第9話:鉄の檻と濁流の牙
第9話:鉄の檻と濁流の牙
1. プロの眼前に広がる「地獄」
ゴムボートが激しく傾斜した船体に横付けされる。
「これ以上は無理だ、ボートが巻き込まれる!」
操船者の怒号とともに、オレンジ色の救命胴衣を纏った二人の男が、沈みゆく巨体へと飛び移った。
海上保安庁、機動救難士の青山と、そのバディである黒崎だ。
彼らは数々の修羅場を潜り抜けてきた潜水のスペシャリストだった。だが、目の前の光景に、青山はヘルメットの下で息を呑んだ。
黄金のガルーダを掲げた白亜の客船は、今や右舷を下にして力なく横たわり、断末魔を上げている。船内からは、逃げ遅れた生徒たちの悲鳴と、それを飲み込もうとする激しい水音が混ざり合い、異様な共鳴音となって響いていた。
「黒崎、行くぞ! 浸水箇所を特定し、生存者を上部デッキへ誘導する!」
「了解!」
二人は浸水が始まった通路へと、文字通り「飛び込んだ」。
2. 逆流する「牙」
船内に入った瞬間、二人が直面したのは、想像を絶する「水」の暴力だった。
傾斜した通路は巨大な「樋」と化し、衝突箇所から噴き出した海水が、逃げようとする人間を嘲笑うような速度で逆流してくる。
「……ひどいな。過積載のせいで仕切壁が歪んでやがる。水が止まらん!」
黒崎が叫ぶ。
本来なら水密扉で区画を閉鎖し、浸水を食い止めるはずだ。しかし、無理な積荷で船体が歪んだブルーガルーダ号は、その「安全装置」すら機能しなくなっていた。
濁流は、船内の備品や割れたガラス、そして誰かが遺した鞄を巻き込み、猛烈な勢いで二人を押し返そうとする。
「青山! 前に進めない! 流れが強すぎる!」
黒崎の声に、青山は手すりに命綱をかけ、必死に水の壁へと挑んだ。
視界は泥と油で混濁している。ライトの光も数センチ先で反射し、濁流の底に何があるのかさえ判別できない。その暗闇から、時折、流されてきた椅子や机が凶器となって襲いかかってくる。
3. 指の隙間から零れる時間
「助けて……! ここに、誰かいます!」
濁流の轟音の向こうから、若い声が聞こえた。櫂の声だ。
青山はライトを向けた。
数メートル先、浸水した通路の奥で、腰まで水に浸かった櫂が、怪我をしたクラスメイトを必死に支えながら、迫りくる濁流に抗っている。
「今行く! 動くな!」
青山が叫び、一歩を踏み出す。だが、その瞬間、船体が「ドォォォン」と大きく震え、さらに数度、深く傾いた。
その衝撃で、浸水の勢いがさらに増す。
青山と黒崎の間を、巨大なコンテナの残骸が爆速で通り抜けていった。
「青山! 引け! 戻れ!」
黒崎が青山の肩を掴んで引き戻す。あと数センチ遅ければ、二人は濁流の底へ叩きつけられていただろう。
「クソッ……!」
青山は、目の前に生存者がいるにもかかわらず、物理的な水の壁に阻まれる自らの無力さに、ヘルメットの中で絶叫した。
プロの技術をもってしても、この「大人が作った過積載の罪」がもたらした濁流は、あまりに重く、あまりに鋭い牙を持っていた。
「……諦めるな! 俺はここにいる! 離さないからな!」
濁流の向こうで、櫂が叫んでいる。その瞳には、恐怖を越えた執念が宿っていた。
青山はその視線を受け止め、再び、濁りきった水の壁へと手を伸ばした。




