内緒話をするような、妙に深刻めいた真顔で眉を寄せた。


「こういっちゃあアレなんですけど、前嶋の婆さんに……何か言われませんでした?」


「え? ええっと……」


「ははあ」


 馬鹿正直にドギマギしていると、オッサンはニタリと得意気に目を細めた。


「ここだけの話、あの人の言うことをあんまり真に受け無くても大丈夫ですよ」


「――はぁ」


「自治会なんて言ってますけどね、暇な年金暮らしの年寄りの道楽みたいなもんですから。適当に聞いて、適当に合わせておけばいいんですよ」


 親切心で忠告してくれているのかもしれないが、初対面の新参者に古参の住人の悪口を伝えるのはどうかと思う。

 このオッサン、笑顔を鵜呑みにしてはいけない気がする。ちょっと気を付けよう。


「分かりました。ありがとうございます」


「うん。それじゃあ」


 言うだけのことを言うと満足したのか、オッサンはササッと挨拶を残してドアの陰に消えた。


 僕は、一呼吸すると隣室のチャイムを押した。


-*-*-*-


 102号室は、3回チャイムを鳴らしたが返事がなかった。

 皆がみな、日曜日が休日とは限らない。後で――遅くならない程度の夜に、もう一度訪ねてみるか。


 僕は、隣の103号室のチャイムを鳴らした。


-*-*-*-


「――はぁい」


 チャイム1回で、即座に女性の声が返る。

 コージの母親だろうか?いや――彼は『親はいない』と言っていたはずだ。


 考えている間にドアのチェーン越しに、ショートカットの女性が覗いた。


「……あの?」


 警戒しているのか、チェーンを外さないまま、こちらを伺っている。


「あ、すみません。昨日、上の203に越して来た雁屋といいます」


「――ああ、そういえば足音がしてましたね」


 彼女は名乗りもせずに小首を傾げた。年の頃は20代後半か30代前半か。化粧っけのない肌は、少し赤みが差して汗ばんでいる。


「うるさかったですか? すみません」


「いえ。ずっと空室だったものですから」


「気を付けます」


「――それじゃ」


 そそくさとドアを閉じ掛けたので、慌てた。

 急いでビニール袋を差し出す。


「あ! 待ってください。これ……つまらないものですけど、よろしくお願いします」


「はぁ……どうも」


 彼女はチェーンを外さずに手一杯ドアを開けて、隙間からビニール袋を受け取った。

 その時になって、彼女の服装が灰色のダップリしたロングTシャツ1枚であることに気がついた。たった今まで眠っていたのか――襟元から覗く胸の谷間が深い。下着を、恐らく着けていないのかもしれない。夏の休日とはいえ無防備過ぎる。


 その時、部屋の奥から「おぉい、まだか?」と男の声がした。同居人がいるらしい。

 そういうことか――急に心臓が激しく跳ねた。


「はぁい。それじゃ、失礼します」


 返事を待たずに、そっけなくドアが閉じられた。


「あ、はい……」


 ドアに呟いて、踵を返す。不意討ち過ぎて、妙な汗が噴き出している。

 ――まったく、取り込み中なら、居留守で構わないのに。


 しばらく階段下の日陰で深呼吸して、気持ちを落ち着かせる。大丈夫、次は201号室の前嶋の婆さんだ。


 後に、103号室には「神田」という30代の夫妻が暮らしていることを知るのだが、この時の出来事で、僕の中ではあまり良い印象を持てなかった。


-*-*-*-


 201号室の前嶋婆さんは、差し出した箱ティッシュを受け取ると、半ば強引に僕を部屋に上げた。

 居間は、板張りの床の上に、い草のラグを敷いている。ラグの中央に、昔ながらの丸いちゃぶ台があり、壁際のテレビの正面の位置にゴザの座布団がこじんまりと並んでいる。

 普段、彼女がそこで過ごしていることが伺えた。


「年寄りの独り暮らしでしょ? ほら、そこ座って」


 ダイニングを示して、彼女はリビングの扇風機の首をこちらに向けた。

 小さなウッドテーブルに、向かい合わせのイスが2つ。


「いえ、まだお隣にも伺わないといけないので」


 座ると長くなりそうで、僕はやんわり退室の方向に持っていこうとした。


「――隣?」


 冷蔵庫からガラスポットを出していた彼女は、ピタリ動きを止めた。


「ええ、202号室に」


「……雁屋さん、不動産屋さんから聞いていないの?」


 シンクに向けていた身体をクルリと僕に直り、マジマジと見つめている。その表情は「何を言っているのか」と呆れているようだ。


「――え?」


「まぁ、いいからそこに座って。はい、麦茶」


 背の高いガラスグラスに7割くらい満たされた茶色い液体。涼やかに氷が2つ浮いている。

 前嶋婆さんの言葉の端が気になったので、仕方なしにダイニングのイスを引いた。


「すみません」


 自分用にもグラスを置くと、彼女も腰掛ける。

 僕が麦茶に口を付けるのを待ってから、


「お隣は、空き部屋よ?」


 と続けた。


「ええっ? だって、夕べ……」


 僕は、昨夜赤いブラウスの女性が隣に入る姿を見たことを話した。


「……女性?」


 前嶋婆さんの表情が、サッと掻き曇る。


「顔は、はっきり見えなかったんですけど」


 僕の言葉を聞いているのか――視線を落としたまま、麦茶のグラスをジッと見詰めている。


「あの……?」


「――こういう事、越して来たばかりの方に話していいものか……分からないんだけど」


 不意に瞳を上げると、様子を伺うように僕の目を覗き込んでくる。僕は、無言で頷いた。


「202号室ね、以前、背の高いモデルさんみたいな女性が住んでいたの。もう……10年以上前になるかしら」


 静かな口調に風鈴の音が重なる。

 スッと汗が引いた。


「その女性(ひと)、突然いなくなってしまって。荷物も全部置いて、消えてしまったの」


「――失踪……ですか?」


 触れていたグラスの氷がカラン、と音を立てた。


「雁屋さん、ご存知かしら。人間って、行方不明になってから7年経つと『死んだ』ことになるのよ」


「お隣――それきり、空き部屋なんですか……?」


「ええ。そういう曰く付きだから、空室なんですけど、不動産屋さんはあまり薦めたがらないのね」


 確かに、あのタコ顔のオヤジは『空室』と言っていたが、僕には『203』を薦めた。


 ――チリ……ン


 タイミングよく風鈴が鳴る。グラスに触れた掌が、嫌な湿気を滲ませていた。


「見える人っているのねぇ……」


 しみじみ独りごちる前嶋婆さんの言葉が、怯えた脳にストレートにこだまする。

 真昼の怪談かよ。やめてくれよな。そういう話、弱いんだ。


「あなたは、見たことないんですか?」


「私は年寄りですからねぇ。朝は早いけど、夜も早くに休んでしまうでしょ」


 意味深に微笑んで、彼女はゆっくりと麦茶を含んだ。

 僕もグラスに半分残った液体を流し込んだ。

 すっかり涼しくなっていた。


「ごちそうさまでした。出掛ける用事もあるので、そろそろ失礼します」


「あらそう。また何かあれば――いつでもいらっしゃいね」


「ありがとうございます。それじゃ、お邪魔しました」


「はいはい」


 穏やかな笑顔のまま、前嶋婆さんは僕を送り出し、ドアを閉めた。

 隙間から、部屋の風鈴が名残のひと鳴りを響かせて、消えた――。


 202号室には立ち寄らず、むしろ極力見ないようにして、足早に通りすぎる。


 うだるような暑さの午後3時。

 残ったビニール袋2つを下げたまま、僕は自室に逃げ帰った。



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