料理のさしすせそ
「料理のさしすせそ」と古人は今に伝える。この文言を知らずに料理をするなかれ、と日本に生まれた者ならば小さいころから耳にタコが出来るくらい訊かされてきたことだろう。しかしながら、外食産業の隆盛を極める現代では、かような文言の意味を知らぬ輩が増えているそうだ。「さしすせそ」の「さ」は何か、「す」は何かと聞かれても答えられぬ者が多く、仮に答えらえたとしてもそれは全く的外れな解答であることもしばしば。
例えば「し」は何かと問えば、最近では「シュガー」や「シトラス」と答える人が大半だと言われている。中には「シカゴピッツァ」などとと言い張るアメリカンテイストな人もいるに違いない。しかし、現実は非情である。もちろん、「シースルー」でも無ければ「シントン反応」でも無く、「シオマネキ」や「シオニズム」も残念ながら違う。
そう、正解は「塩」である。
古来より塩には浄めの作用があると云い、塩を撒く人々や、四隅の盛塩などは日の本の国では非常に有りふれた光景であり、偶然幽霊に遭遇してしまったときも塩さえ撒いておけば、自然と成仏してくれるはずである。
だが、そんな「塩」に対して小さな疑問が浮かんで仕方がない。
例えば塩に浄化作用があるのなら、それを水に溶かしたものであっても十分に身を清めてくれるはずである。古事記にも、黄泉国から帰ってきた伊佐那岐命が海の中で穢れを洗い流したとあるではないか。
だが、もし海水に浄化作用があるのなら「舟幽霊」や「海坊主」のような海に棲まう物の怪たちは、一体どのようにしてその存在を保っているのであろうか。何しろその身を年柄年中、塩水に浸けているのだから、それはもう浄めに清められ、今に成仏なり消滅なりしてしまってもおかしくはないはずだ。しかし、そうなると彼らが人前に姿を見せるなどということはまず有り得ない話であるし、世の怪談話に彼らの名前が出てくることすら無い筈である。
海坊主しかり、セイレエンしかり、一体、海に棲む妖魔はどのようにして、そのような矛盾した存在感を保っているのだろうか。
そんな疑問を抱え始めて数ヶ月が経ったわけだが、ようやく私はあることに気が付いた。なんと、人工的に調整した食塩水と天然の海水はその組成が全く異なるのである。具体的に云えば、海水には塩化ナトリウム以外にもカルシウムやマグネシウムなどの鉱質が多量に含まれており、これが先程の疑問を氷解させる鍵となったのだ。
財団法人『食卓塩と進歩委員会』と東京都大学海妖学部との共同研究論文に拠れば、日本海沖から採取してきた舟幽霊を二つの群に分け実験を行ったところ、飽和食塩水を与え続けたグループは99%近くが成仏したのに対し、塩化カルシウムと塩化マグネシウム、塩化ナトリウムの混合溶液を与え続けたグループは過半数が成仏に対し耐性を示したのだと云う。このカルシウムやマグネシウムによる、食塩浄化作用の阻害機構については、いまだ詳しいことは分かっていないが、おそらく浸透圧やイオンチャネルへの影響が関与しているのであろう。
要するに、海に棲まう妖怪たちは海水中のミネラルのおかげで、塩化ナトリウムによる浄化作用から身を守っているのである。逆に言えば、それほどまでに塩化ナトリウムは極めて強い浄めの力を持っていると言えよう。昔に比べて妖怪や幽霊だとかいう話題が少なくなったのは、ひとえに工業生産された食卓塩にあると言っても過言では無い。国営煙草工業社が国力の粋を集めて精製した食卓塩は99%の塩化ナトリウム含量を誇り、譬え伊吹山の悪鬼といえども、この食卓塩を前にして浄められぬはずが無い。昔はミネラル含量の多い天然塩が流通していたため、塩によって成仏する幽霊はそこまで多くなかった。そのため、夜になれば巷には魑魅魍魎が跋扈し、多くの妖怪譚や怪奇譚が綴られるようになった……というのは想像に難くない話だろう。
しかし、そのような魑魅魍魎悪鬼羅刹を驚異的な浄化作用で以て一網打尽に成仏させてしまう食卓塩を、私たち人間が口にして果たして大丈夫なのだろうか。技術の進歩によって、人の生活は昔では考えられぬようなほど豊かになった。しかし、その一方で失ったものも多くある。化学的に合成したソディウムクロライドの塊は妖怪だけでなく、私たち人の心までをも消し去ってしまったのではなかろうか。人類は今一度、昔のような豊かな心を取り戻すべきなのではないのだろうか。
そう、真の意味での豊かな生活を取り戻すための第一歩として、まずは我が社の「100%天然由来 ミネラルたっぷり奇跡のお塩」はいかがですか?
……などと言う話を小一時間ほど、訪問販売員らしき男が話していた。
私は玄関先で辛抱強くその男の話を聞き続け、帰ってもらう切っ掛けを紳士的に探っていたのだが、男はしぶとく話を続けた。そして、男が後ろの方から商品らしき塩の袋を取り出してきて、その塩袋が10kgという米袋を彷彿させる重量感であったことから、この販売員は私のことを漬物業者か何かと勘違いしているのではないかと呆れ返ってしまったが、私が呆れ顔を浮かべる暇も無く、
『今なら御奉仕価格でお値段なんと、20万円! どうです、お安いでしょ!』
などとこの男は言ってのけるのだ。そのとき、私の怒りは遂に極限にまで達してしまった。塩のことでここまで腹を立てたのは「伯方の塩」がメキシコ産だと知ったとき以来だ。
私は流し台の横にたまたま置いてあった食卓塩を手に取るなり、怒りに任せて赤い蓋を開け、力の赴くままに販売員に投げつけた。すると、全身に塩化ナトリウムの粉末を浴びた訪問販売員は『ほげぇえええ!』という奇声を上げながら、塵となって跡形も無く消えてしまった。
流石、塩化ナトリウム99%の食塩である。99%の成仏率は伊達では無いのだな、と私は一人で納得して玄関を閉めた。