突然の引っ越し
【登場人物】
●「裏野ハイツ」住人
【101号室】高梁
50代男性・会社員
【102号室】阿倍
40代男性・無職
【103号室】神田
神田雅人、亜沙子
30代夫婦・共働き
【201号室】前嶋緋沙乃
70代女性・年金暮らし
【202号室】(?)
表向きは、空室。
赤いブラウスの美女が出入りしている?
【203号室】雁屋四朗
主人公・大学2年生
愛称・雁やん、シロちゃん
【?】コージ
4歳前後の人懐こい少年。
いつも黄色いTシャツを着て、裏野ハイツの前にいる。何号室に住んでいるのかは不明。
●映画サークルのメンバー
・坂元あい
四朗の元彼女
・涼太
合宿のリーダー
・賢輔
涼太の親友
・秀斗
映画撮影技術オタク
・マキ
あいと仲が良い
料理上手
・ユキ
涼太の彼女
・ぷりお
セクシーな泳ぎを披露する紅白の和金(金魚)
四朗になついて?いる
僕の名は、雁屋四朗。
「四朗」という名前だが、四男でも、四番目に生まれた訳でもない。ちなみに4月生まれでもない。
父が、伊東四朗のファンだった――らしい。
僕は雁屋家の次男で、長男は俊彦という。
賢明な方ならお察しかもしれない。母が、田原俊彦のファンだった。
話が逸れた。
関東地方が梅雨明けした7月20日、僕は引っ越した。
親の転勤とか就職とか、そんな理由ではない。
2年間付き合っていた彼女にフラれて、同棲していた部屋を追い出されたのだ。
大学進学と同時に実家を離れ、独り暮らしを始めた――が、家事などしたことのない次男坊だ。学生食堂とコンビニに生かされて来たが、すぐに代わり映えのない味に、飽きた。
大学の映画サークルで知り合った1学年下の『坂元あい』に惹かれて、なんやかやアタックの結果、同棲するまでに至った。
彼女の手料理は、決して美味いとは言えなかったが、僕の胃袋を満たすには充分だった。第一、彼女は家事を煩わしく思わない子だった。
「……油断してたんだよ、な」
水槽の中の『ぷりお』に呟く。
彼(性別不明)は、水槽のガラスを指先でトトンと叩くと、ツィ……と寄ってくる。
赤と白の和柄の衣をくねらせる姿は、いつ見てもセクシーで、
『こんな色っぽい金魚は、レアだわ。ディカプリオ級じゃない?』
あいの独断で、初デートの夏祭りですくった和金は『ぷりお』と命名された。
ペット、と呼ぶには微妙だが、『ぷりお』は僕になついている。
僕が世話係だった行き掛かり上、一蓮托生、宿無しになった。
「お前はいいよなー。働かなくても、空から餌が降ってくるんだもんなぁ」
粒状の乾燥した餌をひと摘まみ、パラパラと水に落とす。
旺盛な食欲で、『ぷりお』は餌を吸い込んでいく。
まるでシューティングゲームで、現れた敵を1人残さず片付けるように。
「僕にも給餌係が欲しいよ」
引っ越してきたアパート「黒田ハイツ」の周辺、徒歩7分の所にコンビニがあることは、確認済みだ。当面の僕のキッチンになるだろう。
それにしても――。
「バイト、探さなくちゃなぁ」
同棲の利点の1つは、家賃も光熱費も半分で済む、ということだ。
満腹気な『ぷりお』の様子をぼんやり眺め、それからガランとした室内に視線を投げる。
家具のほとんどは、あいの部屋に置いてきた。引っ越し費用を浮かせるために、最低限の身の回り品しか持って来なかった。
まぁ、男の独り暮らしなんてベッドと冷蔵庫があれば、いい。
――ピンポーン
チャイムの音に、酷く驚いた。側の、テーブル代わりの段ボールの上に無造作に置いたスマホをチラリと見ると――18:05。
居留守を決め込むにも微妙な時間だ。
――ピンポーン
僕の迷いを見透かしたような、再びの呼び出し音。仕方なく、腰を上げる。
「……はい」
「あぁ、やっぱりいたわね。こんばんは。201の前嶋です」
このアパートの住人らしい。ドアの覗き窓の凸レンズの向こうに、小柄な老婆の姿があった。
チェーンを外して、ドアを開ける。綿毛のようにフワフワの白髪を小綺麗に纏めたお婆さんが頭を下げた。
「突然、ごめんなさいね」
「はぁ……」
「改めて、初めまして。このハイツの自治会長の前嶋です。あなた――昼間、越してらした方ね?」
「はい。雁屋です、初めまして」
「一応ね、こんなちっちゃなハイツですけど、ゴミのこととか、生活音のトラブルとかあると困るので、自治会があるの」
「自治会、ですか……」
「ええ。でも、面倒な役割とか作業がある訳じゃないのよ。みんな快適に暮らしたいでしょ? 私は暇な年寄りだから、相談役みたいなものなのね」
「はぁ」
「雁屋さんも、何か困ったことがあったら、遠慮なく相談してくださいね」
「はい、ありがとうございます」
「雁屋さん、きちんとした方みたいで良かったわ」
「え……ええと」
「それじゃ、早速で何ですけど、このハイツの他のお部屋の方にも、ご挨拶しておいてくださいね」
前嶋老人は、上品に微笑むとペコリと会釈して、踵を返した。
呆気に取られつつ廊下を覗くと、スタスタしっかりした足取りで2つ隣の201号室に消えた。
……面倒だ。
今日日、都会のアパートでは、近所付き合いなんて習慣は死に絶えたんじゃないのか?
確か、不動産屋のオヤジが
『年寄りと、昼間働いてるサラリーマンしか住んでないから、改まった挨拶なんか不要ですよー』
なんて調子のいいことを言っていたのに。騙された。
ぼやいていても仕方あるまい。
ま、明日はちょうど日曜日だし、とりあえず何か適当にコンビニで調達して、挨拶に回んなくちゃならないだろう。
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スマホで『引っ越し』『挨拶』というキーワードで検索すると、アパートなんかの挨拶で配るには、ティッシュ箱が喜ばれる、という知恵袋情報が散見した。
いくつ在庫があっても邪魔にならないし、腐らない――というのが人気の理由だそうだ。
定番の持参品『ソバ』は、好き嫌いやアレルギーが厄介だし、第一、越して来たばかりの他人が寄越した食品なんて「気持ち悪い」という意見が多い。
確かに、下手に腹でも壊したら、ご近所トラブルの幕開けだもんな。
腹も減ったので、財布とスマホをジーンズのポケットに突っ込み、早速コンビニへ出掛ける。廊下には、青白い蛍光灯が各部屋の前の天井に取り付けられており、ぼんやり足元に影を作った。
お隣――202号室の前の蛍光灯が切れかけている。ジジ……ッ、という微かな音を立てて、不規則な明滅を繰り返している。
こういう事こそ、管理費だか維持費だかから予算をもらって、自治会が何とかしないのか?
201号室に皮肉な眼差しを投げつつ、階段を下り――。
「うわっ?!」
「えっ?!」
1階の集合ポストの前で、3歳くらいの男の子に出くわした。
誰にも会わないだろう、と勝手な予測で油断していた僕は、突然動いた小さな人影に間抜けな声を上げてしまった。
その素っ頓狂な大声に、出くわした男の子も目を丸くしている。
集合ポストのくすんだ朱色と対照的に鮮やかな黄色いTシャツ。栗毛がかった猫っ毛のような髪と、色白の肌。少し日本人離れした雰囲気だ。
「ご、ごめんね。驚かすつもりはなかったんだ」
時計は8時を回っている。こんな時間に他所の子どもがうろついているとは考えにくい。恐らくこのアパートの住人だろう。
「大丈夫。お兄さん、誰?」
ボーイソプラノの細い声。彼の姿を見なければ、少女が発しているようにも聞こえた。
「あ――僕は、今日2階に越してきた……雁屋っていうんだ」
「カリヤ?」
「そう、雁屋四朗」
「フウン」
こんな小さな子を独りで夜まで遊ばせるなんて、随分度胸のいい親だ。育児放棄なのか、単なる共働きの留守番なのか?
「君は、ここの子?」
「ウン。ボク、コージ。よろしくね、シロー兄ちゃん」
なつかれてしまった。
前歯の生え揃っていない口をニパッと大きく開けて、コージは人懐こく笑った。
「もう遅いから、家に入った方がいいよ。入れるんだろ?」
「ウン。じゃあね」
「ああ……またな」
コージは一番奥の部屋の方に掛けて行った。黄色いTシャツが薄暗がりの中に溶けたのを視界の端で捕らえつつ、僕はハイツを後にした。
梅雨が明けた7月末。
まだ熱帯夜にはならないものの、深夜のコンビニやファミレスは避暑地になりつつある。
最寄り駅から幹線道路を一本裏道に入った、住宅街の一角にあるコンビニは、いかにもフランチャイズ経営とおぼしき50代の店長と、茶髪に耳ピアスのお兄さんがレジに立っていた。
食料や雑誌なんかと一緒に、5箱250円の箱ティッシュを買って――ついでにトイレットペーパーも買う。こういう日用雑貨は、ドラッグストアでも探して買わなくちゃ、割高だ。
今まであいが切らさずに『特売』や『ポイント2倍デー』にまとめ買いしていたことを思い出す。
つくづく、僕は生活の多くを彼女に頼ってきたのだと実感した。
コンビニからの帰り道、黒田ハイツの50m手前で、細い路地から派手な赤いブラウスの女性が現れた。
長身スレンダーな後ろ姿美人。オフホワイトのスキニーパンツに包まれた美脚の先には、ブラウスと同色のピンヒール。
夜風に揺れるキャラメルブラウンの長髪に隠された容貌に期待する。せめて彼女の横顔くらいは確かめたい。
僕は、失った恋に固執する質ではない。
ご近所に新たな出会いがあるのなら、喜んで飛び込もうじゃないか。
コンビニ袋の中のソーダアイスが柔らかくなるのを気にしつつ……一本道を付いて行く。怪しまれない程度の距離を保ちながら。
――あれっ?
コンビニから15分くらい歩いたはずなのに、彼女の足が向かった先は――黒田ハイツだった。
まだ土地勘がないので、どこをどう歩いたのやら、分からない。
咄嗟に、電柱の陰に身を潜ませる。
赤いブラウスの彼女は、周囲をチラチラと伺うと、足早に黒田ハイツの階段を上がった。
ええっ――まさか、同じハイツの住人なのか――?!
2階の廊下は、相変わらず202号室の前が点滅している。
そのスポットライトのような青白い光の中、彼女は滑り込むようにスルリとドアの中に消えた。
心臓が早鐘を打っている。
『202号室は空室ですよ』――不動産屋のオヤジには、また騙されたみたいだ。
でも。こんな嬉しいサプライズなら、あのタコ顔のオヤジも許せるってものだ。
「……挨拶回りが楽しみだなぁ」
「兄ちゃん、何、見てるの?」
「わああああっ?!」
急に声を掛けられて、また間抜けな声を上げてしまった。
電柱の反対側にコージがポツンと立っていた。さっき部屋に入ったんじゃないのか?
「コージ、お前こんな時間に外出ていいのかよ」
無様な姿を二度も見られた反動で、ついムッとした物言いになる。
「いいの」
ツン、と澄まし顔で僕を見上げる。その平然とした様子に、彼に取って夜間の外出が、まるで当たり前のことなんだと伺える。
「親は、叱らないのか?」
「だって――いないもん」
しまった。デリカシーが無さすぎる。つい口にしてしまった一言に、軽く自己嫌悪だ。
「……そっか。だけど、世の中には悪いヤツもいるんだから、暗くなったら部屋に帰れ」
親と住んでいないなら、誰と住んでいるのだろう?
疑問に感じたが、これ以上触れることは、さすがに自重した。
「兄ちゃん」
「うん?」
「悪いヤツって、どんな人?」
「そうだなぁ……」
純真な眼差しに、動揺が走る。僕は、考え考え、言葉を選ぶ。
「コージをさらって家に帰さないとか、痛い目に合わせるとか……」
「フウン。ボク、遠くに行かないから大丈夫だよ」
「お前が行かなくても、悪いヤツは車とかに乗せて、連れてっちゃうんだよ」
話しながら、僕はゆっくりハイツに向かって歩き出す。それにつられてコージも付いてきた。
「……ボク、車に乗ってみたい」
「おいおい。危ねぇなぁ」
初対面の僕にすぐなついたコージのことだ。ちょっと優しい笑顔を差し出したら、ピョコピョコ付いて行くんじゃないだろうか。
「お前、何号室に住んでるんだ?」
「え、あそこ」
指差したのは、1階の一番奥――103号室だ。
なんだ、僕の部屋の下じゃないか。
「……じゃあ、そろそろ部屋に帰るぞ。お前もちゃんと帰れよ、コージ」
「はぁい」
小さな手でバイバイをして、彼はパタパタ駆けて行った。
妙な友人が出来たものだ。苦笑いを口元に浮かべたまま、鉄骨の階段をゆっくり上る。
僕は、緊張しつつ廊下を進んだ。結局、赤いブラウスの隣人の顔をしっかり捉えることはできなかったが、明日の挨拶回りで拝むまで――妄想に胸ときめかせることにしよう。